2 悠の憂鬱

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2 悠の憂鬱

「ただいま」 「おかえりなさいませ!」 「はあ」 久しぶりの仕事を終えた悠。疲れた顔で玄関に上がった。出迎えた澪、カバンを受け取った。悠、疲れ切っていた。 「旦那様、お風呂にどうぞ」 「だが。疲れて動けぬ」 「浴びるだけでも良いですから!さあ、さあ」 悠を脱衣所に連れてき澪。彼を風呂に入れた。悠、渋々であったが、少しぬるめのお湯に気分よく浸かった。そして出てきた。 「旦那様。麦茶です」 「ああ」 ごくごくと飲む様子。喉仏が動いてた。澪。その様子を見ていた。 「ふう、生き返った」 疲れていたが家に帰ってきた彼はホッとした顔になっていた。 「さあ。ご飯です。今夜はさっぱりと、ちらし寿司です」 これに目が光った悠、澪にグラスを返した。 「食べる。早くもってこい」 「はい!」 こうして二人。仲良く夕食になった。悠。黙々と食べていた。あまりの食欲。澪、驚きで見つめていた。 「旦那様。お昼は何を食べたんですか」 「食べなかった」 「え」 「時間がなかったのだ。それよりもお代わり!」 「は、はい」 ……食べなかった?そんなにお仕事が溜まっているのね。 澪は悠の職場を知っている。彼はお役所勤め。おそらく地位のある仕事であろうと察していた。それでも昼食も取らないとは、澪は心配になった。 ……でも旦那様は病み上がりなのに。これが続くとまたお体を壊してしまうわ。 悠にお代わりを渡した澪、この夜は心配で彼の隣で寝付けなかった。悠は仕事の疲労か。こんこんと寝ていた。この寝息。澪は不安な気持ちで聞いていた。 この日、珠代が来たことは言わなかった。今の悠は仕事で頭がいっぱい。余計な事で彼の邪魔をしたくない。澪、そっと目を伏せて眠った。 こんな日々が数日続いていた。 「小田島。無理するな」 「……大島。この数値を見ろ、これは小笠原から送られてきた海水の温度なんだ」 「どれどれ」 興奮する悠。彼は台風の予測のためにデータを予測していた。元々気象学が専門の彼、仕事が楽しくなっていた。 「な。これを見てくれ。ここの」 「落ち着け。まずは昼飯だ」 大島に腕を引かれた悠、近くの蕎麦屋にやってきた。頼んだのはもりそば。来るまで悠、台風について熱く語っていた。大島。呆れた顔で聞いていた。 「な?海水温度が高いんだよ」 「わかったから!それよりも、お前、澪さんにお礼をしたのか」 「お礼?なんだそれは?」 「うう。お前って……そうだったったよな」 頭を抱えた大島。対面でお茶を飲む、仕事に夢中な悠に向かった。 「あのな。今回の復帰、これは澪さんの助けがあったからだろう」 「あ、ああ、まあな」 「俺が言いたいのはな。それについて。澪さんに感謝をしたのかってことだ」 悠。目をパチクリさせた。 「もちろん。ありがとうと感謝を言ったが」 「それは当然だろう!俺が言っているのはそうじゃないんだ」 ここで。蕎麦が届いた。悠。割り箸を割った。大島もやれやれで割り食べ始めた。 「いいか?例えば。感謝の意味で花を買って帰るとか。喜ぶものを買ってやるとかだよ」 「澪に?そ、そうか」 「お前、前に恋人がいたじゃないか。その時はどうしていたんだ」 「……まあ、あの時はお互い、まだ幼かったし」 悠。そばをズルズルと食べていた。 「あいつは親の勧めで嫁に行ってしまったし。そんな事をした事ないな」 「自慢する事じゃないぞ?全く」 大島の呆れ顔。悠。食べ終えて蕎麦湯を飲んでいた。 ……確かに。澪に何かしてやりたいものだ。 感謝の言葉をかけているが。確かに形にすることは良いと悠も思った。