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3 すれ違い
「奥様。それに、福子様?」
驚く澪。しかし二人はみるみる怒り出した。
「澪……よくもお前は」
「え」
福子。鬼の形相で澪をにらみ乱暴に腕を掴んだ。そして路地に引きずってきた。澪、抵抗する暇もなく驚くだけだった。
「福子様?これは一体」
「この!……恩知らず」
福子。いきなり澪の頬を打った。澪、何が起きたのか分からず呆然と手で抑えていた。これにカメが興奮で肩を揺らしていた。
「そうだ!お前は自分のことばかりで。おかげでこっちは大変な目に遭っているんだよ」
「お二方……澪には何の事かわかりません」
「ふん!とぼけやて」
福子。綺麗な顔、美しいワンピースで腕を組んだ。
「お前がいなくなって。うちはもう、大変なの!」
これにカメも続いた。
「そうさ!お前がいなくなって家の中がめちゃくちゃだよ。使用人を雇ってもみんな辞めてしまうし。おかげで私が家の仕事をさせられているんだよ」
「まだそれならいいじゃないの!私なんか店の仕事よ?この私が集金に行かされているのよ?この私がよ!」
怒り狂う二人。彼女達の仕事は今まで澪がやってきたもの。この苦労を自分にぶつける思い。よほどの思いだろうと思った。
……福子様は、店の手伝いをしたことがないから。お辛いのでしょうね。
「ちょっと!聞いているの?」
「澪!お前はいつになったら帰ってくるんだい」
「そ、それは。大奥様が小田島家と話し合いで決めているはずです」
「言い訳するんじゃないよ!」
福子。澪を蹴った。澪は転んでしまった。福子、見下ろした。
「こっちはね。お前の旦那が死にかけだから嫁に行かせたんだよ?さっさと旦那を看取って。金だけもらって帰ってきなさいよ」
「澪、立ちなさい!いいかい?お前の口から小田島さんに『家に返して欲しい』って頼みなさい!もう、こっちは限界なんだよ」
「い、痛い」
カメ、澪の髪を引っ張り立たせた。澪の口は血の味がした。しかし彼女は二人を見た。
「……澪は、帰りません」
「なんだって?」
「まだ歯向かう気?こいつ!」
福子。怒りでまた澪の頬を打った。澪、これを甘んじて受けた。
「何度打たられても。澪は帰りません」
「お前……それは本気で言っているのかい」
「澪。自分が何を言っているのか。分かっているの」
驚くカメと福子。澪は続けた。
「奥様。福子様……今までお世話になりましたが、澪は小田島さんの家に、お嫁に行ったんです。小田島さんから出て行けと言われるまで、澪は努めたいと思います」
「ばかな!お前は分かってないんだよ?お前は死に損ないの男の介添人だったんだ。そいつが死ななかったら。お前なんかお払い箱だろう」
青ざめるカメ、これを制するように福子が冷たい顔で一歩前に出た。
「澪。お前、豊がどうなってもいいのかい」
「え」
「毎晩。お前がいないと泣いているよ?それでもお前は帰ってこないのかい。酷いことをするね?」
「坊っちゃまが……?」
最愛の弟。それを言われると澪は心が痛んだ。しかし、福子をじっと見た。
「それは、申し訳ないことをしました」
「ね、帰っておいで澪。私達は本当の親子じゃないか」
カメのほっとした顔。澪は首を横に振った。
「でも、坊っちゃまはしっかりされています。いつまでもメソメソしているような、そんな弱いお子さんじゃありません」
「澪?お前は私達を見捨てるのかい」
「もう、いいわ」
福子。冷たい顔で見つめた。
「お前、本気なんだね」
「はい」
「これでもう。二度度と北原家の敷居は跨げないよ。それでいいのね」
「はい」
福子、目を細めた。
「そうか。澪は死んだのね」
「え」
「……我が家とこの女は一切関係ない。どんなに困ろうが金輪際関わりがないという事よ。あはは、この方がよかったじゃないの」
「福子様。でも、でも家の仕事は?」
カメが戸惑う中、福子は口角を上げた。
