救いを求めて三千里。

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 そのプラットホームに足を踏み入れたのは、宵月遙華だけだった。コンクリートはひび割れ、自動販売機は錆び、もはや作動するかも怪しい有り様である。木製のベンチに腰かけ、ぴくりとも動かないご老人と宵月しかいない吹き抜けの駅。だんだんと雨が屋根を打ち、湿気を含んだ生温い風がゆるゆると横を通り過ぎていった。まだ嫌な湿気が残る七月。ぽたぽたと雨粒の滴る傘をゆっくり回し、常緑の故郷を一望する。 (……何年ぶりかな)  長年伸ばしてきた黒髪を翻し、わずか三つしかない改札に向けて階段を降りた。田舎のくせに、老人に優しくない急な階段である。もっとも、宵月は老人ではないのだが。  五線譜とペンケース、ポーチと水筒、小銭しか入っていないがま口財布が入った鞄を持ち直し、PASMOで改札を通ると、立ち止まって胸ポケットに手をかけた。未だ慣れていない手つきでマルボロを取り出し、百均で買った安物のライターで火を付ける。口に咥えて数秒、苦笑がこぼれた。 「にっが」  ふーっと吐き出した白い煙は細くたなびき、灰色の空へと吸い込まれて消えた。  仏壇も墓も持たぬ母への、弔いの線香のつもりだった。あまりにも、濁りすぎてはいるものの。 『積もる話もあるでしょう』  いってらっしゃい、と、育ての母の声が蘇る。  おそらく、あの人は気づいている。気づいていてなお、宵月にこの選択を選ばせてくれた。 「いってきます」  唇の裏でそっと呟き、傘を差して歩き出した。 ***  駅前の大通りにはラーメン屋やらコンビニやらが屹立しており、時折軽トラが大通りを闊歩する。田舎ゆえか、車通りも人通りも少ない。宵月にとっては丁度良かった。  灰色の水溜りを蹴りながら進み、道路横の石の階段を降りると、稲穂の揺れる田園風景が広がっていた。雨で視界は濁って見えるが、紛れもなく私が待ち望んだ故郷だった。風が吹く。さわさわと葉が音を立てる。  道は感覚で覚えているのが不思議だった。スイミングを習っていたのを思い出す。小学五年生で辞めて中学に上がり、初めての水泳の授業。泳げるかなと不安だったものの、いざ水に浸かれば驚くほど上手く泳げた。やはり大事なことは体が覚えているのだろう。それと、同じ。  田んぼを横切り、緑陰に守られながら歩いた。涼風が心地いい。心が正常になる気がする。木の葉から落ちる雨粒が奏でる音色に耳を傾け、見えてきた日本家屋に目を向けた。  名も知らぬ山の懐に抱かれるようにして立つ日本家屋。寂れて廃れてぼろぼろで、緑の蔦が這っているような家なのに、なぜか綺麗だと思ってしまう。そして、目の前にその家がどんと腰を据えている様を見ると、不思議と笑顔になれた。 「ただいま」  人生で一番、自然に言えた「ただいま」かもしれない。傘を閉じ、誰からも忘れられたような廃墟の門戸をくぐる。鍵はかかっていなかった。
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