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「どうだ。被害の方は」
「一部、停電は起きている。ここもわからんぞ」
「……もうすぐ夜になるな」
明るい時刻に避難して欲しい悠。しかし。被害が出る前に逃げる人はいない。気象予報をまだ信用されていない風潮もあるこの世の中。気象台では一同、歯がゆい思いをしていた。そんな時。ラジオから思いがけない放送が飛び込んできた。
『……小田急線の全線運休の発表後、国鉄も運休になりました。明日も全線不通となっております。さらに川の増水により、駅に浸水被害が出ている模様です』
「え」
「おい。お前のところ。電車が止まったんだな」
「大島室長、どういうことですか」
若い部下。話が見えず問い出した。大島、しいと口に人差し指を立てた。
「静かに!小田島の実家は、小田急電鉄の関係なんだ」
「すごいじゃないですか」
「……別に。家族がその仕事なだけだよ?でも、本当に止めるとは」
ここで。電話が鳴った。相手は小田島孝太郎だった。
『もしもし、悠か?』
「兄さん。やはり電車を止めたんだね」
『……ああ。どうせ客は乗らないし。こっちは車両が水没する方が被害が大きいと判断したんだ。それよりも』
孝太郎。台風の今後の進路を気にしていた。再開の目処を立てたいと弟に打ち明けてきた。
「明日の昼には関東を去って行くだろう。でも、去った後は土砂崩れや地滑りが怖い。それに線路に倒木の恐れがあるから」
『もちろん点検するさ。助かった。また連絡する』
そう言って。兄は電話を切った。悠。ふうと息を吐いた。
……あの、兄さんが。俺の助言を聞くなんて。
仕事人間。経済優先の兄。その彼が初めて自分を認めてくれたような気がした悠。胸が震えていた。しかし。それを吹き飛ばすかのような。甚大な被害の様子が気象台にも伝わっていた。悠、更なる対策を講じていった。
◇◇◇
「すいません!すいません」
「……はい、はい。どちら様?」
澪が訪れた産婆。時間はもう夜。産婆、嵐の中の澪を見て驚いていた。
「こんな夜に。それにあんた。ずぶ濡れじゃないか」
「私はいいんです。それよりも赤ちゃんが生まれそうで」
「お産かい?」
この産婆。行っても良いが、老齢のためこの嵐では無理だと話した。
「ですが!」
「落ち着きなさい。その人は初産だろう?まだまだ生まれないよ」
余裕の老婆。珠代が痛み出した時刻を澪に尋ねた。そして。指を折って計算して返事した。
「陣痛の感覚もそれならまだまださ。だから明日の昼。もう一度迎えに来なさい。その時、風が治まっていたら、私が行ってやろう」
「でも。今夜は」
「お姑さんもいるんだろう?だったら平気さ。とにかくお湯と清潔な布だけ用意して。あんたも早く帰って風邪なんか引くんじゃないよ」
「では明日、来て下さるんですね。わかりました、明日で直します」
今はこれが精一杯。澪、ずぶ濡れで帰ってきた。玄関では義母が手拭いを持って待っていてくれた。
「やっぱりダメですか」
「明日の昼。来てくださるそうです」
「……澪さん」
身体中から滴る水。それでも澪はただ珠代を心配していた。義母。まずは澪に着替えをさせた。
「これはお湯だよ。お風呂は沸かせなかったけど。これで体を拭きなさい」
「ありがとうございます」
「澪さん……ごめんなさいね。私のせいで」
「珠代さん。私はいいんです。痛みはどうですか?」
こうして澪。義母が支度してくれたタライのお湯で、雨に濡れた体を拭いた。温かった。
……優しいな。こんな風に感謝や労ってもらったことなんて。一度もなかったわ。
なぜか涙が出た。どうしてなのかわからなかった。
幼い頃から。きつい仕事をするのは当然だった自分。今夜のような雨の中、どうでも良い用事を頼まれたこともあった。それでもいつか。自分が人に感謝されることがあるかもしれない、と夢見ていた。
珠代のため、嵐の中、産婆を探すのは澪にとっては当たり前のこと。故にそれを遂げたとしても家族も当たり前と思っているのが今までの彼女の暮らしだった。
