10 旭の会

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「おお、なんということでしょう。私を騙すなんて」 「待ってくれ。何かの間違いじゃないか」 「許せませんよ……」 ジリジリと悠に迫る森下。その手には小さな小瓶が見えた。それは森下が時々使用する睡眠薬。森下、これを悠に飲ませようと迫った。この時。悠の前に黒髪が揺れた。 「お待ちください!」 「澪?!」 部屋の外で控えていた澪。突然入ってきた。そして寝床の悠の盾になった。 「おどき!」 「いいえ。旦那様は何も知らないのです!森下さん。全部私のせいです」 「澪。お前?」 驚く悠。小さな澪の背を見つめていた。 「悠様はお黙りなさい!やはり犯人はお前だね?天水を飲むなと言ったのは」 真っ赤に怒る森下。両手を広げ彼を背にした澪。意を決した。 「違うんです!」 「嘘を言うな!」 「本当に違うのです。私が勝手に飲んでいたんです」 「なんですって?」 驚く森下。悠も同様だった。澪。はっきり向かった。 「だって。それを飲めば元気になるって言うんですもの。それに。幸せになれると森下さんが言っているのを聞いたので」 「では?お前は悠様に飲ませずに。お前が飲んでいたと言うのかい」 「はい」 驚きの彼に構わず。澪と森下は真剣に睨み合っていた。澪、じっと森下を見つめていた。やがて森下が折れた。 「だったら。昨日の天水もお前が飲んだと言うんだね」 「はい」 ……いや、これは嘘だ。 森下。澪の嘘を見抜いていた。最近、山中に支部を任せてもらった嬉しさで、信者と言う患者を増やしていた森下。しかし、ある家にて、神水や天水を飲んだふりをしている男を発見した。これを重く見た森下、他の患者にも同様の罠を仕掛けていた。 本当に飲んでいる患者。「昨日のはいつもと違いました」や「昨日のは塩が濃くて飲めませんでした」と正直に森下に打ち明けていた。しかしこの小田島悠。いつものように飲み干したと言った。それに加え、付き添いの娘は自分が代わりに飲んだとまで言い出した。 「だったら。ここに昨日と同じ天水がある。本当に飲んだというのなら。飲んでご覧なさい」 「……これですね」 「澪!」 天水の瓶を手に取った澪。悠の叫びに静かに頭を下げた。 「旦那様。今まで勝手に飲んでしまって、ごめんなさい」 そして。この天水の徳利を掴むとコップに注いだ。これを一気にごくごくと飲んだ。海水を同じような味、途端にむせたが、澪はコップ一杯を飲んだ。 「やるじゃないか。ほら、まだ残っているよ」 「の、飲みます」 「よせ!澪」 澪。再度、コップに入れて飲んだ。この様子、悠は全身汗で見ていた。森下は嬉しそうに見ていた。こうして澪。全部、飲み切った。 「……ふふ。大したもんだね。でもね。こんなことをしたって。お前は泥棒だよ?悠様の薬を無断で飲んだのだから」 「澪。しっかりいたせ」 布団にいた悠に倒れかかっている澪。吐き気を催していた。これを森下、冷たい顔で見下ろした。 「私はこのまま。小田島家に報告に行く。悠様には他の介護人を用意します。お前はもう家に帰る支度をなさい」 「待ってください。森下さん」 悠の止める声も聞かず森下は帰っていた。この間。澪は台所で塩水を吐いていた。悠、彼女の背をさすっていた。 「澪。水を飲むか?」 「いいえ……う!」 澪。苦しそうに全部吐いた。しかし、濃い塩分。水を飲みながら澪は吐き続けた。落ち着いたのは昼になっていた。悠、澪を居間で休ませていた。 ……やっと寝たか。 吐き続けた彼女、しかし井戸水も飲み、今は静かに眠っていた。 ……しかし愚かな!俺の代わりに塩水を飲むなど。ありえん。 強い怒り。それは無能な自分への苛立ち。悠、悔しくて澪をそばにいることができなかった。彼はそっと台所に行こうとした。ここで玄関から人の声がした。 「おい。小田島!俺だ!大島だ」 「大島?ま、待て。今開ける」 玄関を開けると。そこには笑顔の同僚がいた。 「お!思ったよりも元気そうだな」 「どうしてここに?」 驚く悠。彼はにっこり微笑んだ。 「ははは。例のお前が引っかかった健康食品。秘密警察に逮捕されたんだ。