走り出す

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 しかし、私はその怪しげな靴を捨てられなかった。  言い訳をさせて頂く。この靴は、ただひたすらに便利だったのである。  勝手に走り出す靴とは何と恐ろしい、と慄いたものの、私は生来の無精で気の小さい性格が嘘のように、人気のない早朝その靴を履いて、近所を走り回った。  そうしているうちに、笑うことなかれ、徐々に靴は私の意思を汲み取るようになってきたのである。  私が脳内で「コンビニ行きたい」などと思い浮かべると、靴は最短ルートで連れて行ってくれる。「桜並木を通って行きたい」などとルートの希望がある時は、それを汲んでくれる。出来る限り人気の少ない道を通ったが、歩行者や車には、私より先に靴が気が付き、避ける。絶対にぶつかることはない。  つまり、私がボケーと「会社連れてって」と思っているだけで、靴は勝手に連れて行ってくれるのだ。何たる楽チン。嗚呼素晴らしき哉。  しかし、問題点が一つ。靴は走行しかできないのである。歩行のスピードに落としてくれない。私の足に深くフィットしているため、脱げる心配などはあまりないが、妙齢の女が真っ赤なハイヒールで走る光景は異様である。  最初は人目を気にして早朝にしか履かなかったものの、そのうち慣れてきて、通常の出勤時間にハイヒールで走って会社へ行くようになった。ある時集団登校のチビッコ達が私を見て「あっ、爆走ハイヒール女だ。ヤバい、もう8時か」と言い合っているのに気がつき、何だかどうでも良くなった。  とはいえ、一応の嗜みかしらん、と思って、私はハイヒールを履いても、そんなに奇異ではない服装を心掛けるようになった。  洋服に全く関心がないので、それまでは平気でネズミ色の上下なんかで外に出ていたのである。さすがに赤いハイヒールにそれはおかしかろうと、無難なブラウスと細身のジーンズなんかを合わせるようになった。  そうすると会社の男どもが「何だか最近お洒落になったじゃない」などと鼻の下を伸ばして近づいて来るようになる。「無恥な奴らめ」と私は思いながらも、そう悪い気もしなかった。
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