前夜を作る老婆

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ぼんやりとここ2週間のマサキのことを考えていると急に鼻の奥にズシンと鈍い衝撃が走った。わさびを口に含み過ぎた時のあの感じだ。 忘れていた!明日の朝9時にはニューヨーク行の飛行機に乗らなければいけないんだった。楽しい旅行の前日にこんなところで油を売っている場合ではない。僕は急いで走ってシェアハウスを目指す。 シェアハウスに着くと勢いよくドアを開け、靴を脱ぎ捨てる。ちょうどアキラがトイレから出てきたところだった。 「ユウタ、そんな慌ててどうしたよ?」 「明日の朝、ニューヨーク行きの飛行機乗らなきゃいけないのに、準備してなかったから!」 「えっ!?ニューヨーク!?そんな事言ってた?」 「ずっと言ってただろ!」 アキラは放っておいて、滞在に必要な衣服、電子機器やその充電器など、ありとあらゆる旅行必需品を部屋からかき集めて旅行鞄に放り込む。なんで今日の今日までまったく準備をしていなかったんだろう。 ・・・ なんとか荷物の準備がひと段落して、ベッドに寝転がる。 そうしてぼーっとしていると、なんだか体の内側からわくわくした気持ちが湧いてきた。明日の九時、オレはニューヨーク行の飛行機に乗る。エコノミーだから背中は少し痛いだろうけど、それでも憧れのニューヨークだ。 なんだかんだ言って、楽しい予定はその当日より前日の夜が1番楽しい。難なら当日がずっと来なきゃいいのにとすら思う。前夜のワクワクが1番強い。始まってしまえば、もう後は終わりに向かっていくだけ。イベントが始まる前夜のこの感覚がとても好きだ。 妙に目が冴えてきてしまった。マサキを追いかけて入ったあの場所でも寝てしまったし、今日は眠れないかもしれない。 ◇◇◇◇◇ 「おいユウタ!ユウタ!ニューヨーク!」 アキラの顔の近さがキスを迫るようで体を必死に遠ざける。 「なんだよニューヨークって、俺今日普通に大学だし!」 「いや、お前が昨日帰ってきてニューヨーク行くのに荷物まとまってないって騒ぎだしたんだろ!それに朝の便で9時だって。」 アキラが何の話をしているのか分からない。頭が追い付かない。でも、確かに部屋の端には1番大きな荷物が入る自分の旅行カバンがパンパンになって置いてある。オレが、準備したんだろうか。 アキラは「二人ともこんな調子かよ」と吐き捨てて部屋から出て行った。 ジーンズを履いたまま寝ていたので、ポケットからスマホを取り出そうとすると、紙の感触があった。 クシャクシャになったその紙を広げると、小さなチラシだった。 『サービスにはご満足いただけましたでしょうか。弊社は旅行やデートなどお客様の人生で忘れられない大切なイベントの「前夜の気持ち」を提供しております。イベントって、始まる前日の夜が一番楽しくありませんか?というか、もはや前日の夜だけで十分じゃありませんか?どんな「前夜」も承ります。お客様のまたのお越しをお待ちしております。 ーわくわく前夜一同ー』 チラシの中央にはデカデカと見覚えのある満面の笑みの老婆が載っていた。
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