走り出す

4/7
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 靴と私の生活は、そのようにしばし平穏だった。  しかし、靴が私のところへ来て三ヶ月ほど経った、夏の盛りのこと。靴は初めて、文字通りの暴走をした。  私が会社から帰ろうと社屋から一歩出ると、靴はいつもの道では無く、反対方向へ向かって走り出した。 「どうした、どうした」  私は慌てて叫んだが、靴は聞かなかった。人の多い目抜き通りに出て、さすがに靴は人にぶつからないようスピードを緩める。 「どうしたって言うんだ、ちょっと落ち着こう」  靴は私を無視して、競歩のような早足でサッサと進み、やがて一人の青年の前で止まった。  そこはコーヒーチェーン店だった。学生風の青年が、テラス席で文庫本を読みながらアイスコーヒーを啜っていたが、目の前で立ち止まった私に当惑した。 「……何かご用でしょうか?」  私が聞きたい。靴は動こうとしない。  困った私が言い訳を探していると、青年が履いている靴に目が留まった。よく見るブランドの白いスニーカーだったが、綺麗に磨いてあった。 「素敵な靴だと思って」  私が言うと、青年は驚いたようだったが、はにかんで礼を言った。 「お姉さんの靴も素敵ですね、とても似合ってます」  私は自分の靴を見下ろした。ぽっと朱に染まっているが、それはいつものことである。  靴よ、まさか君は彼の靴に恋をしているのではあるまいな。  それからも靴はやたらと彼のところへ行きたがった。彼はあのカフェがお気に入りで、夕方バイト前の時間によく居た。  靴があまりに度々私を連れて行くので、爆走ストーカー女だと思われるのではないかと冷や冷やしたが、なぜか彼は私が走って行くと喜んでいるようだった。とんだ変人で助かった。  走り出した靴の恋を応援したい。私は思った。この靴はきっと長いこと一人ぼっちで寂しかったのだ。折角このような霊力を得て神となったのだから、私のような色気の無い女の履物に甘んじるだけではなく、新たな「靴生」を謳歌してほしい。  そう思って、靴に付き合ってせっせとそのカフェに通う日々が続いた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!