しかし、何を買えば澪が喜んでくれるのか。悠にはわからなかった。 この日。仕事の帰り道。悠、街中を歩く女性たちを見た。夏の装い、モダンガールのワンピース。素敵な帽子の女性が歩いていた。見れば澪より少し歳が上程の女性たちだった。 ……澪は着物であったな。こんな洋服が嫌いなのかな。 家にいる澪。夏の着物で仕事ばかり。反してここにいる娘たちは化粧をし。素敵なハンドバッグを持っていた。華やかな年頃娘たち、悠。澪の心を思っていた。 「ただいま」 「おかえりなさいませ。お風呂はどうなさいます?」 「先に入る」 いつものように帰宅した悠。風呂に入りながら澪への贈り物を思案していた。 ……くそ?考えても。何も思い浮かばぬ! 買うつもりであるが、どうすれば澪は喜ぶのであろう。悠、悩んでいた。しかし、この苦しい気持ちを抑えられず、とうとう寝る前に澪にぶつけた。 「なあ、澪」 「はい?」 風呂上がりの澪。濡れた髪を乾かした艶姿。じっと悠を見つめていた。悠、暗い寝室に動揺を隠しながら彼女に向かった。 「何か。欲しいものはないか?」 「欲しいもの」 「ああ。お前はその、毎日頑張っているので、何か、その、贈り物を」 「旦那様」 恥ずかしそうな悠、、澪、布団の上で正座、口を真一文字に結んだ。 「澪は、欲しいものはありませんが。旦那様にお願いがあります」 「なんだ、それは?」 彼女の真面目な声、悠、思わず布団から起きた。 「……お仕事で無理をしないで欲しいのです。お昼も召し上がらないなんて。 仕事とは。そこまでして、しないとならないのですか?」 「澪」 どこか怒っている彼女。膝の浴衣をぎゅうと摘んだ。 「寝言でも。お天気のことをお話ししてばかりで、澪はもう耐えられません。やはりこれは大島さんに言って。お仕事を減らしてもらいましょう」 「ま。待て?澪」 「いいえ!これではまたお体を壊してしまいますもの」 「わかった」 涙目の彼女、じっと悠を見ていた。思わず悠、澪をふわと抱きしめた。 「旦那様?」 「私が悪かった。お前にそんなに心配をかけていたとは」 「……だって……毎日、お仕事のことばかりで」 涙ぐむ澪。悠。その黒髪を優しく撫でた。 「わかった。わかった」 「本当にわかったのですか?」 「ああ」 ……こんなに。私を案じていたとは。 悠、嬉しさで震えていた。澪は自分のことをこんなに思っていてくれた事。胸が熱くなった。 「昼飯は食べる。それに、休憩もするよ」 「本当ですね」 「ああ。だがな澪。私は早く仕事で成果を上げて、お前を正式に迎えたいのだよ」 耳元で唸るような囁き。澪も痺れるように身を震わせた。 「嬉しいです……澪は、そのお気持ちだけで、十分です」 「澪」 悠、そっと澪の頬に口付けた。 「待っていておくれ。それまで」 「……はい。でも、無理はなりません」 「わかった。さあ、寝ようか」 「はい」 今夜も布団を並べた二人。ただ一緒の部屋で寝るだけだった。夏の夜、蒸し暑い風、畳の部屋は心地よかった。 ◇◇◇ その翌日から。悠の仕事の様子が変わっていった。 「お。こんな時間か」 「どうする小田島。こっちの計算は」 「……昼飯の後でやる」 「へえ?」 昼休みはちゃんと休憩。食堂で食べた後はひとまずお茶を飲み休んでいた。これに大島も驚いた。 「一体どうしたんだ」 「澪が心配するので。休憩を入れることにした」 「ほお?」 「……今朝も健康管理も仕事のうちと言われたんだ。あれには本当に参るよ」 「よかったな」 「え」 見上げた大島の顔。笑顔だった。 「澪さんがいて」 「まあな」 「否定しないのか?ははは」 やがて昼休みが終わる鐘が鳴った。二人は仕事に向かっていた。