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「……でもね、伯母ちゃんは事前に訊いてくれたんだよ。『遙華ちゃん、伯母ちゃんと一緒に暮らさない?』って。私、二つ返事で了承して……それで、東京に引っ越したんだ」
ざあざあと降る雨は勢いを増している。庇のお陰でずぶ濡れにはなっていないが、靴下が気持ち悪くなっていた。何となく嫌になって、奮発して買ったパンプスとセットの靴下を脱ぎ捨てた。
「義理の妹がいるみたいだけど、会ったことはないよ。お父さんと会ったのは、引っ越しする前が最後。……悲しくはないな。もう顔も、遊んでくれた記憶も、ほとんど思い出せないし」
ぷらぷらと足を揺らし、記憶の引き出しを次々に開ける。
ここからが本番だ。
私がお母さんに伝えたい、私の人生だ。
降ってくる時間に意味と記憶を付与し、私の中で一つ一つ積み重ねてきた人生だ。
「それでね、引っ越し先で、なぎ姉に会ったの。私の近所に住んでる、音大に行ってる美人さん。私に良くしてくれて――そして、音楽の世界を教えてくれた人」
***
伯母は宵月に、無理に「お母さん」と呼ばなくていいのよ、と言ってくれた。伯母ちゃんでいいのよ、と。宵月はそれに頷いた。伯母を母と思うことはできなかった。だって、宵月の母は、あの遺影の中で微笑む優しい人だったから。
見慣れない高層ビルの建物群と、見たことない速度で走る車に呆然としながら、宵月は初めてマンションというものに住んだ。朝ご飯にフレンチトーストが出たときは目玉が飛び出るかと思ったし、お洒落だと目を輝かせた服が、実は量産型の安物と知って、田舎と都会の差異に度肝を抜かれた。何もかも新しかった。
その中でも、いっとう宵月の心をときめかせたのは、近所のお姉さんが見せてくれたシンセサイザーだった。
片親、しかもその親も実親ではないという複雑極まりない家庭を、同情も蔑視もすることなく、気さくに接してくれたお姉さん。当時中身が至極単純だった宵月は即座に懐いて、何度もお姉さんの家にお邪魔した。
そこで見たのが、シンセサイザーだ。
この前、貯めたお年玉でやっと買ったの。ふふ、格好いいでしょう?これで曲を作ってるの。私、結構上手いのよ――?怪しげに悪戯っ子みたいに笑って、そう説明してくれた。よくわからないけど、お姉さんが楽しそうで嬉しい。最初はその程度にしか思っていなかった。
お姉さんの曲を聞くまでは。
紡ぐ音色は軽やかで、ソーダみたいにぱちぱち、きらきらしていたが、一本筋が通っていて自然と背筋が伸びる。透明で爽やかなお姉さんの声と相まって、筆舌し難いほど綺麗だった。歌詞も、悲壮感とかは感じられず、ひたすらに楽しく愛らしい。――それが始まりで、私は音楽、もっと言うならば曲作りの世界へ引き込まれていった。
百均で五線譜のノートを買い、思いついたメロディを次々に書き起こした。ピアノの音を思い出しながら。それだけで楽しかった。何通り、何十通りのメロディを作り上げ、鼻歌で紡ぎながら、鉛筆を走らせる。それだけで良かった。
だが、運命とはかくも数奇なもので。
『なぎ姉!これ見てー』
ある日、お姉さん――渚にとたとたと駆け寄ってその五線譜ノートを見せたのだ。一冊埋まって、ちょっと自慢したかったのかもしれない。わあ凄い、こんなに作ったんだね。もしかしたらはるちゃん、才能あるかもよ?と、冗談めかしたような反応が来ると思っていた。
しかし、お姉さんは驚きに目を見開き、そのまま硬直してしまったのだ。何も喋らずただじっとノートを見るお姉さんを見て、私、何かしてしまっただろうか……と不安になり、さーっと血の気が引いた。
『……これ、はるちゃんが作ったの?』
『う、うん』
『全部?全部、はるちゃんが、誰の助けもなしに作ったの?』
『そうだよ、なぎ姉。伯母ちゃんも、かなちゃんも、りおちゃんも、みーんな曲なんか作れないって……ねえ、どうしたの?なぎ姉、変だよ?』
『……はるちゃん、これ、ちょっとでいいから貸してくれない?』
『な、何で?』
お姉さんは、引き攣った笑いを口端に上らせながら言った。
『シンセでこの曲、音にしてみたいの。ね、いい?』
『えっ、これホントに曲にしてくれるの!?』
『うん!』
『やったー!じゃあいいよ、はい!』
『ありがとう、はるちゃん』
お姉さんの手は少し震えていて、ノートを受け取った途端、シンセの前に座り猛然と鍵盤を叩き始めた。その迫力に呆気にとられてぽかんと立ち尽くす宵月をよそに、真剣な表情でボタンを押したり、音を調整したりしている。ギターの音が聞こえたときは驚いた。私はピアノの音を想像してたのに、と。
そして数十分――体感で、だが――が過ぎた頃、お姉さんは鍵盤から指を離し、長い溜め息をついた。コキコキと首を鳴らし、んぐーっと伸びをしたあと、なぜかスッキリしたような顔で宵月をちょいちょいと招いた。
『おいで。はるちゃんの曲、聞かせたげる』
いよいよかと、歓声を上げてお姉さんへ抱きついた。肩越しにシンセを覗きながら、いつの間に録音したのか、勝手に音楽が流れ始めた。
脳内で思い描いていた――いや、それ以上の音色だった。
ギターやドラムの伴奏に始まり、ピアノの音が主旋律で重なる。それはまさに理想の音色で、音にしてみると少し粗さが目立つものの、これが初めて作った自分の曲と思えば、愛着が湧いた。
ふつりと最後の音が曲の終わりを告げると、思わず喜びの声を上げた。
『す、すごいすごい!なぎ姉、これ凄いねえ!私の曲、こんな風になるんだあ……!』
『……はるちゃん』
『ん?』
『はるちゃんは、天才だよ』
優しい手付きでシンセを撫でて呟く。
『初心者で、こんな曲を作れる人は多くない。私だって、初めて見た……』
ねえ、と笑顔を向けて、ふわふわにこにこ、幸せそうな笑顔で、お姉さんは宵月を抱き上げた。
『本格的に曲、作ってみない?』
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