10 旭の会

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「離してください。私は何もしていません」 「うるせえ!ここで何か書いていただろう」 ……このままでは。森下さんの前に連れて行かれてしまうわ。 建物の関係者の様子。しかも怒っている男。しかし、明るい時間で通行人もいた。澪、大人しくした。 「何か誤解されているのではないですか?私はただ、通りかかっただけです」 「では、何を書いていた!」 まだ何も書いてなかった澪。手帳を男に見せた。 「ほら。何もないでしょう」 「あ」 ここで。人が集まってきた。男、体裁が悪くなってきた。 「もういい。行け!」 「はい」 澪、そっと場所を離れた。胸がドキドキしていた。 ……でも、場所はわかったわ。これを大島さんにお伝えすれば良いのよ。 この足で郵便局に行った澪。葉書を買い、その場で今の内容を(したた)めた。これを『東京麹町、中央気象台、気象部大島宛』に郵送した。 ◇◇◇ 「ただいま帰りました」 「……おかえり。ずいぶん時間がかかったんな」 居間で本を読んでいた悠。その体には澪の着物を掛けていた。そんな彼に彼女は汗を拭きながら説明をした。 悠、話を静かに聞いていた。 「お前、そんなことをしてきたのか」 「はい。そして会社の住所と名前がわかりました。『旭の会』です。これは大島さんに葉書に書いて送ってしまいました」 手際の良い澪。悠は長い前髪からこの話を聞いていた。 「もう良い。お茶をくれ」 「はい」 ……あれ?怒っているのかな? 悠の様子。よくわからない澪。首を傾げながら台所に向かった。悠のために麦茶を運んできた。 「どうぞ」 「……澪……よくきけ」 近くに座った二人の間、夏の蝉の声が響いていた。彼の口調、真剣だった。 「良いか。もう、森下を追うな。あとは大島がやってくれる」 「でも」 俯く澪。悠、その膝の手をぐっと掴んだ。 「とにかく。あとは任せるんだ。お前はもう危険なことは禁止だ」 「禁止」 強い物言い。これいくらい脅さないと澪は勝手に行動しそうだった。悠はじっと彼女を見つめた。 「わかったな」 「はい」 まだどこか不服そうであったが、澪はうなづいた。そして夕食のために台所に立っていた。 ……怖い顔だったな。 禁止という強い口調。澪はショックだった。彼の嫌いなこと。それはお節介だった。それを今更、思い出していた。 ……そうか。これは余計なことだったんだわ。 良かれと思い、つい行動してしまった自分。彼のために動いたつもりでもそれは迷惑だった今回の出来事。彼を怒らせただけだった。 ……そうよね。私は本当のお嫁さんじゃないのに。 今夜のお粥を作りながら、澪は北原菊の言葉を思い出していた。 死んだつもりで嫁に行ってこい、という意味。今ならわかる気がした。結婚相手の夫は死にかけの病人だったこと。これはすなわち、自分は介護人として呼ばれたに他ならない。よって、結婚をするわけでもなく、自分はただ病の夫に寄り添うだけの、一瞬だけの妻であったのだ。 ……きっと、旦那様のご家族は、旦那様が死ぬと、本気で思ったのでしょうね。 何も知らずにここにやってきた自分。彼の苦しそうで、非常識な治療を見かね、その結果、背いている。するとおかしなことに彼は健康になってきていた。 台所の竈門。お粥の湯気をあげていた。 ……そうか……元気になれば、旦那様は私なんかは必要ないんだわ。 ぼっと見つめる湯気。それはだんだん滲んできた。目がじんわり熱くなっていた。 米屋の養女の自分。今の彼はまだ伏せっているが、本来の彼はあのような役所に勤めている立派な紳士。自分が嫁に来るような相手ではないと彼女はだんだんわかってきた。 ……それなのに。お嫁さん気取りで。恥ずかしい…… 澪。涙を拭き、顔を拭いた。そして粥を仕上げようと長ネギを包丁で切り始めた。 ……でも、せめてお元気になってほしい。 彼が健康を取り戻せば自分は用無し。澪はそれをわかっていた。実家に居場所はない。