3 すれ違い

1/1

2055人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ

3 すれ違い

「奥様。それに、福子様?」 驚く澪。しかし二人はみるみる怒り出した。 「澪……よくもお前は」 「え」 福子。鬼の形相で澪をにらみ乱暴に腕を掴んだ。そして路地に引きずってきた。澪、抵抗する暇もなく驚くだけだった。 「福子様?これは一体」 「この!……恩知らず」 福子。いきなり澪の頬を打った。澪、何が起きたのか分からず呆然と手で抑えていた。これにカメが興奮で肩を揺らしていた。 「そうだ!お前は自分のことばかりで。おかげでこっちは大変な目に遭っているんだよ」 「お二方(ふたかた)……澪には何の事かわかりません」 「ふん!とぼけやて」 福子。綺麗な顔、美しいワンピースで腕を組んだ。 「お前がいなくなって。うちはもう、大変なの!」 これにカメも続いた。 「そうさ!お前がいなくなって家の中がめちゃくちゃだよ。使用人を雇ってもみんな辞めてしまうし。おかげで私が家の仕事をさせられているんだよ」 「まだそれならいいじゃないの!私なんか店の仕事よ?この私が集金に行かされているのよ?この私がよ!」 怒り狂う二人。彼女達の仕事は今まで澪がやってきたもの。この苦労を自分にぶつける思い。よほどの思いだろうと思った。 ……福子様は、店の手伝いをしたことがないから。お辛いのでしょうね。 「ちょっと!聞いているの?」 「澪!お前はいつになったら帰ってくるんだい」 「そ、それは。大奥様が小田島家と話し合いで決めているはずです」 「言い訳するんじゃないよ!」 福子。澪を蹴った。澪は転んでしまった。福子、見下ろした。 「こっちはね。お前の旦那が死にかけだから嫁に行かせたんだよ?さっさと旦那を看取って。金だけもらって帰ってきなさいよ」 「澪、立ちなさい!いいかい?お前の口から小田島さんに『家に返して欲しい』って頼みなさい!もう、こっちは限界なんだよ」 「い、痛い」 カメ、澪の髪を引っ張り立たせた。澪の口は血の味がした。しかし彼女は二人を見た。 「……澪は、帰りません」 「なんだって?」 「まだ歯向かう気?こいつ!」 福子。怒りでまた澪の頬を打った。澪、これを甘んじて受けた。 「何度打たられても。澪は帰りません」 「お前……それは本気で言っているのかい」 「澪。自分が何を言っているのか。分かっているの」 驚くカメと福子。澪は続けた。 「奥様。福子様……今までお世話になりましたが、澪は小田島さんの家に、お嫁に行ったんです。小田島さんから出て行けと言われるまで、澪は努めたいと思います」 「ばかな!お前は分かってないんだよ?お前は死に損ないの男の介添人だったんだ。そいつが死ななかったら。お前なんかお払い箱だろう」 青ざめるカメ、これを制するように福子が冷たい顔で一歩前に出た。 「澪。お前、豊がどうなってもいいのかい」 「え」 「毎晩。お前がいないと泣いているよ?それでもお前は帰ってこないのかい。酷いことをするね?」 「坊っちゃまが……?」 最愛の弟。それを言われると澪は心が痛んだ。しかし、福子をじっと見た。 「それは、申し訳ないことをしました」 「ね、帰っておいで澪。私達は本当の親子じゃないか」 カメのほっとした顔。澪は首を横に振った。 「でも、坊っちゃまはしっかりされています。いつまでもメソメソしているような、そんな弱いお子さんじゃありません」 「澪?お前は私達を見捨てるのかい」 「もう、いいわ」 福子。冷たい顔で見つめた。 「お前、本気なんだね」 「はい」 「これでもう。二度度と北原家の敷居は跨げないよ。それでいいのね」 「はい」 福子、目を細めた。 「そうか。澪は死んだのね」 「え」 「……我が家とこの女は一切関係ない。どんなに困ろうが金輪際関わりがないという事よ。あはは、この方がよかったじゃないの」 「福子様。でも、でも家の仕事は?」 