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7 流されて
半年前の澪。
……痛い……ここは?
気がつくと。白い天井が見えた。体が動かなかった。とにかく身体中が痛む。必死に体を動かそうととにかく周囲を見渡した。
……病院なの?隣にも、人が寝ているわ。
自分の体は包帯だらけ。隣の人も苦しそうに唸っている。澪は広い体育館のような場所に作られた野戦病院にいた。
……そうか。私は森下さんに川に落とされて。
あの濁流。飲みこまれた澪。必死で水の中をもがいた。その時、流れてきた流木に頭を打ったのを思い出していた。
痛む頭には包帯が巻かれているし、足も手も動かない。腰もずらしただけで相当傷んだ。
「……ねえ、あなた、起きたの」
「あ……」
なぜか話そうとすると口が痛んだ澪。これ以上は話せなかった。隣のベッドの女性。彼女も全身の怪我の様子でベッドから起きていた。
「無理するんじゃないよ。あんたはずって寝ていたんだよ。看護婦さんは身体中。骨折してるってさ」
「う、うう」
「そろそろ看護婦が来るから。そのままでいなさいよ」
やがて目が覚めた澪の元に看護婦が顔を出した。澪は身体中を骨折のため、絶対安静だと告げられた。
「あなたは顎の骨も折れていたから。口を動かすと痛いはずよ。でもね、ごめんなさい。痛み止めが不足していて。あなたの分はこれだけなのよ」
一回分の薬の澪。返事の代わりに小さくうなづいた。看護婦は忙しそうだった。澪、ひとまずこれを飲まず、痛みに耐えながらも横になっていた。
隣人の中年女性の患者はタネと名乗った。彼女は台風で崩れた家屋の下敷きで骨折だと打ち明けた。澪と違い話ができるタネは、どうせ暇だからと澪の事も助けてくれた。
ここは女性専用の病棟。澪は悠に連絡をしたかったが。口も聞けず、文も書けなかった。タネに頼もうとしたが、タネは文字が書けないと申し訳なさそうにしていた。それ以外の女性達も。皆、ひどい怪我であった。
さらに澪は、不衛生な環境であったため、傷に菌が入り、何度も熱でうなされた。他の患者も生きるか死ぬかの瀬戸際。澪は必死に怪我と闘っていた。
やがて、口が聞けるようになった澪。骨折も回復し、体を動かす運動が始まっていた。これをタネと一緒に開始していた。
この日も二人は病棟の回復場にて。壁に伝いながら歩く練習をしていた。するとタネは澪の肩を叩いた。
「今日は例の女がいるよ」
「例の女って?」
「そう。面白いから見てみなよ」
そこにいた女性は。白髪で細身の老婆。目が見えないのか、手をかざして運動していた。しかし、付き添いの看護師を罵倒していた。
「離せ!私は神様だぞ」
「いいから歩きなさい。いつまでも入院されてこっちは迷惑なんですよ」
「生意気な看護婦め。お前なんかクビにしてやる!」
「とにかく。歩きなさい。明日には退院なんですからね」
「え」
歯のない老婆。立ち止まった。澪、知っている彼女に心臓の動悸が激しかった。老婆は看護婦に食ってかかっていた。
「看護婦さん……あんた。それはないでしょう。私は行くところなどないのに」
「何度も申し上げていますが。ここは病院です。次々と患者が来るんです。治った人は出て行ってもらいますから」
「う。うわあああ」」
老婆。大袈裟に泣き出した。この老婆の演じる劇場、回復運動の患者達は、また始まったとため息をついていた。初めて見る澪はタネに事情を聞いた。
「ああ、あの婆さんはね?怪我が治っているのに。しぶとく居座っているんだよ」
「……お名前は?」
「頭を打って自分が誰だか忘れたらしいね。でもあんまり神様の話をするから。看護婦さん達は『お神さん』って呼んでいるんだよ」
「そう、ですか」
目が見えない森下。綺麗にしていたはずの髪もひどい有様。今や別人となった老婆の彼女。追い出される恐怖で部屋の隅に入り、膝を抱えてメソメソ泣いていた。澪、思わず話しかけた。
「あの。どこか痛むんですか」
「……『神水』があれば。あれで治るのに。ブツブツ」
覚えているのは旭の会のことだけの様子。彼女の行いは許せないが、あまりの落ちぶれた様子、澪の胸は複雑だった。この時、通りかかった看護婦。その手には徳利を持っていた。
「あの。それはどうされるんですか」
「ああ?これ?男性病棟でお酒を見つけたので、没収したのよ」
「その、徳利。捨てるなら私に下さいませんか?」
不思議な顔の看護婦は、澪に空の徳利をくれた。澪。それに水を入れた。そしてうずくまる森下にこれを渡した。
「どうぞ、『神水』ですよ」
「お。おお……これは」
老婆、目を輝かせた。そして。この水をラッパ飲みした。
「うん!さすが神水だ。神様の水は効くね?」
「……どうか。お元気で」
