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6 泥の家
「離してください」
「うるさい!お前のせいで」
髪を振り乱した森下。着物も泥で汚れていた。あまりの興奮の様子。澪、驚きのまま彼女を見ていた。
「なんて事をしてくれたんだよ?お前のせいで私は私は」
「私。何もしていません」
「この……嘘つき野郎が!」
森下。澪の頬を打った。目が血走っていた。
「……支部も失い。今までの徳も全部、水の泡だ。お前の。お前のせいだ」
「違います!離して」
「せっかく見つけたのに。離すものかね」
その力。老婆と思えない強い力だった。澪、恐怖で声も出なかった。町はまだ台風の強風でこの路地には人気がなかった。
「何をする気ですか」
「決まっているさ。こっちに来い!」
「え」
森下。そういうと澪を引いて歩いた。そこには川が増水していた。
「森下さん……何を」
「私はね。今までの人生、全てをあの方に捧げたんです。時間もお金も全て」
澪の話を一切聞かない森下。澪。ゾッとした。
「それも全て無くなりました……あるのは借金のみ。さあ、澪さん。参りましょう」
「ど、どこへ」
濁流へと歩む森下。その手は澪をしっかり引いていた。澪。渾身の力で拒んでいたが、彼女は恐ろしい力で腕を掴んで離さない。澪、恐怖で体が固まった。
「やめてください」
「……これだけ善行をしたんですから。私は天国に行けるはず。お前さんもついでに連れて行ってあげますよ」
自分の世界。本気で言っている森下。澪、腰が抜けそうになった。が、大声で叫んだ。
「やめて。離して」
「……天の神よ。我が父よ」
すると。二人の足元の土が溶けるように崩れた。澪、悲鳴を上げた。そして、濁流に飲まれていった。
◇◇◇
「……お義母さん。今、悲鳴が聞こえませんでした?」
「気のせいでしょう?それよりも赤ん坊はまだ寝ているのかい」
「ええ。あ、起きました」
お産が済んだばかりの珠代。それに付き添った義母も疲れていた。赤ん坊を見守りながら、二人は一晩中。澪を案じていたが、強風の屋外に迎えに行くことはできずにいた。
おかしいと思いながらも翌朝になってしまった二人。台風一過の晴天の朝、この屋敷に悠が帰ってきた。
「あ、悠。澪さんがいないのよ」
「え?澪が」
「そうなんだよ」
玄関前でウロウロしていた母。澪が帰ってないと不安げに訴えた。悠は急ぎ自宅に上がった。そこでは産後で疲労困憊の珠代が赤ん坊と横になっていた。
「珠代さん……生まれたんですか」
「そうなの。でも悠君。ごめんなさい。澪さんは産婆さんを送ったきりで帰ってないの」
髪も汗だくの珠代。布団の中、涙声で彼を見つめた。悠。まずは頭を下げた。
「僕が探します。義姉さんは休んでください」
家が心配で一時帰ってきた悠。行方がしれない澪を、産婆の家を頼りに探しに走った。しかし、町はそれどころではなかった。
……ひどい有り様だ。こんなにも被害があるとは。
町中の建物の損壊。主に屋根瓦がなくなっていた。強風により倒れた塀も多く道は歩くのがやっと。そして川は濁流となっていた。呆然としている中、川では捜索が行われていた。悠、野次馬の話を耳にした。それはこの付近の人が川に流されたということだった。悠。思わずその話の輪に入っていった。
「それは、この近所の人ですか」
「ああ。ここは泥だらけだが、本来は道なんだ。ここに裏山の土砂が流れてきて、ここにあった家ごと流された人がいる様子だよ」
「土石流」
川に浮かぶ捜索ボート。悠、それをただ見ているだけだった。
