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8 心の傷
気象部の大島に会えた澪。嬉しさで帰ってきた。
「あ」
「……どこに行っていた」
「も、森下さん?」
……どうしているの?
夕暮れの小田島家の前。いつも午後は来ないはず。しかし、この日は夕刻の小田島家の前に彼女はいた。玄関は閉めてあったため、森下は外に立っていたと怒り出した。
「すいません。私。外の空気を吸いに散歩に」
「……こっちにこい!」
森下。手荒く着物の襟を取り、澪を庭に連れ出した。そして頬を平手打ちした。
「きゃ!」
「この嘘つき!何が散歩だ」
「申し訳ございません」
「私は知っているんだよ!お前が毎日どこかに行っていることを!」
……どうして知ってるの?まさか、いや、違うわ。
「さあ言え!どこに行ってたんだよ!」
またもや頬を打つ森下。澪、ただただ打たれた。
「すいません」
「……これじゃ足りない。お前にはこれが必要だよ」
庭にあった竹箒。森下はこれを手に取った。そしてそれで澪を殴った。
「こいつ!こいつ」
「すいません。すいませんん」
頭からこれを何度も受ける澪、じっと考えながら耐えていた。
……森下さんは。きっとわかっていない。私が白状するのを待っているんだわ。
澪。用意した言い訳をした。
「……すいません。かき氷を食べたくて」
「こいつ!そんな嘘つくんじゃないよ」
「すいません、すいません」
森下、怒ってばかりで指摘してこない。推測通り核心をついてこない。彼女はおそらく鎌をかけているだけ、澪はそう思った。
……ここは謝っていくしかない。大島さんのことは絶対話してはいけないわ。
澪は甘んじてなぶられていた。
「くそ!こいつ。はあ、はあ」
「おい。そこで何をしておるんだ」
「え」
なぜか。偶然。門の向こうに警察官が通った。二人は見回りの途中の様子。この庭に入ってきた。この警官二人を前に森下は急に大人しくなった。
「どういうことだい?そんな箒で娘さんをぶつなんて」
「あの、その」
「もういいだろう。説教はそのくらいで、娘さんも、ほら!謝りなさい」
「はい、すいませんでした」
謝った様子。警察はこれで許してやれと森下に促した。
「ところで。娘さんは、この家の人かい」
「はい」
「お宅は?」
「私?私は通いの使用人ですよ」
汗だくで娘を竹箒で殴っていた森下。これに警官は眉間に皺を寄せた。
「通いの使用人が、この家の娘さんをぶつのか?……ちょっと。あんたは署に来なさい」
「え」
「娘さんは家に入りなさい。おい。お前、署まで連行だ」
「え、私は違います!ちょっと。離して」
警官達はそういうと、歯向かう森下を連れて行った。澪、呆然としていたが、やっと悠を思い出した。
そして玄関を開けた。するとそこには悠が立っていた。長い髪もそのまま、髭の彼は顔が良く見えなかった。彼は庭での出来事に気がついていた。
「何があった」
「森下さんが、警察に」
「お前……怪我」
「ああ?これですか?大丈夫ですよ」
竹箒で叩かれた顔も腕も、傷がついていた。その額、その首、その指。血が滲んでいた。
……何が大丈夫だ。くそ。
悠はその手を掴み、台所にやってきた。水で傷を洗ってやった。
「しみるか」
「はい。あの、旦那様、澪は平気です」
「黙れ」
強引に進める悠。渋る澪に怒った。そして。居間にて静かに手当てをした。彼は澪の傷を確認した。
「見せろ。首だ」
後ろから打たれた様子。悠は手ぬぐいを持っていた。
「早く」
「でも。自分で」
「恥ずかしがっている場合か」
強引に背後の傷を確認した悠。そして。悠は止まった。
……この首、この背の傷はなんだ?
