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9 来る夏
朝顔の翌朝。朝から蒸し暑い夏。森下は普通にやってきた。澪が挨拶しても無視。悠にだけ優しく話をした彼女、神水を置いて帰って行った。
澪。例によって鍵をかけた。そして。悠と朝食にした。
「いただきます」
「はい、いただきます」
森下の持参した食事は食べない悠。こうして澪の食事を食べていた。おかげでずいぶん元気になってきていた。
この日、とても蒸し暑い日だった。悠、思っていたことを打ち明けた。
「あのな、澪」
「なんでしょうか」
「風呂を沸かしてくれないか」
体調を崩していたため、悠は体を拭くだけだった。そんな悠、食べながら話した。
「いつでも良いんだ。夕刻でも」
「いいえ」
「え」
澪、じっと悠を見た。
「遅い時間よりも。お昼に入りましょう。浴びるだけでも良いですから」
「わかった」
元々。風呂は嫌いである。しかし、今はこの髪や髭をどうにかしたかった。
この昼下がり、澪は小さな木の湯船、薪でぬるめに沸かした。
「いかがですか」
「ああ……良い気分だ」
……入ってよかった。風呂とはこんなに良いものなんだな。
真夏の暑い日。そして。彼は湯から上がるとのびた髭を剃った。その後、体を洗おうと思った。しかし、やはり体は弱っていた。
「澪……」
「どうなさいました」
戸の向こうの声。心配そうだった。
「もう出る」
「もうですか?あの、お背中を流しますね」
「え」
有無を言わさず。綺麗好きの澪は入ってきた。腰に手ぬぐいを置いていた悠。どうとでもなれと思った。
「すぐに洗いますから。それ!」
「ああ……勝手にやってくれ」
なすがまま。悠はじっとしていた。澪はあっという間に体を石鹸で洗ってくれた。
「旦那様。髪も洗っていいですか」
「早くな」
「はい!」
澪、髪を洗った。しかし、手こずっていた。
「どうした」
「長いので……でも、ほら。気持ちいいですか?」
頭をモシャモシャにして洗う澪。悠は笑った。
「ああ、気持ち良いよ」
「では。流します。目を瞑ってください」
頭にお湯を掛けられた悠、こうして湯に浸かり風呂から出た。
下着姿の悠。その長い髪を澪は優しく拭いていた。
「長いだろう」
「そうですね。後で切りましょうか」
……髭のない顔。近くでこうやってみると。旦那様はお綺麗な人なのね。
今まで。長い髪で髭の顔。病弱の彼しか知らない彼女。元気になってきた身体、男らしい彼にドキドキしていた。
「澪」
「は、はい」
名前を呼ばれた澪、どきんとした。
「お前は誰かの世話でもしていたのか。ずいぶん慣れているようだが」
もしかして別の男。そんなヤキモチを知らず澪は笑った。
「弟ですね。お風呂に入れたり一緒に寝たりしていました」
「ほう」
「今頃は……母が世話をしているはずです」
「そう、か」
どこか寂しそうな澪。ここで悠、髪を拭く彼女の手に自分の手を重ねた。
「澪……水」
「はい!こちらにございますよ」
優しい彼女。それにありがとうがなかなか言えない悠。縁側の二人。一緒に午後の風の中にいた。
◇◇◇
そして悠が昼寝をした時、澪はまた近所へ冒険の旅に出た。それは八百屋だった。
「いらっしゃい」
「あの。私は小田島の家の者ですけど」
「おう!毎度」
小田島の家に野菜を届けてくれるのはこの八百屋「八百政」。澪は森下がどういう内容で配達を注文しているのか尋ねた。
「ああ。あのおばさんね。犬や猫に食わせるクズ野菜でいいからって。激安で届けているよ」
「そうなんですか」
思った通り。澪の食材はひどい物ばかりだった。しかし最近は悠も食欲がある。彼にはもっと食べさせないといけないと思っていた。
「なんか問題あったかい?」
「いいえ。あのですね。今少し買いますが、それとは別で、果物を届けて欲しいんです」
澪。その代金。今、払うと紙幣を差し出した。
「不足分は後で支払います。でもですね。私、森下さんに見つかると叱られるので、秘密にしてください」
「まあ、いいけどよ」
八百屋にとって売れれば良い話。こっそり届けてくれると主人が笑った。
「よかった。では後聞きたいんですが、ここから近い質屋さんはどこですか」
「質屋……それだったら、あそこのたばこ屋の看板の、右手にあるよ」
「右手……あ?わかりました!ありがとうございます」
澪。次は質屋に向かった。ここには嫁に来た時の品を持ってきた。