「お父様にお願いしましょう。お父様はね。澪が帰ってくると思っているから本気で使用人を探さないのよ。でも、私が説得するわ」
そういうと。福子は背を向けた。
「さあ、帰りましょう。こんな人でなしに構っていられないわ」
「ああ。こんな心の冷たい娘だったなんて?恩を仇で返すとは、この事だわ」
福子とカメ。恨み節を残し帰っていった。静かになった路地、澪は買い物をした物を拾って出てきた。西日の道は何事もなかったように人々が行き交っていた。この様子に澪の心も平常に戻った。
……さあ。帰ろう。悠様にお夕飯を作らないと。
落ちたものは形が崩れてしまったが、彼女は胸に抱えて帰っていった。帰宅後、鏡を見ると右頬に傷があった。これを髪型で隠し、夕飯を作った澪。玄関で悠の出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「ん?玄関が暗いな」
カバンを渡す悠、靴を脱ぎながら澪に話した。
「あら。今夜は月が明るいので、電灯をつけ忘れたんですね」
顔の傷を隠すためにあえて照明をつけていなかった澪。悠は素通りをした。
「まあいい、風呂に入る」
「はい」
そして入浴後に食事となった。この夜、澪は彼の右隣に座った。
「ん。今夜は隣か」
「ええ。いつも座るところに、私、水をこぼしてしまって」
濡れているから、と澪は笑顔で彼の横に座布団を置いた。そして一緒に食事をした。空腹だった悠、澪の頬の傷に気づかず食事を終えた。澪は食器を片付けていた。
「旦那様。お先に休んでください。澪はこれからお風呂ですのね」
「ゆっくり入ってこい。私は本を読んでいるから」
そうは言っても。歯磨きを済ませた悠、本を数ページめくると疲れて布団で寝ていた。その後、風呂上がりの澪、寝床の明かりをそっと消した。彼は寝息を立てて寝ていた。
……旦那様は、お仕事に夢中だわ。私も頑張らないと。
濡れた髪を吹く夏の夜。顔の傷は痛み、蹴られた脇腹は青い痣になっていた。口の中は切れたのか水を飲んでも沁みる。鼻をかんだら朱が混ざっていた。しかし、澪は悠の寝顔に癒されていた。
彼の寝床の横、そっと布団に入った。彼の寝息と、夏の虫の音。涼しい風、これに包まれた澪、痛みも忘れて眠りについた。
◇◇◇
翌朝、朝顔の涼しい風が吹いていた。
「まあ、今朝は大島さんが迎えにくるんですか」
「ああ。役所に行く前に。寄るところがあるんだ」
いつものように朝食を済ませた悠。同僚の大島がハイヤーで迎えにきた。澪は返事をしたが、悠は支度に手間取っていた。
「くそ。資料が見当たらない!澪。大島にお茶を出して、待ってもらってくれ」
「はい」
澪、お盆に麦茶を持ち、玄関で待つ大島に出した。
「お待たせして申し訳ありません」
「私が早く来たから良いのだよ。あれ?その顔どうしたの」
「え」
観察力の鋭い大島。澪の頬の傷を早くも見つけてしまった。髪で隠していた澪、びっくりした。
「これは、その。転んで」
「腫れているね。よく見せてごらん……ん?これは」
話の流れで頬の傷を看た大島、眉間に皺を寄せた。澪、慌てて手で隠した。
「平気です!」
「澪さん。僕はね。これでも武道をやっていたからわかるんだ。それは誰かに殴られたんだな」
「違います、お願いです。大島さん」
澪、思わず三つ指をつき、頭を下げた。
「旦那様に心配かけたくないんです!お願いです。どうか内密に」
「澪さん……」
「やっと本を見つけた。ん。どうしたんだい」
何も知らない悠。探していた本を手に持ってやってきた。二人の様子にびっくりしていた。
「澪……大島、これは」
彼に背を向けていた澪。必死に目をぎゅうと瞑り、大島に願った。大島、ため息で応じた。
「はあ……あのな。小田島。澪さんは、お前の支度が遅いから、俺に謝っていたところだ」
そう言って目配せした大島。澪は感謝でうなづいた。悠は呑気に靴を履いた。
「それは悪いことをした。澪よ。それは仕事で挽回するから心配するな」
「はい」
「では、行ってくる」