カメが戸惑う中、福子は口角を上げた。 「お父様にお願いしましょう。お父様はね。澪が帰ってくると思っているから本気で使用人を探さないのよ。でも、私が説得するわ」 そういうと。福子は背を向けた。 「さあ、帰りましょう。こんな人でなしに構っていられないわ」 「ああ。こんな心の冷たい娘だったなんて?恩を仇で返すとは、この事だわ」 福子とカメ。恨み節を残し帰っていった。静かになった路地、澪は買い物をした物を拾って出てきた。西日の道は何事もなかったように人々が行き交っていた。この様子に澪の心も平常に戻った。 ……さあ。帰ろう。悠様にお夕飯を作らないと。 落ちたものは形が崩れてしまったが、彼女は胸に抱えて帰っていった。帰宅後、鏡を見ると右頬に傷があった。これを髪型で隠し、夕飯を作った澪。玄関で悠の出迎えた。 「おかえりなさいませ」 「ん?玄関が暗いな」 カバンを渡す悠、靴を脱ぎながら澪に話した。 「あら。今夜は月が明るいので、電灯をつけ忘れたんですね」 顔の傷を隠すためにあえて照明をつけていなかった澪。悠は素通りをした。 「まあいい、風呂に入る」 「はい」 そして入浴後に食事となった。この夜、澪は彼の右隣に座った。 「ん。今夜は隣か」 「ええ。いつも座るところに、私、水をこぼしてしまって」 濡れているから、と澪は笑顔で彼の横に座布団を置いた。そして一緒に食事をした。空腹だった悠、澪の頬の傷に気づかず食事を終えた。澪は食器を片付けていた。 「旦那様。お先に休んでください。澪はこれからお風呂ですのね」 「ゆっくり入ってこい。私は本を読んでいるから」 そうは言っても。歯磨きを済ませた悠、本を数ページめくると疲れて布団で寝ていた。その後、風呂上がりの澪、寝床の明かりをそっと消した。彼は寝息を立てて寝ていた。 ……旦那様は、お仕事に夢中だわ。私も頑張らないと。 濡れた髪を吹く夏の夜。顔の傷は痛み、蹴られた脇腹は青い痣になっていた。口の中は切れたのか水を飲んでも沁みる。鼻をかんだら朱が混ざっていた。しかし、澪は悠の寝顔に癒されていた。 彼の寝床の横、そっと布団に入った。彼の寝息と、夏の虫の音。涼しい風、これに包まれた澪、痛みも忘れて眠りについた。 ◇◇◇ 翌朝、朝顔の涼しい風が吹いていた。 「まあ、今朝は大島さんが迎えにくるんですか」 「ああ。役所に行く前に。寄るところがあるんだ」 いつものように朝食を済ませた悠。同僚の大島がハイヤーで迎えにきた。澪は返事をしたが、悠は支度に手間取っていた。 「くそ。資料が見当たらない!澪。大島にお茶を出して、待ってもらってくれ」 「はい」 澪、お盆に麦茶を持ち、玄関で待つ大島に出した。 「お待たせして申し訳ありません」 「私が早く来たから良いのだよ。あれ?その顔どうしたの」 「え」 観察力の鋭い大島。澪の頬の傷を早くも見つけてしまった。髪で隠していた澪、びっくりした。 「これは、その。転んで」 「腫れているね。よく見せてごらん……ん?これは」 話の流れで頬の傷を看た大島、眉間に皺を寄せた。澪、慌てて手で隠した。 「平気です!」 「澪さん。僕はね。これでも武道をやっていたからわかるんだ。それは誰かに殴られたんだな」 「違います、お願いです。大島さん」 澪、思わず三つ指をつき、頭を下げた。 「旦那様に心配かけたくないんです!お願いです。どうか内密に」 「澪さん……」 「やっと本を見つけた。ん。どうしたんだい」 何も知らない悠。探していた本を手に持ってやってきた。二人の様子にびっくりしていた。 「澪……大島、これは」 彼に背を向けていた澪。必死に目をぎゅうと瞑り、大島に願った。大島、ため息で応じた。 「はあ……あのな。小田島。澪さんは、お前の支度が遅いから、俺に謝っていたところだ」 そう言って目配せした大島。澪は感謝でうなづいた。悠は呑気に靴を履いた。 「それは悪いことをした。澪よ。それは仕事で挽回するから心配するな」 「はい」 「では、行ってくる」 「澪さん。