走り出す

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「付き合ってくれませんか」  彼がそう言ったのは、夏の終わりのことだった。私は、ハイヒールを履いた自分の脚の影がアスファルトに長く伸びているのを見ていた。 「私はあなたより年上ですよ」  私は氷の溶けたアイスコーヒーをストローで掻き混ぜながら言う。 「僕はそんなことは気にしません。あなたが好きなんです」  私達は見つめ合った。いつの間にか、私は生まれて初めて恋をしていたのである。  彼が私のマンションに来て靴を脱ぐようになると、私は、私の靴と彼の靴を隣同士に寄せた。靴は喜んでいるだろうか。分からない。靴は私が履いていないと、ぴくりとも動かないのだ。  私は彼にだけ靴の秘密を話したが、彼は笑わず、「不思議なことがあるものだね」と感心していた。 「何にせよ、その靴は僕達を結び付けてくれた恩人、違う、恩靴というわけだ」 「そう、恋のキューピッド靴だね」  私達はうふふと笑い合った。  靴と私に今生の別れが訪れたのは、秋も深まった頃のことであった。  私は出勤途中、見通しの良い4車線道路の交差点で信号待ちをしていた。靴は躾の良いプードル犬みたいにスンと両足を揃えて赤信号を見つめている。私はふとスマホが震えたような気がして、通勤カバンの中を探った。恋人からのおはようというメッセージだろう。  金属の塊が衝突する激しい音が轟いたのはその時だった。すわっ、と私が顔を上げるよりも早く、靴が物凄い勢いで後ろへ飛び退る。私は歩道に身を投げ出され、靴は脱げた。  まるで巨大な鳥のように、白いミニワゴンが横ざまに飛んできて、電信柱とガードレールにぶつかり、先程まで私が立っていた位置に落下した。無理に右折しようとした対向車に衝突して、直進のミニワゴンがふっ飛ばされてきたのだった。フロントガラスの破片が呆然とする私の上にぱらぱらと降り注いだ。  酷い捻挫をしたらしい私は、這いつくばって靴を拾い、震えながら胸に抱いた。右は根本からヒールがポッキリ折れ、左は辛うじてブラブラと下がっているものの、側面のエナメルが大きく裂けていた。 「靴よ、しっかりしろ」  靴はうんともすんとも言わなかった。それはいつものことだったが、私は泣いた。涙を流したのは、高校生の頃祖父が亡くなって以来のことだった。  靴は私の命を救って身罷ったのである。  その後、靴修理の店に靴を持っていったが、その酷い有様にどの店も匙を投げた。 「きっと、靴の魂は神様の国に帰ったんだよ」  恋人はそう言って、私を慰めた。  私は靴を出来る限り綺麗にしてから、シューズクローゼットの一番上にしまった。  君は自分の殻に籠もった私に、どこにでも自分の好きな所へ向かって走り出せと言ってくれたのだ。ありがとう、私の靴、私の友人。
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