「澪さん。小田島は預かるよ」
「はい。どうぞ、お気をつけて」
彼に心配させたくない。苦しい思いの澪はこうして二人を見送った。
◇◇◇
「それでな。大島。やはりアメリカのデータは」
「……小田島。それよりもちょっといいか」
後部座席、大島は難しい顔で小田島を見た。
「お前な。最近、澪さんとはどうなんだ」
「何を急に」
「恥ずかしがることはない。俺が聞きたいのはだな。お前達のこれからこのことなんだ」
突然の真顔、悠は席にもたれた。
「その事か。まずは俺が仕事をしっかり努めて。それで澪の家に正式に挨拶に行こうと思っている」
「それは、澪さんも納得しているのか」
「ああ、そう話し合っているが」
「……小田島」
大島。進行方向を見つめた。
「気を悪くしないでくれ。お前は澪さんを大切にしているのは分かっているが。それは澪さんも同じだと思うんだ」
「何が言いたい」
「澪さんは……病めるお前を救おうと。何度も俺のところに足を運んだ事は覚えているよな」
大島。車の窓に肘をついた。
「お前には話してなかったが、澪さんは俺に会いに何度も来たのに。受付の女が俺に断りもなく、彼女を追い返していたんだ」
「初耳だな」
「悪かった。傷つけると思って澪さんにも話してなかったんだ。受付の女は、澪さんの身なりを見て。俺への金の無心だと思ったそうだ」
「……澪は、お前が忙しくてなかなか会えなかったと申していたぞ」
驚く悠。大島。横目で見た。
「だから!彼女はそういう女性なんじゃないか?意地悪されても『自分の態度が悪かった』と、そう思ってしまうんじゃないか」
「確かに」
あの森下女史の前で正義を貫いた澪。悠、胸がドキドキしていた。大島は話を続けた。
「俺が言いたいのは。そのな。澪さんは我慢強い、だからお前はもっと彼女を」
「『気を遣え』と言う意味か」
「そうだ」
車は渋滞を抜けて走り出した。悠、黙って前を向いていた。
「まあ、話はそれだけだ。私生活の話で、悪かったな」
「いや。そんな事、ないさ」
ここで二人は無言になった。やがて麹町の気象台に到着した。
この日。仕事を早めに切り上げた悠。自宅に帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。早かったですね」
「ああ……」
ここで悠。澪の顔を見つめた。どこか違和感があった。
「澪、髪型を変えたのか」
「え?ええ、まあ」
「なぜ顔を背けるのだ。よく見せ、あ」
悠、澪の頬の傷を発見した。その顔、怒っていた。澪、胸が真っ白になった。
「その顔。いかがした」
「これは。その。転んでぶつけて」
……大島のやつ。この事か!
澪の異変を見抜いた大島に一瞬、嫉妬した悠。彼女に向かった。
「よく見せろ!」
「あ」
彼女を抱き寄せた悠。脇腹を抱かれた澪。痛みの顔をしてしまった。
「……もしかして。他にも傷があるのか」
「平気です……ちょっと体を打っただけで」
「来い」
怒りの悠。強引に彼女を居間に連れてきた。
……くそ!大島は気がついたのに。俺は。
襖を開けた悠。掴んだ細い手首の彼女を畳に座らせた。澪は必死に彼を見つめていた。
「旦那様。澪は大丈夫です」
「お前は……」
泣きそうな顔。白い肌、黒い髪。細身の体、優しい声。それが悠を苛々しくさせた。
「なぜ何も言わぬ!」
「それは。澪は何ともないからです」
「嘘だ。顔もそんなに腫れて、腰も痛むのではないか!」
「……旦那様。どうかお許しください」
澪。涙で土下座した。悠。怒りの拳で彼女を見下ろしていた。
……違う!俺は。澪に謝らせるつもりではない!?なのに……
澪、小刻みに震えながら頭を伏せていた。これをさせているのは間違いなく悠、自身だった。
「勝手にせよ!」
「あ」
悠。怒りのまま自室にこもってしまった。澪、涙で居間で濡れていた。部屋には夕暮れの風が吹き抜けていた。
完
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