小田島は預かるよ」 「はい。どうぞ、お気をつけて」 彼に心配させたくない。苦しい思いの澪はこうして二人を見送った。 ◇◇◇ 「それでな。大島。やはりアメリカのデータは」 「……小田島。それよりもちょっといいか」 後部座席、大島は難しい顔で小田島を見た。 「お前な。最近、澪さんとはどうなんだ」 「何を急に」 「恥ずかしがることはない。俺が聞きたいのはだな。お前達のこれからこのことなんだ」 突然の真顔、悠は席にもたれた。 「その事か。まずは俺が仕事をしっかり努めて。それで澪の家に正式に挨拶に行こうと思っている」 「それは、澪さんも納得しているのか」 「ああ、そう話し合っているが」 「……小田島」 大島。進行方向を見つめた。 「気を悪くしないでくれ。お前は澪さんを大切にしているのは分かっているが。それは澪さんも同じだと思うんだ」 「何が言いたい」 「澪さんは……病めるお前を救おうと。何度も俺のところに足を運んだ事は覚えているよな」 大島。車の窓に肘をついた。 「お前には話してなかったが、澪さんは俺に会いに何度も来たのに。受付の女が俺に断りもなく、彼女を追い返していたんだ」 「初耳だな」 「悪かった。傷つけると思って澪さんにも話してなかったんだ。受付の女は、澪さんの身なりを見て。俺への金の無心だと思ったそうだ」 「……澪は、お前が忙しくてなかなか会えなかったと申していたぞ」 驚く悠。大島。横目で見た。 「だから!彼女はそういう女性なんじゃないか?意地悪されても『自分の態度が悪かった』と、そう思ってしまうんじゃないか」 「確かに」 あの森下女史の前で正義を貫いた澪。悠、胸がドキドキしていた。大島は話を続けた。 「俺が言いたいのは。そのな。澪さんは我慢強い、だからお前はもっと彼女を」 「『気を遣え』と言う意味か」 「そうだ」 車は渋滞を抜けて走り出した。悠、黙って前を向いていた。 「まあ、話はそれだけだ。私生活の話で、悪かったな」 「いや。そんな事、ないさ」 ここで二人は無言になった。やがて麹町の気象台に到着した。 この日。仕事を早めに切り上げた悠。自宅に帰ってきた。 「ただいま」 「おかえりなさいませ。早かったですね」 「ああ……」 ここで悠。澪の顔を見つめた。どこか違和感があった。 「澪、髪型を変えたのか」 「え?ええ、まあ」 「なぜ顔を背けるのだ。よく見せ、あ」 悠、澪の頬の傷を発見した。その顔、怒っていた。澪、胸が真っ白になった。 「その顔。いかがした」 「これは。その。転んでぶつけて」 ……大島のやつ。この事か! 澪の異変を見抜いた大島に一瞬、嫉妬した悠。彼女に向かった。 「よく見せろ!」 「あ」 彼女を抱き寄せた悠。脇腹を抱かれた澪。痛みの顔をしてしまった。 「……もしかして。他にも傷があるのか」 「平気です……ちょっと体を打っただけで」 「来い」 怒りの悠。強引に彼女を居間に連れてきた。 ……くそ!大島は気がついたのに。俺は。 襖を開けた悠。掴んだ細い手首の彼女を畳に座らせた。澪は必死に彼を見つめていた。 「旦那様。澪は大丈夫です」 「お前は……」 泣きそうな顔。白い肌、黒い髪。細身の体、優しい声。それが悠を苛々しくさせた。 「なぜ何も言わぬ!」 「それは。澪は何ともないからです」 「嘘だ。顔もそんなに腫れて、腰も痛むのではないか!」 「……旦那様。どうかお許しください」 澪。涙で土下座した。悠。怒りの拳で彼女を見下ろしていた。 ……違う!俺は。澪に謝らせるつもりではない!?なのに…… 澪、小刻みに震えながら頭を伏せていた。これをさせているのは間違いなく悠、自身だった。 「勝手にせよ!」 「あ」 悠。怒りのまま自室にこもってしまった。澪、涙で居間で濡れていた。部屋には夕暮れの風が吹き抜けていた。 完
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2055人が本棚に入れています
本棚に追加