9 来る夏

1/1

2054人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ

9 来る夏

朝顔の翌朝。朝から蒸し暑い夏。森下は普通にやってきた。澪が挨拶しても無視。悠にだけ優しく話をした彼女、神水を置いて帰って行った。 澪。例によって鍵をかけた。そして。悠と朝食にした。 「いただきます」 「はい、いただきます」 森下の持参した食事は食べない悠。こうして澪の食事を食べていた。おかげでずいぶん元気になってきていた。 この日、とても蒸し暑い日だった。悠、思っていたことを打ち明けた。 「あのな、澪」 「なんでしょうか」 「風呂を沸かしてくれないか」 体調を崩していたため、悠は体を拭くだけだった。そんな悠、食べながら話した。 「いつでも良いんだ。夕刻でも」 「いいえ」 「え」 澪、じっと悠を見た。 「遅い時間よりも。お昼に入りましょう。浴びるだけでも良いですから」 「わかった」 元々。風呂は嫌いである。しかし、今はこの髪や髭をどうにかしたかった。 この昼下がり、澪は小さな木の湯船、薪でぬるめに沸かした。 「いかがですか」 「ああ……良い気分だ」 ……入ってよかった。風呂とはこんなに良いものなんだな。 真夏の暑い日。そして。彼は湯から上がるとのびた髭を剃った。その後、体を洗おうと思った。しかし、やはり体は弱っていた。 「澪……」 「どうなさいました」 戸の向こうの声。心配そうだった。 「もう出る」 「もうですか?あの、お背中を流しますね」 「え」 有無を言わさず。綺麗好きの澪は入ってきた。腰に手ぬぐいを置いていた悠。どうとでもなれと思った。 「すぐに洗いますから。それ!」 「ああ……勝手にやってくれ」 なすがまま。悠はじっとしていた。澪はあっという間に体を石鹸で洗ってくれた。 「旦那様。髪も洗っていいですか」 「早くな」 「はい!」 澪、髪を洗った。しかし、手こずっていた。 「どうした」 「長いので……でも、ほら。気持ちいいですか?」 頭をモシャモシャにして洗う澪。悠は笑った。 「ああ、気持ち良いよ」 「では。流します。目を瞑ってください」 頭にお湯を掛けられた悠、こうして湯に浸かり風呂から出た。 下着姿の悠。その長い髪を澪は優しく拭いていた。 「長いだろう」 「そうですね。後で切りましょうか」 ……髭のない顔。近くでこうやってみると。旦那様はお綺麗な人なのね。 今まで。長い髪で髭の顔。病弱の彼しか知らない彼女。元気になってきた身体、男らしい彼にドキドキしていた。 「澪」 「は、はい」 名前を呼ばれた澪、どきんとした。 「お前は誰かの世話でもしていたのか。ずいぶん慣れているようだが」 もしかして別の男。そんなヤキモチを知らず澪は笑った。 「弟ですね。お風呂に入れたり一緒に寝たりしていました」 「ほう」 「今頃は……母が世話をしているはずです」 「そう、か」 どこか寂しそうな澪。ここで悠、髪を拭く彼女の手に自分の手を重ねた。 「澪……水」 「はい!こちらにございますよ」 優しい彼女。それにありがとうがなかなか言えない悠。縁側の二人。一緒に午後の風の中にいた。 ◇◇◇ そして悠が昼寝をした時、澪はまた近所へ冒険の旅に出た。それは八百屋だった。 「いらっしゃい」 「あの。私は小田島の家の者ですけど」 「おう!毎度」 小田島の家に野菜を届けてくれるのはこの八百屋「八百政」。澪は森下がどういう内容で配達を注文しているのか尋ねた。 「ああ。あのおばさんね。犬や猫に食わせるクズ野菜でいいからって。激安で届けているよ」 「そうなんですか」 思った通り。澪の食材はひどい物ばかりだった。しかし最近は悠も食欲がある。彼にはもっと食べさせないといけないと思っていた。 「なんか問題あったかい?」 「いいえ。あのですね。今少し買いますが、それとは別で、果物を届けて欲しいんです」 澪。その代金。今、払うと紙幣を差し出した。 「不足分は後で支払います。でもですね。私、森下さんに見つかると叱られるので、秘密にしてください」 「まあ、いいけどよ」 八百屋にとって売れれば良い話。こっそり届けてくれると主人が笑った。 「よかった。では後聞きたいんですが、ここから近い質屋さんはどこですか」 「質屋……それだったら、あそこのたばこ屋の看板の、右手にあるよ」 「右手……あ?わかりました!ありがとうございます」 澪。次は質屋に向かった。ここには嫁に来た時の品を持ってきた。 「あの。