帰る場所もない。しかし。目の前の彼にとにかく元気になって欲しかった。この想い、情なのか、恋なのか、愛なのか。それは澪にもわかっていなかった。ただ、悠に元気になってほしい、その一念だけだった。 彼女の悲しみを知らず、台所の窓は綺麗なオレンジ色の夕焼けが差し込んでいた。 ◇◇◇ ……くそ!なぜそんな無茶をするのだ。 悠、腹を立てていた。それは病で弱っている情けない自分と、澪にだった。自分の世話をしてくれている澪、最初は金目当てと酷いことを言ってしまったが、優しく賢い娘である。 母親も自分も信じてしまった怪しい森下の治療。これを見抜いただけではない。勇気持ってこの治療を拒否し、こんな自分を治そうとくれている。 このせいで彼女は何か責めを受けるかもしれない。この家も追い出されるかもしれない。そして、あんな背の傷を負わせるような酷い環境に戻されるのかもしれない。 ……それなのに。俺のために危険な真似を!……ああ。自分が情けない。 抱える頭。長い髪。これも澪は洗ってくれた。身に付けている浴衣。これも澪が洗ってくれた。これらの看護、これは全て森下に発覚したらどんな目に遭うか。悠は分かっていた。 だから澪には自宅でひっそりしていて欲しかった。彼女の森下の尾行は大きな成果であるが、悠は澪のことが心配でたまらなかった。 苦悩の部屋。ここに澪、土鍋を持ってきた。 「旦那様、お粥です」 「あ、ああ」 悠。彼女の顔を見られずにいた。澪、静かに座り一緒に食べだした。しかし、悠の前の澪。ちっとも食べなかった。 「いかがした」 「……私、今夜は胸がいっぱいなので……もう、いいです」 「え」 悠が見ると、澪は泣き腫らした顔をしていた。 「どうぞ……旦那様は、ごゆっくりお食べください」 そういうと。彼女は頭を下げて退室してしまった。悠、唖然とこれを見ていた。 その夜。二人は暗い寝室にて横になった。澪の元気のない様子。悠、ハラハラしていた。 「み、澪よ」 「……すいません。私、今夜は疲れたので、お話は明日に」 「あ、ああ」 月明かりの寝室。どこか涙声。どこか震える肩。彼女の布団は寂しそうに丸まっていた。何も言えない悠。その姿を見ながら、いつの間にか自分も寝てしまった。 翌朝。森下がいつものようにやってきた。元気のない澪に怪訝そうな顔をしていたが、澪の悪口を言う悠に嬉し顔をした。 「ところで。悠様。天水の効き目はどうですか?」 「あ、あれですか。頭がスッキリしますね」 本当は飲まずに捨てている怪しい水。澄ました声の悠。森下、一瞬、目を輝かせた。 「そうですか……では、引き続きこれをお飲みくださいね。空いた甕は持って帰りますので」 そう言うと。森下、忙しく帰っていった。澪、いつものように玄関外まで見送りをした。 ……機嫌は良さそうだけど。忙しそうだわ。 先日の尾行の屋敷。あの患者のように抵抗する人がいるのだろう。澪は森下が他の家で苦戦しているのではないかと思っていた。 つっかえ棒をした澪。悠にお節介はしないと決めて話しかけずにいた。 ……私はお嫁さんじゃないもの。勘違いしちゃダメなのよ。 そして、彼に朝食を出し終えると、片付けた。やがて雑巾を手にし掃除を始めた。この悲しく小さな後ろ背中。悠、理由もわからずそっと見ているしかできずにいた。 こんな翌日。いつもように森下がやってきた。彼女は寝床にいる彼ににこやかに話しかけた。 「今朝もちゃんとお香もありますし、お花もありますね。そして。天水はお飲みになりましたか?」 「ええ」 「本当に?」 「はい。そこにあるのがそうです。空いていますが」 「……おかしいですね」 森下。目を細くした。 「昨日、ここに置いて行った天水は。偽物です」 「え」 驚く悠。森下、静かに語り出した。 「あれはただの塩水です。悠様は本当に、あれを。あれを飲んだのですか?」 怒りを湛えた森下。その前は真っ赤に充血していた。 つづく
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