童女のようにニコニコの森下女史。これに悲しくなった澪。森下はその後、退院させられたと聞いた。行く宛もないはずの彼女であるが、徳利を大切に持って言ったと看護婦に聞いた。
こうして半年。澪はとうとう退院する日が来た。これはタネも一緒だった。
「あんた。その婚約者のところに行くんだろう」
「はい。タネさんは工場ですよね」
「ああ。私は天涯孤独になったからね。行き先は澪ちゃんにも伝えてあるよね」
「はい」
タネ。笑顔を見せた。
「そこは人手が足りないんだってさ。あんたも仕事が欲しけりゃおいでよ」
「ありがとうございます」
「……お互い苦労してばかりだけど。頑張ろうね」
「はい。お世話になりました」
澪。駅で別れたタネに頭を下げた。これから入院費用を稼がないとならない二人。タネは工場へ。澪は悠の自宅へやってきた。
……はあ、ドキドキする。悠様は家にいらっしゃるかしら。
澪。懐かしい小田島の家にやってきた。手には入院時に病院から借りた金で買った手土産があった。澪、まだ痛む足を杖で庇いながら勇気を出し訪問をした。
「え。悠様の奥様」
「そうです」
彼の屋敷にいたのは妻と名乗る女性だった。澪、気がつけば来た道を戻っていた。
……そうよね。半年も連絡してないし……
ふと見ると。ここはいつか彼と歩いた道だった。それは澪がアイスクリームを買いに出かけた夕刻。悠が追いかけて来たくれた小道。ここを立ち止まらずに心静かに進んでいた。
……ばかね。待っていてくれるはず、ないじゃないの。
澪の頬に涙が伝った。入院中、どんなに苦痛があっても。過去に家族に虐げられても、澪はこんなに泣いたことがなかった。今は堰を切ったように涙があふれてきた。
それはまるで身を切られるかのような悲しさ。氷の海に捨てられたような冷たさ。勝手に期待をし、叶わなかった彼との愛。全て全てそれは藻屑と消えてしまった。
立ち止まるともう動けない。そんな澪は泣きながら歩みを止めず駅まで戻っていた。彼女の悲しみを知らない桜の木は、ピンクの花びらを身から振るい落としていた。澪はこの道を心嘆きながら、前へ前へ進しかなかった。
駅まで戻ってきた澪。電車に乗った。行き先はタネのいる工場だった。揺れる電車、座る椅子は硬かった。車窓から見える菜の花畑を見ていた澪、紅目を擦りながら目的の駅まで電車に揺られた。
◇◇◇
工場に到着した澪。早速タネを探した。澪の訪問の意味を理解したタネ。工場長に澪を紹介してくれた。こうして澪は工場に住み込みで勤務することになった。
ここ石田工場は機械の部品工場。これからの時代、産業が発達すると社長が見込んで始めたが、今は台風被害により、他の工場が停止状態。石田工場は運転可能であるが、ここでは機械の一部のみを製造しているため、他工場の製品がないと完成しない。これにより石田工場は製造できず、苦境に立たされていた。
しかし。社長は新たな事業を始めている時だった。
「傘ですか」
「そうよ。私と澪ちゃんは、傘を作るんだよ」
「面白そうです」
病院代を払いたい二人は必死に働いた。そして。コツコツ費用を払っていた。そんなある日。大量の傘が売れ残ってしまった。
「おい。従業員のみんな。今月はこれが給料だ」
「ええ?現物支給ですか」
「これでお腹が膨れませんよ」
怒る従業員たち。社長は額の汗を拭いた。
「うるさい!こっちだって、お金で払いたいが。ないものはないんだよ!」
この話。タネと澪も聞いていた。
「どうする?澪ちゃん」
「弱りましたね」
二人とも。給料は現金でもらいたい。傘でもらっても迷惑なだけだった。その時、澪、手をぱんと叩いた。
「そうだ!タネさんと私で売りませんか?」
「どうやって」
「駅前商店街で、毎月『勝手市場』という売り出しがあるんですよ」
先日。たまたま行ってきた澪。誰でも安い費用で出店できるこの売り出しをタネに説明した。タネも金が欲しい気持ち。こんな二人は傘を売ることにした。
この話を聞きつけた他の仲間の分も預かったタネと澪。二人は勝手市場で傘を売っていた。
「いらっしゃいませ!丈夫な蝙蝠傘ですよ。おしゃれでモダンで。誰もが振り返る素敵な傘です」
「うわ?タネさん。売り込みがお上手です」
「感心してないで。澪ちゃんも早く売って」
「はい」
こんな二人、必死に売っていた。順調であったが、一旦、客の足が止まっていた。
「まあね。今日はこんなに良い天気だもんね」
「そうか。待ってくださいね」
「あ?どこに行くの」
澪。駆け出していた。そして、戻ってきた。
「はあ、はあ、今日はこれから雨です」
「え?眩しいくらいなのに?」
「今読んできました……新聞にはそう天気予報が載っていました」
懐かしい悠の仕事の天気予報。これによれば午後から雨であった。今は夏、澪、雲行きを見ていた。
……あれは入道雲だもの。それにこんなに気温が高いから。夕立が来るんだわ。
悠のそばにいた時、多少、気象について学んでいた澪。悠の言葉を思い出してた。