この午後、台風の予報について意見交換の会議となった。司会は大島が進めていた。 「ええ、それでは。秋の台風について意見交換とする。今までの話では、過去のデータを元に予想するとなっているが、誰か他の意見はないか」 「はい。いいですか?」 「小田島。頼む」 悠、立ち上がり説明をした。 「確かに。過去のデータも重要ですが。自分は外国のデータも参考になると考えます。例えば、アメリカの記録です」 悠。特別な資料を広げた。 「これによると。太平洋の海水温度が高いと、それに伴ってできる雲が大きい事がわかってきました。これはアメリカの観測データです」 ここで一人が手を挙げた。 「小田島さん。それは遠い国の話でしょう?我々とは関係ないのでは」 「いいや。大いに関係ある。さらにだ。皆は偏西風を知っているだろう?」 悠。地図を広げて説明をした。 「これの進路であるが。本来はこのように、日本上空を西から東に流れているんだが。今年はどういうわけか。計算では定位置よりも北の位置で流れているんだ」 「それはどういう事ですか」 新人の質問。悠は答えた。 「偏西風は強い風の流れだ。これがあるおかげで台風は日本に上陸できず太平洋へと去っているのがいつもの進路。しかしだ。今は緯度の上の方を流れている。このため、偏西風の守りがない。だから大型台風が本土上陸の恐れがあると俺は見ている」 「そんな」 「しかも。海水温度が高い。だから大きな台風が日本を直撃する可能性が高いのだ」 悠の予報。一同、はシーンとなった。その一人、質問をした。 「では。俺たちはどうすれば良いのでしょうか」 「……まず。ヒィリピン沖の海水の観測だ。そこから台風が発生するからな。そして迅速に台風の動きの予想を立てることが賢明だと思う」 「わかった。みんな、今の話で進めてみよう」 最後は大島が締めて会議は終わった。 この日の帰り。大島と小田島だけで今後の話をした。 「先程の通り。とにかく情報だな、小田島」 「ああ。俺も南洋のデータを調べておくよ」 「……それしても。頼りになるよ。これは澪さんのおかげかな」 「ば。馬鹿な」 恥ずかしそうな悠。大島、まあまあと微笑んだ。こうして悠、帰り道を歩いてていた。夏の空には金星が光っていた。 ……早く。仕事で成果をあげたい、そして。澪の実家に挨拶に行くんだ。 夏の大三角形の星に包まれる悠、疲れた顔を見せず、澪が待つ家へと足を運んでいた。 ◇◇◇ 午後、小田島悠の邸宅にて。 ……まあ。もうお米がないわ。 淋しい米櫃(こめびつ)。これに澪はため息をついていた。彼女は箪笥から封筒を取り出した。悠から預かった今月の生活費。ここからお金を取り出し、彼女は買い物に出かけていった。 ……お米でしょう。それに卵も食べて欲しいな。 とにかく健康になって欲しい。澪はその思いで商店街で買い物をしていた。今はこうして小田島家から生活費をもらったが、それまでは全て澪の自腹であった。 嫁入りに持参したお金はささやかなもの。そして澪は着物やかんざしなど、嫁入りに持ってきた私物を質屋に入れてお金に変えてしまった。これは全て悠のための買い物に消えている。それでも澪は幸せだった。 街を行き交う同世代の娘達は流行のワンピース。反して自分は実家で着ていた夏の古い着物だった。それも気にならないほど澪は悠のために暮らしていた。 この日、彼女は魚屋に買い物に来ていた。 「すいません。このお魚をください」 「へい」 「……あら、お前は澪じゃないか」 「え」 そこには実家の母親のカメが福子と買い物に来ていた。 「悠の憂鬱」完
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