その後。台風被害の報告が入ってきた。家屋の損壊によるケガ、川の増水で流された人の被害。行方不明者の数が百を超えた。予報士の悠、この数に責任を感じていたが、大島いわく。被害を最小限に抑えたと彼を慰めてくれた。
台風の進路を当てた悠の功績は大きく評価され、彼の名誉となった。しかし、喜んでくれるはずの彼女はいなかった。悠以外の人々も身内に行方不明者がいる今回の台風被害。彼は澪を必死に捜した。病院や避難所、それは遺体安置所まで及んだが見つからなかった。
そんな中、彼の元に一人の女性と幼い子供が訪ねてきた。
「悠様」
「美沙か?」
「ああ。悠様」
かつての恋人。結婚したはずの美沙。涙で悠に抱きついた。悠。驚きで彼女を離した。
「どうしたんだ?」
「……夫は、倒れてきた建物の下敷きになってしまって。亡くなったの」
とにかく家にあげた悠。すっかり痩せた美沙、隣に幼児を置き。話を続けた。
「お葬式が済んだら。私、追い出されてしまって」
「その子供がいるのに?」
「女の子はいらないって。それに夫は次男だから」
「だが。お前は正式な妻だろう?ちゃんと財産とかもらえるはずだ」
美沙。首を横に振った。
「あの家の人に、そういう常識は通じないわ」
「ねえ。お母さん。私、お腹すいた」
「ああ?そうか。ちょっと待ってくれ」
悠。幼い女児に家にあった煎餅を渡した。子供は貪るように食べた。この様子。よほどの空腹に見えた。
「悠様。突然やってきてごめんなさい。でも帰ろうにも実家も流れて跡形もなくて」
「美沙」
「う。ううう」
泣き出した美沙。気がつけば悠の家に足が向かっていたと打ち明けた。幼なき頃から美沙を知る悠。娘を抱えた美沙を気の毒に思った。
「悠様。どうか。しばらくここにおいてもらえませんか」
「ここに?」
悠には美沙への恋心は一切ない。今は美沙とその娘への同情だけだった。しかし、独身の自分の家に、女性を住まわせること。誤解されると思っていた。
……だが。こんな幼児がいるのに。追い出すのは……
できない悠。それに本当に彼女には幼馴染の気持ちしかなかった。だからこそ、やましい気持ちなく。美沙の家が決まるまで、この家に居候させることにした。悠は気象台の独身寮に暫しの間、住むこととした。
彼は支度をしながら美沙に頼んだ。
「美沙よ。実はな。俺には婚約者いるんだ」
「え?では私がここにいては」
「先の台風で……行方知れずなんだよ」
寂しそうな顔の悠。話を続けた。
「だが。必ずここに戻ってくると私は信じている。だから美沙。私の留守の間。澪が帰ってきたら私に知らせてくれないか」
「澪さんというのね。わかった。必ず連絡します」
「頼んだよ」
こうして。屋敷を美沙に貸した悠。澪を忘れるかのように仕事に向かっていた。そして、半年経て。その日がやってきた。
「ごめんください」
「はい?」
美沙が玄関に向かうと。そこには娘が立っていた。手には杖を持っていた。
「恐れ入ります。こちらは小田島悠様のご自宅でしょうか」
「そうですけど」
「私、北原澪と申します」
「澪さん……」
髪を一まとめに横に流した澪。じっと美沙を見つめていた。美沙。ごくんと息を呑んだ。
「あの。悠様はご在宅でしょうか」
「え。あの、その」
自分よりも若い澪。光る黒髪。白い肌。美沙、胸は熱くなってきた。
「ここにはいません」
「では、どちらに」
「しゅ、主人は長期出張です」
「主人。では。あなたは」
驚く澪の綺麗な黒い瞳。美沙、それから思わず目を背けた。
「そうです。私は妻の美沙です」
「美沙さん……ああ」
以前。悠が怪しい治療で精神が酩酊していた時、うなされていた時の名前だった。自分と一字違いの呼び名。澪は覚えていた。