見えてしまった傷跡。それは痛々しいものだった。背に広がる赤く細い傷。しかも大量。それは今のものではない。澪、彼の心に気がついた。
「醜いですよね。ごめんなさい」
「……お前」
……ああ、知られてしまったわ。こんなひどい傷跡を。
澪、痛みよりも悠の驚きに涙しながら、着物を直した。
「もう、平気です。それよりもご飯にしますね」
涙を堪えて台所に向かった澪、悠、その小さな背を呆然とみていた。
彼女が夕食を作っている間、悠、必死に考えた。
……今まで。澪は家の方針でこんな私に嫁に来たとは思っていたが、家でも酷い目にあっておったとは。
父とは不仲な自分。しかし。それは不仲であっても親子としては立場上、付き合いがあり金銭的に困ることはなかった。それでも不幸だと思っていた悠。背に傷を負った澪を見てショックだった。
悠。家族に見放されてこうしているのは自業自得と思っていた。こんな自分を澪は助けようとしてくれている。だが、思えば彼女はいつでも自分を捨てて逃げることができるのだ。
……なぜ、そうしないのだ。そんなに実家が嫌なのか。
あの背中の傷を見れば、そう思えた。澪は帰る家がない娘なのだ。
……だから。死にそうな俺に嫁に出されたんだ。なんと酷いことだ。
澪を想っていた彼。そこに彼女が夕食を出してきた。
「どうぞ。お熱いですよ」
「食べられないよ」
「……では、もう少し冷ましましょうか」
傷だらけの手、首、顔。白い肌に赤い傷。誰が彼女をこんなに傷つけたのか。それは他でもない自分のせいだった。
……ああ、この娘はどうしてこんなに。
「澪……」
初めて名前を呼ばれた彼女、びっくりして顔を上げた。悠、涙目でゆったりと抱きついてきた。
「旦那様?」
「澪……」
「どうしたんですか?」
謝罪と感謝が入れ混ざった複雑な思い。彼女の名前しか言えない子供のような悠。澪は背を優しく撫でた。悠、彼女の優しさに震えていた。
……だめだ。しっかしせねば、澪のために。
甘えてばかりはならない。悠、ふうと息を整えた。
「ああ、ちょっとな?さて、夕食はなんだ」
「親子丼です。旦那様のお好きな」
「お前も一緒に食えよ」
「はい」
しみじみの二人。仲良く食事をした。顔が傷だらけの澪。悠はその痛みを自分も受けていた。この想いを堪えて食事を終えた。
その夜。寝る前に澪、大島に会ってきたと打ち明けた。
「大島に?お前、麹町の気象台に行ったのか?」
「はい。実は何度も行ったんですがなかなか大島様にお会いできなくて」
「向こうはなんと」
大島にはひどいことを言ったはず。悠はすっかり嫌われていると想っていた。しかし寝巻き姿の澪はけろりと言った。
「別に気にしてないと。それよりも旦那様がいなくて仕事が溜まっているので、困っておいででした」
「……そ、そうか」
「早く戻って欲しいと。でもですね。旦那様、あそこは何の会社なんですか?」
「え」
澪、月あかりの部屋で悠を見つめた。寝巻きの浴衣。長い髪は横に垂らしていた。
「私、必死で行ったので、何屋さんなのか結局わかりませんでした」
「ふっふ。ははは」
笑った悠。長い髪の髭の顔。澪はその隙間から彼の白い歯を見た。
「ふふふ。お前、知らずに行ったのか」
「あの、旦那様は何をしている仕事なんですか?」
「こいつ!」
悠、澪が可愛いので鼻をぎゅうと摘んだ。
「うわ?」
「お仕置きだ。詳しい話は明日だ」
「……はい。では、おやすみなさい」
「ああ」
こうして今夜も二人は布団を並べて寝た。日中、寝ている悠。澪の方が先に寝た。
……ああ。なぜこんなに、この娘は。
傷だらけの寝顔。悠、今宵もこれを見ながら眠りについた。
完
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