ま、それよりも。お前の愛しの澪さんはどこだ?」 「とにかく。上がってくれ」 悠。慌てて居間で寝ている澪のところに大島を案内した。澪の苦しそうな様子。彼は眉間に皺を寄せた。悠、事情を話した。 「わかった。とにかく、お前も一緒に病院に行こう」 「病院」 「ああ。二人ともだ。もう手配している」 外には車がいるという大島。悠、澪が心配だった。こうして彼は急いで澪と一緒に病院に入院することになった。 大島が案内したのは最新治療で有名な大学病院。ここで悠は診断を受けた。 「あなたの話を伺う限り。それは軽い精神病ですね」 「精神病?しかし、自分は咳や頭痛が」 これに医師、悠の目をじっと見た。 「いいえ。あなたは身体に異常はありません。それよりも、ずいぶん、色が白いですよ。全然日光に当たっていないのではありませんか」 「あ、ああそれは」 森下に出会う前から。悠は皮膚が弱いので日光を避けていた。医師はこれをやりすぎだと指摘した。 「普段の生活で浴びる程度で結構です。それと、肺が弱っています。外気を吸って、むしろ肺を鍛えてください」 異常はないと言われた悠。信じられない気分。思わず医師に尋ねた。 「あの。薬は?」 「要りません。食べ物から栄養吸収で十分です」 「でもその」 「……小田島さん。あなたの話では恋人と悲しい別れをしたとありましたね。あなたはそれを忘れようと、心で無理をしたんでしょうね」 医師。彼を見つめた。悠、素直に口を開いた。 「そうかもしれません。では先生、私はどうすれば忘れられるのですか」 「無理ですね」 「え」 医師。静かに答えた。 「そうやって。忘れよう、忘れようと必死になっている間は、無理ですよ」 「ま。まあそうですね」 ここで笑顔の二人、医師は続けた。 「人間、誰でも。辛い経験があります。戦争に行った人、子供を亡くした人。そんな悲しい思い出を皆さん真っ白に忘れているわけではないはずです。私とて、いまだに忘れられないことがあります」 ここで医師。窓の外を見た。 「でも。楽しい思い出が増えたり。他の出来事に夢中になって。その悲しいことはどんどん頭の隅に追いやられていくという感じですね」 「頭の隅に」 「ええ。小田島さんも、無理して忘れる必要はないと思います。だが、それが苦しいのなら、そうだな、あなたは気象台にお勤めでしたね。じゃあ、雲でも眺めますか?」 「雲」 二人、窓の外を見上げた。 「ええ。こうやって空を見上げて、雲の事を考えるようにするのです。その間、悲しい出来事は考えないですから」 「雲、か」 気象に関する仕事をしている悠。この医師の話が胸を打った。 「そうですね。自分はもっと他にやらなくてはならない事があります」 「小田島さん。決して無理はいけませんよ?いいですね」 医師、そう言ってカルテを書いていた。ここで悠、気になっていたことを聞いた。 「ところで先生。うちのあの。澪は?」 「ああ。あの娘さんですか」 医師。椅子をくるりと回した。 「あの塩水はすでに処置しましたが、その」 「もしかして。彼女の、背の傷ですか」 「……そうです。本人は口にしませんが」 医師、悲しげな声で説明した。それは澪の背中の傷の説明だった。 「今は傷が塞がっていますが。あれは刀傷とかそういうものじゃありません」 「棒とか?硬いもので殴られたんですか」 「いいえ。おそらく。鞭のような、しなる紐ですね」 「鞭」 悠、ゾッとした。医師も悲しげな目で見つめた。 「あれは痛みを与える拷問ですよ。それにあの傷は古いものもあります。おそらく幼少時からのものです」 「なんということだ」 本人の強い希望で治療はしないことになったと医師はこぼした。そして悠。自分で澪の病室にやってきた。 「澪?あの、すいません。このベッドにいた娘を知りませんか」 同部屋の女患者に尋ねた悠。彼女は不思議そうに答えた。 「ああ、娘さんなら退院したよ」 「え」 「品の良いおばあさんが迎えにきてね。挨拶して連れて行ったけど?」 話を聞かないうちに。悠、部屋を飛び出していた。 つづく
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