……そうか。このお方と、結婚されたのね。
夏の終わりの台風から今は半年経て今は春。ここに来るまでの事情は澪にはあったが、その間、悠は妻を迎えたと理解した。
……そうよね。私を待っていてくれるはず、ないもの。
小さな希望。それが潰えた澪。それでも美沙に顔を向けた。
「そう、ですよね。あの、奥様。では悠様にお伝え願いませんか」
「お金ならお断りですけど」
美沙の冷たい言葉。澪はまっすぐ彼女を見つめた。
「……生きていることだけで結構です」
澪。懐から文を取り出した。
「ここには。今の住所が書いてあります。元気にしていると、それだけで」
「渡せばいいんですね。わかりました」
このやりとりの中。美沙の娘、サヨがやってきた。
「お母さん。お腹が空いた!」
「あらら……すいませんが、立て込んでおりますので、これでお引き取り願いますか」
そう言って背を向けた美沙。隣の幼い娘。澪はサヨに笑みを見せた。
「はい。あのこれは菓子折りです。どうも。失礼しました……」
澪。頭を下げて玄関を出て行った。杖をつきながら彼女は春の道を駅へ歩いていた。その背、美沙はサヨを抱きながら黙って見ていた。彼女の着物袖を娘が引いた。
「ねえ。お母さん。どうしたの」
「え」
「顔。怖い」
「ごめんね。あの女の人、悪い人だったのよ」
「そうなの?」
……あんな貧相な娘なんかよりも。私の方がいいに決まっているもの……
悠との約束を破り。澪を追い出した美沙。娘の手を握った。悠との再婚を望む美沙、玄関を閉めた。そして預かった文を燃やしてしまった。
その数日後。悠が珠代と一緒に様子を見にやってきた。
「まあ?珠代さんまで?来るなら来るって言って下さいよ。ささ、どうぞ」
笑顔の美沙、悠は憮然としながら自分の自宅に上がった。珠代も笑顔はなかった。
「元気そうだな」
「どうぞお構いなく。ところで美沙さん。お仕事はまだ見つからないの?」
「ええ。なかなか条件が合うのがなくて」
全く捜していない美沙。大嘘の顔で二人にお茶を出した。生活費は悠が出していた。これをやめさせたい珠代。ため息をついた。
「美沙さん。この前、私が紹介した仕事。なぜ断ってしまったの?」
「だって。あれは。時間が合わなくて」
「あれも嫌、これも嫌か。美沙。だったらお前。何の仕事ならするんだ」
呆れ顔で腕を組む悠。美沙。悲しくなった。
「そ、それは」
願わくばこのまま悠の妻になりたい美沙。ここで涙を浮かべてみせた。
「悠様。珠代さん。私をこのままここにおいてくださいませんか?」
「それは。私に家賃を払うという意味か」
これに珠代。首を横に振り、悠の手を握った。
「悠君、違うわ……美沙さんはね。あなたの妻になりたいと言っているの。そうでしょう」
「はい」
土下座した美沙。そして顔を上げじっと悠を見た。悠。腕を組んでいた。
「お願いします!私、あなたに尽くして、御恩を返したいのです」
「……美沙。俺は」
「美沙さん。お気持ちはわかるけど、悠君には澪さんがいるのを知っているでしょう」
「私は!ずっと前から悠様が好きでした。親の勧めで結婚しましたが、あなたを忘れたことはありません。あなただって。私が好きだって言ってくれたじゃありませんか」
必死の美沙。悠、眉間に皺を寄せていた。珠代も困り顔の中、部屋に誰かが入ってきた。
「お母さんをいじめるな!」
「サヨ」
「サヨちゃん。あのね。私たちはそんなつもりじゃないのよ?」
悠と珠代の言葉。サヨは聞かなかった。
「あの女もお母さんをいじめた!みんなでお母さんを」
「あの女?」
「サヨちゃん。誰のことなの」
不思議顔の悠と珠代。しかし、美沙は青ざめていた。
