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悠はとある会社にやってきた。
「あ。悠様」
老齢の事務員は悠を見て立ち上がった。
「すまない。兄さんは?」
「奥の役員室です」
「失礼するよ」
「あ」
悠はノックして入った。そこの席には兄が電話中だった。
「ああ。わかった、そのように頼む……ん?なんだ?悠か」
「兄さん。台風の情報は知っているんだろう」
「何の話かと思ったら」
小田島孝太郎。立ち上がった。そして窓の外を見た。
「確かに、台風が来るのは知っているが。それが如何した」
「電車を止めてください」
「馬鹿な?お前は何もわかっていない」
私鉄電車を運営している小田島家。その次男である悠、兄に向かった。
「何も分かっていないのは兄上です」
悠、窓の外に向かった。
「今はこのように晴れていますが。これは嵐の前触れ。これから今までにない規模の台風がここを直撃します」
「……故にお前は、私に電車を止めよと申すのか」
「そうです」
悠、部屋の中を歩き出した。
「電車が動けば会社も休みにできません。皆、無理をして出勤してしまいます。それは会社員だけではありません。学校もです」
「お前はやはり分かっておらぬ。電車を止めれば一日どれほどの収入が減るのか知っているか?」
孝太郎。葉巻に火をつけた。
「それに。台風が来てもゆっくり動けば良い。それに便数は減らすのだから」
「そんな程度では危険です!多くの被害が出ます」
「うるさい!これはもう、決まったことだ」
ここに。ノック音がし、孝太郎の部下が入ってきた。大きな声の兄弟喧嘩。これに驚いていた。
「取り込み中でしたか?」
「いや。話は終わった。弟が帰るので気遣い無用だ」
仕事優先の孝太郎。悠、冷たい目で兄を見つめ、そして背を向けた。
「兄さん。最後に一つ。今の電車の停車場は低い場所にあります。台風が来る前に、他の車庫に移動しないと、車両は全てが水没します」
そう捨て台詞の悠。孝太郎。微動だにせず葉巻を吸っていた。
その後、悠は気象台にて寝ずの仕事をし、全国からの観測データの収集に追われていた。それも疲れた彼、会議室のソファで仮眠をとっていた。
「小田島さん!起きてください」
「ん」
早朝。眠い目を擦った小田島。部下のデータを見た。
「見てください。こんな大きな台風ですよ」
「……しかも、ゆっくりだな。これは」
「どうした」
大島もやってきた会議室。ここで台風の様子が見えてきた。この勢い。明日には横浜に上陸するという動きであった。
「分かった、俺はラジオで放送をする」
「自分は海上保安庁に連絡をしてきます」
「あ。ああ」
残った悠。地図を見ていた。
……我が小田島の経営の私鉄は危険だ。それに、小田島の実家は低い場所だし。
すでに大雨が降り出していた。そして、川は氾濫し、低い箇所には水がくる。それを予測している悠、家族が心配になった。
ラジオ放送では、台風の接近や進路。被害の予想を放送していた。これを聞いた悠。実家に電話をした。
『はい。小田島です』
「千鶴さんですか?悠です」
悠。本家は低い土地にあるので今のうちに避難するように兄嫁に伝えた。
『お義父と孝太郎さんは会社なの。でも。私は臨月でお腹が大きいし。それに義母さんが心配で』
「だからこそ。今のうちに二人で俺の家に避難してください。あそこは川から離れているし。澪がいますので」
夫も義父も不在の本家。本来は留守の家を守らないとならない千鶴であるが。大きなお腹である。雨が降らないうちに避難するように指示をした悠、仕事に戻った。
◇◇◇
「うわ。風が強くなってきたわ」
生ぬるい風。澪、まだ明る時間であるが雨戸を閉めていた。そして、庭にあった小物を物置にしまい。倒れて困るものは、今のうちに倒しておいた。
「すいません」
「あ?はい」
……誰だろう、こんな嵐の前に。
玄関を開けると。そこには大きなお腹の千鶴と悠の義母が立っていた。
「突然でごめんなさいね」
「いいえ?どうぞ」
「澪さん……失礼しますね」
千鶴と義母、ゆっくりと家に上がった。澪。二人を居間に案内した。
