走り出す

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 靴を見れば、その人の人となりが分かるという。  それが正しいのだとしたら、私は派手で勢いのある女ということになるのであろうか。  その靴を手に入れたのは、麗らかな春の夜であった。私が会社帰りに公園の自販機に寄って、缶コーヒーを買っていたら、ふと近付いてきた見知らぬ老婆に貰ったのだ。派手な紫色のワンピースを着た婆だった。 「あなた、この靴を差し上げよう。私にはヒールが高い。大丈夫、新品だから」  彼女は戸惑う私に紙袋を押し付けて、老婆らしからぬ敏捷さで公園を出ていった。  紙袋の中には、靴が一足入っていた。当然気味が悪い。であるのに、私はなぜかその紙袋を大事に抱えて帰宅し、マンションの玄関で履いてみた。サイズもピッタリだ。  姿見に映して見る。それは夜の蝶が履くような、真紅のエナメルのハイヒールであった。先がキュッと尖って、細いヒールの高さは7センチである。  私は、靴といえば、スニーカーと仕事用のローファー位しか履かない女である。こんな派手なハイヒールが似合うわけがない。  そう思っているのに、まるで熱に浮かされたように気分が高揚し、私はついついそのハイヒールを履いたまま、玄関から一歩外へ出た。  余程良いクッションが入っているのか、靴は私の足にぴたりと吸い付いたようにフワフワしていて、履き心地が良い。  二歩、三歩、歩いて、違和感を感じた。足が軽い。ほとんど力を入れていないのに、前へ進む。  妙だな、と思った時、私は走り出していた。違う。靴が走り出していた。靴が勝手に走っていたのである。 「何だ、これは」  叫んだ自分の声がビュンと後ろに流れて行く。赤いハイヒールは、とっぷり日の暮れた住宅街を駆け巡り、町内を一周して、またマンションに戻ってきた。無論、私をニョッキリと生やしたままである。 「何だこれは」  私は息を切らして、もう一度呟く。  とんでもないものを手に入れてしまった。そう思った。
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