それなのに、今は義母が澪のためにお湯を沸かし、珠代は感謝してくれた。澪。また涙が出てきた。
……まだ、だめよ。こんなことで泣いちゃ。珠代さんのお産は、これからなんですもの。
台風はまだ大雨を降らしていた。こんな時、自分がしっかりしないといけない。澪、濡れた体を拭き、着替えた。そして。一晩中、珠代の世話をした。
◇◇◇
「ええ?町のそんなところまで水が来たんですか」
驚く部下。悠はデータを見ながら返事した。
「ああ。今後のために。どこまで水が来たのか確認しておいてくれ」
「小田島さん。でも台風は去ったんですよね。もう警報を解いても」
「だめだ!」
悠。部下を鋭く見つめた。
「それは台風の中心が去ったという意味だ。これからまた強風区域に入る。油断はできない」
「そ、そうでしたね」
「おいおい。そろそろ二人とも休憩しろ」
大島、少しヒゲが伸びた顔で部屋にやってきた。彼は上司に報告して来たところ。彼もまた疲れた顔をしていた。
「大島。お前こそ休め」
「小田島が休んだら俺も休む。いいから。二人とも休め」
半ば強制的に仮眠部屋に悠はやってきた。部下の彼も疲れており。すぐに寝息を立てていた。
……澪は。無事であろうか。
屋敷周辺では浸水被害の報告はない。悠。流石に疲れ、瞼が重くなっていた。
……この仕事が済んだら。父さんも兄さんも俺を認めてくれるはず。そして澪の家に結婚を申し込むんだ………
悠、思わず顔が緩んでいた。目を瞑っても浮かぶのは、澪の小さな白い顔。黒髪の黒く大きな瞳。小さな手は器用で、自分の背をさすってくれる温もりは今も感じている。
その声は柔らかく強く。その動きは俊敏でじっとしていられない働き者。その想いはいつも自分を案じており、それは自分もだった。
……早く。仕事を終えるんだ。そして、澪が待つ家に帰るんだ。
会議室の仮眠部屋。悠。思いを胸に、静かに眠っていた。心は澪の色に染まっていた。
◇◇◇
台風二日目。まだ強風が残っていたが、雨は止んでいた。この日の早朝から。珠代は陣痛で苦しくなっていた。まだ産婆は来ない。代わりに姑が付き添い、澪はお湯や布などの支度を済ませていた。
「うう」
「珠代!しっかり。息を止めてはだめだよ。お腹の赤ん坊も息が吸えないんだから」
「はあ、はあ。お義母さん。わ、わかりました」
「珠代さん。痛みが収まったらお食事にしましょうね」
陣痛。激痛が走るが一定の間隔。陣痛がない時は全く痛くないこの時。澪は珠代に食事を取らせていた。
「でも」
「今のうちにひと口だけでも」
「そうだよ!澪のいう通り。体力勝負だよ」
あまりの勧めで。珠代はおにぎりを食べた。おいしかったようで一つ食べ切っていた。
「う!きた……痛い痛い」
「珠代。息をほれ、ふう。ふう」
「みんなで一緒にやりましょう!ふう。ふう」
なぜか。三人で呼吸を整えていた。そして。澪は産婆を連れてきた。
「こちらです!」
「おお。どれどれ」
「はあ。はあ。はあ」
苦しそうな珠代。姑、産婆に向かった。
「どうですか?生まれますか」
「そうだね……あ。破水だね」
こうしていよいよ。お産となった。ここまで苦しんだ珠代。産婆の登場に安心したのか。夕刻までに男子を出産した。赤ん坊、産婆の手によって気持ち良さそうに生湯に浸かっていた。
「さあ、どうぞ。まずは母親だね」
産婆。寝ている珠代に赤ん坊を抱かせた。珠代、泣き出した。
「ありがとうございます……ああ。嬉しい」
「珠代、よくやった。立派な男の子だよ」
「珠代さん……おめでとうございます。本当に」
「ありがとう……産婆さんも。お義母さんも、澪さん。本当に感謝します」
大泣きの三人。そして産婆が帰ると言い出した。産婆もお産で疲労困憊の様子。澪、産婆を自宅まで送ると彼女の荷物を持った。嵐が去ったがまだ生ぬるい南風。そして。産婆の家に送ると澪は道を戻り出した。
「澪さん」
「え。あなたは」
「お前さえいなければ。私は山中様の愛を」
「きゃあ!」
髪を乱した森下。澪の手首をつかんだ。その顔。鬼の形相だった。
つづく
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