この『かんざし』はお金になりますか?」 「どれ……」 「鼈甲(べっこう)なんです。良く見てください」 嫁入りの時に母がくれたもの。澪は関心なかった。このかんざしは思ったよりも高値で引き取ってくれた。 「いいかい?それは二週間だよ。二週間経ったら、売っちまうよ」 「はい」 ……よかった。これでもっと食べ物が買えるわ。 夏の日差し眩しい道。澪、懐にお金をしっかりと収めた。通り過ぎる娘達。自分と同じ年頃。夏も涼しげなワンピースを着ていた。 反した自分、夏の着物。嫁に来た時の着物は豪華すぎて普段は着れない。これ以外は安物の小紋と紬の普段着だった。 小紋は福子のお下がりであるが質が良いもの。しかし、今は夏で暑いので澪は紬の着物を着ていた。 確かに粗末な着物であるが、澪の胸は弾んでいた。 ……大島様にお話ができたし。後は旦那様に元気になって貰えば。 帰り道、鶏肉も買った澪。こうして屋敷に帰ってきた。そして夕食を作り彼に食べさせた。 「うまそうだな」 「鶏肉なので。お腹に優しいと思いますよ」 「いただこう」 野菜と鶏肉の煮物。悠はぺろりと食べてしまった。この食欲に驚きつつ、彼が元気になっていく様子に澪、嬉しかった。 「ところで。今日も庭の向こうで警官が歩いていたぞ」 「お巡りさんの見廻りの道順になったのかもしれませんね」 「……まあ。こっちには都合が良いがな」 悠、ちらと澪を見た。本人は気にしていないが、森下に竹箒で殴られた裂傷はまだ痛々しい。 ……このくらいの傷は平気なのか。実家でどんな目に遭っていたのであろうか。 澪の強さ。それを悲しく見ていた悠。食事を終えた。そして食後のお茶を飲んでいた。 「あの、旦那様」 「ん」 「……旦那様のお仕事を、そろそろ教えてください」 「ああ、それか」 悠、髭を剃り長い髪を一纏めの美麗な顔立ち。あぐらをかいた体をゆったりと伸ばした。 「私は。役所で気象予報をしていたんだ」 「気象予報……天気予報ですか」 「ああ。そうだよ」 「すごい!」 嬉々と喜ぶ澪。悠、照れ隠しにお茶を飲んだ。 「あの、それはどうやって知るんですか」 「各地から送られてくる気温や風向き。それに気圧などの情報で調べるんだ」 「気温、風向き?全国からその情報が来るんですか」 「ああ」 「……うわ……そうやって天気を予報するんですか?すごいわ」 関心する澪、気を許している様子、この時、悠は何気に聞いてみた。 「お前は?家ではどうやって過ごしておったのだ」 「私、ですか……」 途端に表情は暗くなった澪。悠、しまったと思った。 「いや。話したくなければ言わずとも良い」 「いいえ?私は米屋の娘ですけれど……」 澪。自分の身分を正直に話した。次女となっているが、後妻である母親の連れ子。このため正式には養女になると打ち明けた。 「小田島さんに嫁ぐように言われて。そしてここに」 「では。お前は私が病と知らずに参ったのか?」 「はい」 「なんということだ」 驚く悠。落ち着こうと深呼吸をした。その様子、澪は別の意味に捉えていた。 ……私が養女って、やはりご存知なかったんだわ。 婚姻時、悠は精神衰弱の状態。自分が嫁に来る話など、考える余裕はなかったであろう。 しかし、こうして健康になってきた今、改めて自分という娘を見れば、彼には身分の低い、粗末な娘であると澪は知っていた。 ……あんな大きなお役所でお仕事をされるお方。大島さんも旦那様を待っていると言っていたし。この方の本当の姿は立派な人なんだわ。 澪。自分は相応しくない。その思いがますます強くなった。 ……泣いてはいけないわ。旦那様には関係ない話だもの。具合の悪い時に勝手にやってきたお嫁さんなんて。 澪、お茶を飲んだ。そして悠の湯呑みも持った。 「片付けますね。旦那様、早くお休みになってください」 「ああ」 そう言って澪は台所に向かった。その泣き顔、悠は知ることはなかった。 この夜。澪は心落ち着かせてから布団に入った。悠は先に寝ているようだった。 その夜。夢を見た。米屋の蔵の中だった。 真っ暗な蔵。母の怒りを買い閉じ込められた澪。寒い冬、裸足の足。凍える体で蔵の中で身を縮めていた。そして蔵の重い戸が開いた。母の手には鞭が握られていた。 「ごめんなさい。お母さん」 「奥様と呼べ!この、役立たず」 「痛い!」 お前さえいなければ!お前さえいなければ!鬼の顔で母は鞭を振るった。 「やめて!お母さん」 「澪、澪」 「私じゃありません」 「澪!しっかり致せ」 「え」 目の前には、悠の顔があった。