キックオフ

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キックオフ

 降りそうで降らないのは、ところどころ雨雲の隙間から明るい光が()れたかとおもうとすぐに(かく)れてしまうからで、それを眺めるだけでよけいに心がざわめいてくるのは、と別れたばかりの真吾にはむしろ当然のことだった。  授業にも出ず、大学が借り上げている旧大手商社の独身専用マンションの一室で、ほぼ十日あまり引き込もっていたとき、母の律子から電話があって、 『帰ってきて……手伝いなさい!』 と、一時帰省を半ば強要された。  選挙の手伝いの要請である。 『……あのね、散々、お世話になった田原崎(たはらざき)センセの弔い合戦なの! お父さんは現職の市長だから大っぴらには動けないから、せめて息子のあなたを……』  そんなことを言っていた。  まるで人質にでも差し出すような表現は、それでも小中の頃から父親の選挙戦の様子を垣間見てきた真吾には、それほど違和感はなかった。  第一、政治家の世界には、もう死語になっていてもおかしくはない熟語が平然と日常的に使われている。常在戦場。呉越同舟。勇猛果敢。意気軒昂……。数え上げればキリがない。  律子が言った“弔い合戦”などは、学者が聴けばイミフの最たるものだろう。なにも敵に殺されたわけではなく、ただ病死しただけの衆議院議員、田原崎翔一郎の補欠選挙にすぎない。  ……とはいえ、次期総理の呼び声も高かった田原崎の急逝(きゅうせい)が、政界に激震を走らせたことは事実であった。現職の産業経済大臣であり、与党・新民自党(略称・新自党)の第二派閥〈志翔会〉(通称・田原崎派)会長の五十六歳での病死は、翌年に総選挙を控え、野党第一党の民主憲政党(略称・民憲党)が他の野党との選挙協力を加速させており、政権交代は絵に描いた餅ではなくなりつつある……そんな緊迫する情況下での補欠選挙であった。  対する民憲党はここぞとばかり、前・播舞(はりまい)県副知事を担ぎ出し、気勢を上げていた。すでに、年内にある参議院議員選挙への出馬を表明しており、その準備が進む中、急遽(きゅうきょ)衆議院議員に鞍替えしての参戦だけに、田原崎の地元後援会にしてみれば強い危機感があった。  誰を……、現職・元職(もとしょく)の県議、落選中の国会議員など候補は複数名のぼったものの、選挙に勝ち抜くために欠かせない、知名度と瞬発力はなかった。……そこで、白羽の矢が立ったのは、田原崎の長男、(しょう)であった。かれには知名度はなくとも、“田原崎”の名は大きい。長男が出る……弔い合戦……という図式こそ、旧態依然とはいえ、無党派層の同情票を集めるには最大の武器なのだ。  真吾は、翔には会ったことは一度もない。  父の選挙……舞須(まいす)市長選挙には、そのつど田原崎御大(おんたい)自ら応援に出向いてくれたもので、これまでも田原崎大臣には何度も挨拶をさせられていた真吾は、翔という息子、しかも二十代後半の青年がいたことなど母の電話で初めて知ったほどである。 『……手伝わなきゃいけない?』 『当たり前でしょ! 次の市長選でもこちらはお世話になるのに……あなたも、小さい頃から、田原崎センセには実の息子のように可愛がってもらっていたでしょ! 御恩返ししなくっちゃ、わたし、恥ずかしくて、これから外を出歩けなくなる……』  そんなことまで言い出されて真吾は苦笑するしかない。とはいえ、失恋の痛手を癒やすにはうってつけの帰省かもしれないと、しぶしぶながらも承諾した。  播舞(はりまい)県は瀬戸内海を臨む景勝地を持ち、山側の大規模造成プロジェクトをはじめ、島々を結ぶ橋梁道路の建設、大学誘致、国立研究機関誘致などを推進してきたのが、戦後(太平洋戦争)、衆議院議長、総理大臣を輩出してきた田原崎一門であった。  とりあえず真吾は帰省の準備をした。  新幹線の予約をすませたばかりの真吾の携帯電話に、登録されていない番号からの着信があった。  一瞬、迷ったが真吾は受けた。 「はじめまして……コジマと申します。このたびは、田原崎の選挙をお手伝いいただけるとのことで、ありがとうごさいます。エアチケット、お取りしておきました……まずは……永田町の議員会館まで起こしいただけますでしょうか……」  溌剌(はつらつ)とした若い女性の声だった……。
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