「あの。この『かんざし』はお金になりますか?」
「どれ……」
「鼈甲なんです。良く見てください」
嫁入りの時に母がくれたもの。澪は関心なかった。このかんざしは思ったよりも高値で引き取ってくれた。
「いいかい?それは二週間だよ。二週間経ったら、売っちまうよ」
「はい」
……よかった。これでもっと食べ物が買えるわ。
夏の日差し眩しい道。澪、懐にお金をしっかりと収めた。通り過ぎる娘達。自分と同じ年頃。夏も涼しげなワンピースを着ていた。
反した自分、夏の着物。嫁に来た時の着物は豪華すぎて普段は着れない。これ以外は安物の小紋と紬の普段着だった。
小紋は福子のお下がりであるが質が良いもの。しかし、今は夏で暑いので澪は紬の着物を着ていた。
確かに粗末な着物であるが、澪の胸は弾んでいた。
……大島様にお話ができたし。後は旦那様に元気になって貰えば。
帰り道、鶏肉も買った澪。こうして屋敷に帰ってきた。そして夕食を作り彼に食べさせた。
「うまそうだな」
「鶏肉なので。お腹に優しいと思いますよ」
「いただこう」
野菜と鶏肉の煮物。悠はぺろりと食べてしまった。この食欲に驚きつつ、彼が元気になっていく様子に澪、嬉しかった。
「ところで。今日も庭の向こうで警官が歩いていたぞ」
「お巡りさんの見廻りの道順になったのかもしれませんね」
「……まあ。こっちには都合が良いがな」
悠、ちらと澪を見た。本人は気にしていないが、森下に竹箒で殴られた裂傷はまだ痛々しい。
……このくらいの傷は平気なのか。実家でどんな目に遭っていたのであろうか。
澪の強さ。それを悲しく見ていた悠。食事を終えた。そして食後のお茶を飲んでいた。
「あの、旦那様」
「ん」
「……旦那様のお仕事を、そろそろ教えてください」
「ああ、それか」
悠、髭を剃り長い髪を一纏めの美麗な顔立ち。あぐらをかいた体をゆったりと伸ばした。
「私は。役所で気象予報をしていたんだ」
「気象予報……天気予報ですか」
「ああ。そうだよ」
「すごい!」
嬉々と喜ぶ澪。悠、照れ隠しにお茶を飲んだ。
「あの、それはどうやって知るんですか」
「各地から送られてくる気温や風向き。それに気圧などの情報で調べるんだ」
「気温、風向き?全国からその情報が来るんですか」
「ああ」
「……うわ……そうやって天気を予報するんですか?すごいわ」
関心する澪、気を許している様子、この時、悠は何気に聞いてみた。
「お前は?家ではどうやって過ごしておったのだ」
「私、ですか……」
途端に表情は暗くなった澪。悠、しまったと思った。
「いや。話したくなければ言わずとも良い」
「いいえ?私は米屋の娘ですけれど……」
澪。自分の身分を正直に話した。次女となっているが、後妻である母親の連れ子。このため正式には養女になると打ち明けた。
「小田島さんに嫁ぐように言われて。そしてここに」
「では。お前は私が病と知らずに参ったのか?」
「はい」
「なんということだ」
驚く悠。落ち着こうと深呼吸をした。その様子、澪は別の意味に捉えていた。
……私が養女って、やはりご存知なかったんだわ。
婚姻時、悠は精神衰弱の状態。自分が嫁に来る話など、考える余裕はなかったであろう。
しかし、こうして健康になってきた今、改めて自分という娘を見れば、彼には身分の低い、粗末な娘であると澪は知っていた。
……あんな大きなお役所でお仕事をされるお方。大島さんも旦那様を待っていると言っていたし。この方の本当の姿は立派な人なんだわ。
澪。自分は相応しくない。その思いがますます強くなった。
……泣いてはいけないわ。旦那様には関係ない話だもの。具合の悪い時に勝手にやってきたお嫁さんなんて。
澪、お茶を飲んだ。そして悠の湯呑みも持った。
「片付けますね。旦那様、早くお休みになってください」
「ああ」
そう言って澪は台所に向かった。その泣き顔、悠は知ることはなかった。
この夜。澪は心落ち着かせてから布団に入った。悠は先に寝ているようだった。
その夜。夢を見た。米屋の蔵の中だった。
真っ暗な蔵。母の怒りを買い閉じ込められた澪。寒い冬、裸足の足。凍える体で蔵の中で身を縮めていた。そして蔵の重い戸が開いた。母の手には鞭が握られていた。
「ごめんなさい。お母さん」
「奥様と呼べ!この、役立たず」
「痛い!」
お前さえいなければ!お前さえいなければ!鬼の顔で母は鞭を振るった。
「やめて!お母さん」
「澪、澪」
「私じゃありません」
「澪!しっかり致せ」
「え」