「ふう!あのね。悠君がね。実家は危険だから。ここに過ごすように言ってくれたの。でも、急にやってきてごめんなさいね」
「いいんですよ!それよりも。楽な姿勢でいてくださいね」
千鶴を世話した澪。そして義母に向かった。
「あの。ご挨拶が遅れましたが。澪と申します。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「澪さん。悠は元気にやっていますか」
まだ精神状態が危ういという義母。このため悠は母に会っていなかった。今は普通の母親として彼を心配する様子。澪は少し安心した。
「あの、どうぞ、おくつろぎくださいませ。今。お夕食の支度をしますので」
「澪さん!私たち。お弁当を持ってきたのよ。一緒に食べましょうよ」
「そうですよ。私が作った稲荷ですけどね」
お重に入っていた綺麗な稲荷寿司。義母は恥ずかしそうにしていたが。澪は嬉しかった。
「うわ?美味しそうです」
「食べましょう、ね?お義母さん」
「ええ」
仲良く三人で食べた夕食。そして。澪は二人を客間に早く寝かせた。
……ええと、停電するかもしれないから。
ろうそく、マッチ。他にも枕元に用意をした澪も横になった。台風の備えで万全のはずだが。雨戸は恐ろしいほど風が吹き付けていた。澪、一晩中。眠れずにいた。
翌朝、朝食後。ラジオ放送を三人で聞いていた。
『……大型台風は関東地方を直撃。横浜では床上浸水。さらに川の増水にて住宅が流れており』
「まあ。お義母さん、小田島の家は大丈夫でしょうか」
「爺やに預けてきたのでそれは良いのです。それよりも千鶴。お前はお腹の赤ちゃんを心配しなさい」
「あの、お茶です、どうぞ」
大雨で不安であったが。この悠の屋敷は高い場所にあり川の増水は怖くなかった。しかし、玄関前の道がまるで川のようになり、低い土地へと流れていた。
やがて。昼には停電になった。おそらくどこかの電線が切れたのだろうと義母が囁いた。澪はろうそくの支度をしたが、千鶴は顔を顰めた。
「ど、どうしたんだい?」
「……いいえ。ちょっとお腹が痛いと」
「千鶴さん。もしかして、陣痛ですか」
「まさか?予定日はまだ先だよ」
驚く澪と義母。千鶴は気のせいかもしれないと言ったが、やはりこれは陣痛だった。
初産の千鶴。出産までは時間がかかるはずだと義母が言った。
「では、産婆さんを呼ぶんですね」
「ああ。でも。こんな嵐の中、来てくれるかね」
困り顔の中。千鶴。額に脂汗をかいていた。
「澪さん……む、無理しないで」
「千鶴さん」
嵐の中。初めてのお産。不安なわけがない。澪、どんな方法でも産婆を連れて来ようと思った。
「私!呼んできます」
「しかし、来てくれるかどうか」
「お願いをして、来てもらいます!」
真剣な澪。ここで義母も折れた。そして、産婆がいる住所の紙を澪に渡した。
「これは世話になる予定の産婆さんの家です。しかし、この近所にもいるかもしれないね」
「わかりました。私、ご近所に聞いて来ます」
澪。嵐の中、飛び出した。まずは隣の家の老婆に尋ねた。彼女は知っていると数件、教えてくれた。
「でもね。こんな嵐の中。来てくれるかどうかわからないよ」
「とにかく!お願いしてみます。ありがとうございました」
びしょ濡れの澪。話に聞いた産婆の家に向かった。傘などさせない暴風雨。せめて着物の上に悠の雨ガッパを着ていたがずぶ濡れだった。誰も歩いていない道。そして、言われた住所の産婆の家にやってきた。
「すいません!すいません!」
何度も家を叩くと。家から人が出てきた。白髪の老婆だった。
「なんだね」
「赤ちゃんが生まれそうなんです!お願いです、来て下さい」
「こんな嵐の日は無理だよ。よそに当たっておくれ」
「お願いです」
「しつこいね!帰りなさい!」
ピシャと締められた家。澪、大雨の中、頭を下げてここを後にした。
……諦めるわけにいかないわ。千鶴さんが、赤ちゃんが生まれるんですもの。
強風、水の道。なぜか実家の弟を思い出していた。澪、思いを必死に次の産婆の家に向かっていた。
つづく
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