……お懐かしい。今もお空を眺めているのでしょうね。
彼との別れは身を裂く酷いものであったが、だんだんその傷が癒えていた。
今となっては、懐かしく幸せな、温かい思い出ばかり。澪は悠を思い出し微笑んでいた。
……スイカを食べたり、アイスクリームを食べたり……ああ、思い出すわ。
「ちょっと澪ちゃん!傘だよ、傘」
「すいません。みなさん、傘ですよ。これから雨が降ります。丈夫でおしゃれで長持ちの傘です。いかがですかー」
やがて、本当に雨が降ってきた。こうしてタネと澪の傘は、完売した。
「やったね。澪ちゃん」
「タネさんのおかげです。嬉しい」
「何をいうんだよ」
澪の天気予報が大きかったこの販売。この傘が売れた話は、とうとう社長のところまで届いてしまった。澪は、社長室に呼ばれてしまった。
「お。お呼びですか」
「お!きたね。どうぞ、中へ」
「私……何か失敗したでしょうか?」
オドオドの澪。社長は笑った。
「はっはは。君は女工なのに。市場で傘を売ったというのは本当かね」
「その件ですか?あの、勝手なことをして。すいませんでした」
平謝りの澪、社長は待ったと手で制した。
「違うんだよ。あのな。どうやって売ったのか聞かせてくれないか」
「え」
社長の相談。それは傘の販売の件だった。
「今、我が社の傘は商店やデパートに卸しているが、うちの傘は丈夫な分、高値であるので売上に苦戦しているのだ」
「そうですか」
「そこで!君にどうやって販売したのか聞きたいのだよ」
「私は。その、天気予報を参考に」
「天気予報、か」
恥ずかしそうな澪の説明。社長は面白そうに聞いていた。そして、話の最後に結論を出した。
「よし!君は工場ではなく、店で傘を売ってくれないか」
「私がですか?でも。私なんか」
通常、販売員は見栄えの良い女性ばかり。人前に出るとは思っていなかった澪、必死に断った。しかし。社長に頭を下げられ、とうとう販売の仕事になってしまった。
こうして、デパートに出向し傘売り場で自社製品を販売することになった澪。タネのアドバイスでうっすら化粧をし、スーツ姿は上品な娘姿であった。
やがて仕事熱心な澪は、デパートでは洋服に似合う、流行のデザインが売れると気がついた。
さらに。折りたたみ傘においては閉じやすいもの。日傘は小ぶりの方が持ち運びに便利であるなど、売れる商品を思いついていた。
澪は仕事の日誌である活動報告にこれらを記し、休み時間にはデザイン画も遊びで描き、自分の学びにしていた。が、これを読んだ先輩は、澪に告げずに上層部に提出してしまった。
すると。再び澪は社長に呼ばれ、新商品の開発を指示された。澪は言われるまま傘のデザインを担当した。これが日本中の傘売り場を制覇することになってしまった。
「おい。北原君。今度の雨ガッパも売れているそうだな」
「はい。今まで女性用のおしゃれなものがなかったので。お客様も喜んでおいでです」
「そうか」
「他にはですね。お子さんの傘なんですが」
澪。見本の傘を見せた。
「ん?黄色い傘だが、ここだけ透明なのか」
澪が渡した傘は。生地の一部が透明ビニルになっていた。
「はい。全部が黄色い生地ですと。前方が見えないので事故の危険があります」
「そうか。ここから見えるから。車や人は見えるもんな、へえ」
「今回も社長のお孫さんに使用していただいたところ。この透明窓から雨蛙が見えた、と、それはそれは喜んでいましたよ」
笑顔の澪。これに社長は感心のため息を着いた。
「北原君。重ね重ね。君にお願いがあるのだよ」
「また商品開発ですか」
「いや。君に店を持たせたいんだ」
「店を?」
銀座に売りに出た小さな土地。ここを購入した社長。日本で唯一の傘専門店を始めたいと言い出した。
「そこでは、新作の先行販売や、試作品を売ってもいい。君の腕を存分に振るって欲しいんだ」
「しかし、私などが」
「北原君。これからは女性の時代だよ」
白髪の社長は立ち上がった。
「日本はこれからどんどん女性が進出するようになる。それに、女性の使うものは女性の方が詳しい。私はね。君なら女性の道を開拓できると思っているんだ」
「社長」
「君に欲がないのは知っている。だがね。人々の役立つ、そして雨の日が楽しくなるような。そんな雨具を、我々は作っていこうじゃないか?それには君に、銀座の店を任せたいのだよ」
……社長さんは本気だわ。
この社長。最近では女性を積極的に雇用していた。工場内には保育所を作る配慮のある人格者。澪は社長を尊敬していた。
「わかりました。タネさんと一緒でいいですか」
「おう。二人で頑張ってくれたまえ」
「はい!」
こうして澪は。銀座の石田傘の店長となった。悠との別れから二年以上が過ぎていた。
完
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