切迫した顔だった。澪、汗だくで息が上がっていた。 「どうだ。落ち着いたか?」 優しい声。優しい手、澪を優しく起こしてくれた。 「はあ、はあ、すいません。怖い、夢を見ていたようで」 「起きてごらん」 寝苦しかった夜。悠は澪の身を起こした。そして水を飲ませた。 「汗がすごい。拭くぞ」 「あ、それは自分で」 「うるさい」 ……こんなに汗をかいて。よほど恐ろしい夢だったのだな。 悠は汗だくの澪の顔を拭いた。ようやく彼女は冷静になっていた。蝋燭の明かりだけの部屋。静かになっていた。 「どうだ」 「はい。気分が良くなりました」 「……疲れが出たんだ。無理せずゆっくり休め」 「はい」 そして、澪は横になった。しかし。悠は澪のほうを肘をついて見つめていた。 「旦那様?」 「お前が寝るまでこうしてみているから。安心せよ」 「え」 返って緊張して眠れない。澪、ドキドキしてきた。 「なんだ。顔が赤いぞ。まだ暑いのか」 「い、いいえ」 悠、優しく澪の髪を撫でた。 「俺がいるから。案ずるな。ほら?虫の音を聞くんだ」 「虫の、音……」 涼しさを誘う夏の音色。これを遠くに聞きながら、澪は悠が見つめる中、眠りについた。 翌朝、森下がやってきた。 「え。悠様。お風呂に入れたのですか?」 「ええ、森下さんの天水のおかげです」 「まあ?オホホホ!」 いつものように誤魔化した二人。この朝の森下は機嫌が良かった。 「実はですね。わが会に新しく入りたいという人が増えましてね」 「ほう」 「忙しいのです。では、これで」 悠には微笑むが澪には睨んだ森下。そそと帰っていった。 そんな日の午後。勝手口に誰かやってきた。 「こんにちは」 「はいはい、どなた?」 「お花のお届けです」 「お花」 宛名は小田島澪宛。受け取った澪。そこに手紙を見つけた。 「旦那様!」 「なんだ騒々しい」 「こ、これ」 「……大島?」 手紙には森下の民間療法の会社を調べている件と、この小田島屋敷の周辺を警官に見回りさせていると書いてあった。 「すごい?だからお巡りさんがいるんですね」 「あいつは優秀だからな……」 最終的には森下の会社を摘発する予定。それまで待てと書いてあった。 「どうします?」 「まず。この手紙を燃やしてくれ」 「そうですね」 「後だな」 悠、澪をじっとみた。 「今後も、我々の動きを森下に知られない用にせねばなるまい」 「はい」 最近は元気になっている悠。しかし、また具合の悪い様子に戻ると言い出した。 「油断させるのだ。そして。私とお前は仲が悪いふりをしよう」 「そうですね。その方がいいと思います」 「……お前の悪口を言ったりするが、良いのだな?」 「はい、あの、旦那様」 「ん」 じっと見つめる澪。おずおずと話した。 「澪も旦那様の悪口を言わないとなりませんか」 「あ、ああ」 「なんて言えばいいでしょう?……ちょっとわからないです」 困っている娘。悠、ドキとした。 「お前な」 ……本気で言っているんだもんな。面白い娘だ。 「お願いします!旦那様」 「そうだな『寝てばかり』とか、『わがまま』などはどうだ」 「ですが。旦那様が寝ているのは治療ですし。わがままではないですもの」 「おっと?……これは重症だ」 澪にこの手の嘘は無理。悠、頭を抱えたが嬉しさで笑っていた。 「そうだ!では反対の事を申せば良い」 「反対ですか。それなら、そうですね……」 「申してみよ。怒らないから」 澪、じいと悠を見た。 「旦那様は……全然優しくないですし、それに、怒ってばかりです」 「うん。いいぞ」 「態度は悪いし、私の事を見てもくれないです」 「おう。いい感じだ」 「だから……大嫌いです。一緒にいるのが苦痛なんです」 ……おいおい。反対の意味だぞ? 澪は必死に嘘を言っている。本人は真面目であるが、それは本音をバラしているということ。告白を受けた悠。これ以上は恥ずかしくて聞いていられなかった。 「わかった!それで行け」 「そうですか?悪口になってましたか?」 不安そうな娘。悠。赤い顔を見られないように背を向けた。 「なったなった。いいから、小腹が空いた」 「はい!」 台所に向かう澪の足音。元気でトントントンと向かっていた。 居間の縁側には青空。軒先には風鈴を下げていた。 ……入道雲、か。(きた)る夏、か。 その風鈴の音色。恋の音を奏でていた。 完
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2054人が本棚に入れています
本棚に追加