目の前には、悠の顔があった。切迫した顔だった。澪、汗だくで息が上がっていた。
「どうだ。落ち着いたか?」
優しい声。優しい手、澪を優しく起こしてくれた。
「はあ、はあ、すいません。怖い、夢を見ていたようで」
「起きてごらん」
寝苦しかった夜。悠は澪の身を起こした。そして水を飲ませた。
「汗がすごい。拭くぞ」
「あ、それは自分で」
「うるさい」
……こんなに汗をかいて。よほど恐ろしい夢だったのだな。
悠は汗だくの澪の顔を拭いた。ようやく彼女は冷静になっていた。蝋燭の明かりだけの部屋。静かになっていた。
「どうだ」
「はい。気分が良くなりました」
「……疲れが出たんだ。無理せずゆっくり休め」
「はい」
そして、澪は横になった。しかし。悠は澪のほうを肘をついて見つめていた。
「旦那様?」
「お前が寝るまでこうしてみているから。安心せよ」
「え」
返って緊張して眠れない。澪、ドキドキしてきた。
「なんだ。顔が赤いぞ。まだ暑いのか」
「い、いいえ」
悠、優しく澪の髪を撫でた。
「俺がいるから。案ずるな。ほら?虫の音を聞くんだ」
「虫の、音……」
涼しさを誘う夏の音色。これを遠くに聞きながら、澪は悠が見つめる中、眠りについた。
翌朝、森下がやってきた。
「え。悠様。お風呂に入れたのですか?」
「ええ、森下さんの天水のおかげです」
「まあ?オホホホ!」
いつものように誤魔化した二人。この朝の森下は機嫌が良かった。
「実はですね。わが会に新しく入りたいという人が増えましてね」
「ほう」
「忙しいのです。では、これで」
悠には微笑むが澪には睨んだ森下。そそと帰っていった。
そんな日の午後。勝手口に誰かやってきた。
「こんにちは」
「はいはい、どなた?」
「お花のお届けです」
「お花」
宛名は小田島澪宛。受け取った澪。そこに手紙を見つけた。
「旦那様!」
「なんだ騒々しい」
「こ、これ」
「……大島?」
手紙には森下の民間療法の会社を調べている件と、この小田島屋敷の周辺を警官に見回りさせていると書いてあった。
「すごい?だからお巡りさんがいるんですね」
「あいつは優秀だからな……」
最終的には森下の会社を摘発する予定。それまで待てと書いてあった。
「どうします?」
「まず。この手紙を燃やしてくれ」
「そうですね」
「後だな」
悠、澪をじっとみた。
「今後も、我々の動きを森下に知られない用にせねばなるまい」
「はい」
最近は元気になっている悠。しかし、また具合の悪い様子に戻ると言い出した。
「油断させるのだ。そして。私とお前は仲が悪いふりをしよう」
「そうですね。その方がいいと思います」
「……お前の悪口を言ったりするが、良いのだな?」
「はい、あの、旦那様」
「ん」
じっと見つめる澪。おずおずと話した。
「澪も旦那様の悪口を言わないとなりませんか」
「あ、ああ」
「なんて言えばいいでしょう?……ちょっとわからないです」
困っている娘。悠、ドキとした。
「お前な」
……本気で言っているんだもんな。面白い娘だ。
「お願いします!旦那様」
「そうだな『寝てばかり』とか、『わがまま』などはどうだ」
「ですが。旦那様が寝ているのは治療ですし。わがままではないですもの」
「おっと?……これは重症だ」
澪にこの手の嘘は無理。悠、頭を抱えたが嬉しさで笑っていた。
「そうだ!では反対の事を申せば良い」
「反対ですか。それなら、そうですね……」
「申してみよ。怒らないから」
澪、じいと悠を見た。
「旦那様は……全然優しくないですし、それに、怒ってばかりです」
「うん。いいぞ」
「態度は悪いし、私の事を見てもくれないです」
「おう。いい感じだ」
「だから……大嫌いです。一緒にいるのが苦痛なんです」
……おいおい。反対の意味だぞ?
澪は必死に嘘を言っている。本人は真面目であるが、それは本音をバラしているということ。告白を受けた悠。これ以上は恥ずかしくて聞いていられなかった。
「わかった!それで行け」
「そうですか?悪口になってましたか?」
不安そうな娘。悠。赤い顔を見られないように背を向けた。
「なったなった。いいから、小腹が空いた」
「はい!」
台所に向かう澪の足音。元気でトントントンと向かっていた。
居間の縁側には青空。軒先には風鈴を下げていた。
……入道雲、か。来る夏、か。
その風鈴の音色。恋の音を奏でていた。
完
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