「サ、サヨ。ほら。お前は向こうに行っておいで」
退室を促す美沙。しかし。サヨは母を守ろうと必死だった。
「お母さんをいじめたのは。澪って女だよ!」
「お前、その名前をどうして」
呆然とする悠。珠代、手が震えている美沙を見つめながらサヨに尋ねた。
「サヨちゃん。あなた。澪さんに会ったの?」
「サヨ!あっちに行きなさい」
「お母さんは離して!そうよ!私にカステラをくれたけど。お母さんをいじめに来たんだもの。私、食べなかった!」
母のために必死のサヨ。この言葉に美沙は項垂れた。
「……美沙。これはどういうことだ」
「悠様……誤解よ。これは」
震える美沙。珠代。目を細めて美沙を見つめた。
「正直に話して下さい。私は今すぐ。あなたを追い出すこともできるんですよ。それに、今までの生活費。そっくり返してもらいましょうか」
「そんな?ひどいわ」
「美沙。澪は無事なんだな?ここに来たということは」
「……」
「美沙!」
大声の悠。美沙。びくとした。
「ええ……確かにここに来ました」
「そう、か」
安堵した悠。肩の力が抜けた。そして目を瞑った。
「元気であったか」
「そう伝えてくれって言ってたわ。でも杖をついて。足が痛そうだった」
「でも。あなたは追い返した……そうなのね」
「だって!あの女が帰って来たら、私は出ていかないといけないじゃないですか」
「そんな理由で」
保身のため。そのためなら人を踏み台にするこの根性。許せるものではない。
悠、項垂れた。美沙にこの家を貸したのは自分。甘やかしたツケ。その代償は大きかった。目を瞑る悠。ため息はため息をついた。
「……美沙さん。私どもはあなたを気の毒に思ってこの屋敷を貸していたけれど。こんな裏切りは許されません」
「え?正直に話したじゃないですか」
「大学生の寮母の仕事があります。住み込みで寮生の食事の世話です。サヨちゃんも一緒で問題ないそうなので。明日から行ってもらいます」
「そんな?ねえ、悠様。お願い!私を見捨てないで」
「美沙」
悠。立ち上がった。
「俺を見捨てたのはお前じゃないか」
「え」
「俺よりも金持ちの男を選んで結婚したのはお前だ。俺はサヨが可哀想なのでここに置いていたまで。お前に特別な気持ちは微塵もない」
「そんな」
泣き崩れる美沙。珠代も立ち上がった。
「では明日。迎えに誰かを寄越します。それに従って下さい」
「ごめんなさい!ごめんなさい」
足に縋る美沙、悠、これを相手にしなかった。
「二度と私の前に姿を表すな。珠代さん。参りましょう」
「ええ。では」
こうして悠。泣き叫ぶ美沙を置き、珠代と自宅を後にした。美沙に騙されかけたが、人力車の中ではだんだん胸がドキドキしていた。
「でも。澪が生きているということですよね」
「よかった。よかったわね悠君」
「はい……」
涙を流す珠代。悠も遠くを見ていた。愛する彼女が生きていたこと。悠の心の霧が晴れた気がした。
春。桜が舞う夜道。悠と珠代、嬉しい気持ちを抱き締めながら帰路についた。
◇◇◇
その翌日。美沙は小田島家を追い出された。その際、美沙は腹いせに自分が悠と結婚したと嘘を言ったこと、澪の連絡先を廃棄したと笑って出て行った。
この悪態を立ち会った使用人から聞いた悠。胸が張り裂けそうになった。そして小田島家で精力を上げて澪を探したが。発見できなかった。
珠代の推理によれば、澪は悠が結婚したと知り、実家も頼らず身を引いたのではないかと涙した。それでも悠は彼女を探して暮らしていた。
澪がいなくなって。初めての夏が来ようとしていた。
完
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