救いを求めて三千里。

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 当然家の中は閑散としており、一歩歩くたびに埃の足跡がついた。ギッと悲鳴は鳴り止まず、挙句の果てには雨漏りすらしている有り様だ。放置されて長いのは知っていたが、ここまでただの木材の寄せ集めに成り果てるとは。思わず苦笑が浮かぶ。  靴下が汚れるのも構わず板張りの廊下を進み、するりと襖をあけて、畳の居間を眺めた。古ぼけたちゃぶ台も、箱型のテレビも、そのまま。  その奥には縁側があって、庭には背の高い雑草が繁茂していた。小さい頃、松ぼっくりが落ちてくるのをきゃっきゃと眺めていた松の木も、老木となって枝葉を伸ばしている。夏はここで家庭菜園をし、摘みたてのトマトを頬張って、あまりの酸っぱさに目を白黒させた。春にはプランターでアネモネやプリムラを愛で、冬には雪達磨を作った。思い出が次々に蘇る。  埃はないが、その代わりに苔むしていて、板は腐れ落ちている。少し躊躇ったが、それでも縁側に腰を下ろした。  雨はまだ続いている。 「……お母さん」  鞄を膝に乗せ、目を伏せて語りかけた。 「私、二十歳になったよ。もう大人で、成人してるんだよ。引っ越したのは五歳のときなのに。時の流れって早いね」  遠い昔に、病気で亡くなった母に向けて。 ***  宵月遙華が生まれたのは、二十年前の今日のことだった。元来体の弱い母が、問題なく宵月を産めたことは奇跡に近かったらしい。父も泣いて喜んで、遠方に住む親戚と皆で宵月の誕生を祝った。  だが、それも束の間。宵月が二歳のとき、母は末期癌を患った。日に日に痩せこけ、顔色も悪くなっていく母に何を察したか、幼い宵月は母から離れず過ごしていた。無理やり引き離すと雷のような大声で泣きじゃくり、懸命に諌める父の腹を蹴飛ばして暴れまくった、と聞いている。お転婆という言葉では済まされないくらい暴れん坊の娘と、母への介護に疲れた父は、若い女に寄生した。女も父に惚れたのか、母が亡くなり葬式を済ませるとすぐに結婚した。困難を乗り越えた恋人のように。  このときのことは、よく覚えている。いきなり知らない女の人が来て、この人とケッコンすると聞いたときはあ然としたものだ。ケッコンするとはつまり、この人が宵月の母となるということで。若くてお洒落さんで可愛らしい人だったのに、当時の宵月は激しい嫌悪感と拒絶反応を示した。 『ママがいい』  一度そう言い始めたら止まらなかったらしい。わんわん泣きながら何度も『ママがいい』を連呼し、いきなり泣き出した子供に寄り添おうとした女の人から逃げまくり、母の形見の布団に潜って力の限り抵抗した。嫌だ嫌だ嫌だと駄々を捏ね、最終的に父に恫喝されても泣くのはやめなかった。  そんなこんなで、どうしようかと頭を抱えていたところにやってきたのが、宵月の伯母、父の妹だった。 『そりゃあ、ママが亡くなって悲しいところに、いきなり知らない女がやってきて、これからこの人がママだよ、なんて言われても納得できないでしょう。私だって狂ってると思うわ。本当に兄さんは遙華ちゃんのことを考えてるの?』 『そ、そりゃあ、この子だって気持ちの整理に時間がかかると思うけど』 『……ママが死ぬの、待ってたくせに』  部屋の隅っこ、空気清浄機の陰に隠れて話を聞いていたが、我慢できなくなってしまったのだ。ギョッとしたようにこっちを向く二人を睨みつけ、絹を裂くような声で叫んだ。 『その女の人とママが死んだらケッコンしようねって、言ってたくせに!幸せそうだったくせに!』 『なっ』  そこから先はもう修羅場だった。伯母が絶叫しながら怒りに怒って怒り狂い、答えの求めていない問いを投げかけてはまた青筋を立て、最終的には 『どーぞ、その女とよろしくやってくださいな、兄さん。その代わり、二度と遙華ちゃんには近づかないでね』  と吐き捨て、父と決別しこの家を出て、宵月は伯母のもとへ引き取られたのだった。  まだ五歳のときのことだった。
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