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疾奏
昔から、漠然と憧れていた。
身近に経験者などいない、何かの作品に感化されたわけでもない。
そんな平凡な彼の無知で淡い憧れは、たった一度の演奏で鮮やかに焼き付いたのだった。
◇◇◇◇
よく晴れた午後、1人の高校生が、ある部室の引き戸をガラリと開けた。彼は部活に関する前知識など全く無いまま、体験入部が始まったその日に見学に行ったのだ。
部室の前には、『箏曲部』と書かれた木札が下がっていた。
「経験者ですか?」
「いや、何にも分かってないです……」
出迎えた先輩の言葉に少し気後れしつつ彼は答える。やはり、少し思い切り過ぎただろうか。
「大丈夫、私も高校からだからね。来てくれてありがとう」
部員は3年生が3人、2年生が2人。5人とも女子生徒だった。そのうち2人が経験者で、残りの3人は高校から始めたのだと言った。さらに先代も、半数以上が初心者だったらしい。
周りを見ても彼以外に見学の生徒はなく、早速箏を弾いてみることになった。
一から十、そして斗、為、巾の十三本の弦を、3つの爪をはめた指で弾く。楽譜が漢字で縦書きであることも彼は初めて知った。
部室の端にある一回り大きな楽器は、低音の十七絃だった。壁に立て掛けられている何台もの箏に囲まれて、彼と部員たちが少しずつ練習を始めていく。
かなり長い時間滞在したあと、彼は挨拶をして部室を立ち去った。来るときにはどこか近寄り難さを感じた引き戸を、一転高揚した気分で閉め直す。
――このとき既に、入部の決意は固まっていた。
◇◇◇◇
入部して約1ヶ月が経ち、彼は部の雰囲気にもやっと馴染んできていた。毎日練習して何度も硬い糸を押さえているうちに、彼の左中指の先が硬くなっていた。
訪れていた稽古の先生が、休憩中にふと新入生たちに聞いた。
「何か入部の決め手ってあったの?」
「……私は中学でも弾いていて箏が好きだからですね」
同じ新入生の女子生徒が少し考えて答えた横で、彼は単純にこう言った。
「……何となく、格好良かったんです」
「そうなの」
「もともと興味はあったんですが、歓迎会の演奏がとても格好良くて」
「いいね。格好良いっていうのは大事よ」
楽しそうに先生は頷き、練習の再開を告げた。
その日は初めて演奏会用の曲で合奏をすることになった。1ヶ月間、『さくらさくら』などの基礎練習や自主練習、一部の合奏練習を重ねてきたが、合奏をきちんと通すことはまだしていなかった。
彼は決して上手くは弾けなかった。周りの音を聴きながら弾くことは、一人で練習するのとはかなり違っていた。周りを意識すれば手許が疎かになる。かといって演奏に集中すれば周りの音が聞こえない。通して弾くことの疲れで、後半になるにつれ粗も目立ってくる。
――だが、彼は感動していた。合奏なら今までも学校行事などで経験しているはずなのに、何故か特別感情が動いた。
和楽器の音色の繊細さ、細かく重なる旋律の美しさが何とも言えなかった。音の粒が弾けていくような、独特な高揚感があった。
彼の演奏は先輩たちよりずっと下手で、音量も足りていない。それでも合奏というものが楽しかった。音楽の知識や理論など関係が無かった。敵わない巧みな技術に、心から憧れた。
どうして自分が箏に惹かれたのか、彼は少しだけ分かったような気がした。
「じゃあ、もう一回初めから」
先生の指示のもと、部員たちはまた譜面を捲り姿勢を整える。最終的には、この譜面も全て暗記しなければならない。
理屈など考えないままに憧れを現実にした、そんな彼の目まぐるしい日々は、まだ走り出したばかりだった。
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