1 忌まわしい誓い

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1 忌まわしい誓い

「誰だ!家の前に水を撒いたのは」 「旦那様。いかがしたのですか」 玄関での夫。その怒り顔。妻は慌てて出迎えた。彼は服を濡らしていた。 「転んでしまったではないか。一体誰が撒いたのだ」 「……誰ぞ、(みお)を呼んできなさい」 まだ残雪の外。水仕事をしていた澪。冷たい水で真っ赤な手。その手を前掛けで拭っていた。 「はい。奥様」 「お前。家の前に水を撒いたでしょう」 「はい。奥様のご命令通りに」 埃が立つと言われて水を撒いた澪。それを指示した奥方は目を三角にして怒った。 「お黙り!」 澪。頬を打たれた。指輪があったその手、打たれた彼女の頬、紅い痛々しい筋を作った。奥方、怒鳴り散らした。 「言い訳するんじゃないよ!お前のせいで、旦那様が転んでしまったじゃないの」 「申し訳ございません」 土下座の澪。奥方の草履のつま先に頭がつくほど。その頭、奥方は今度は髪を掴み、無理矢理、体を起こさせた。 「お前さ……謝ればなんでも許してもらえると思っているようだね?」 「そ、そんなことは」 痛みで歪む顔。奥方、嬉しそうに見ていた。 「では?どうやって償うというの?お前に何ができるの」 「もう、しわけございま、せん」 「……ふん!お前さえいなければ」 彼女はそう言って澪を放り投げた。踵を返して部屋に去った奥方。玄関に佇む澪。変わってしまった実母に涙を浮かべていた。 大正時代、東京下町の春二月。この北原家。米屋である。地元では裕福で知られている老舗であった。澪の母親のカメは、幼い澪を連れて後妻に入っていた。この北原家の当主。北原巌は酒癖が悪く、前妻は長女を置いて逃げ出していた。 ここに後妻に入ったカメは未亡人。米屋で働いていた時、巌に見染められて澪を伴い、連れ子再婚をした。 この家の本妻の娘である長女の福子。祖父に溺愛されわがまま娘。さらに後妻となったカメ。夫と福子の顔色を伺い、娘の澪を庇うことなく、むしろ蔑ろにしていた。 後妻のカメ。実との間に息子を儲けている。彼女は嫁としてこの家での地位を確立していた。 それに反して澪。全く居場所がない。それどころかカメにも虐められ辛い毎日を送っていた。 この日も打たれた頬を水で冷やし、水仕事に戻っていた。ここに何も知らない少年がやってきた。 「(ねえ)や。どうしたの」 「豊ぼっちゃま。大丈夫ですよ」 「でも、顔から血が出ているよ?」 優しい少年は父親違いの弟の豊である。澪は姉であるのに関わらず立場が違う言われと名前で呼ぶことを禁じられている。 こうして姉やとして彼の面倒を見ていた。 多忙な米屋。それに豊は風邪をひきやすい子供だった。姉の澪は幼い彼を母親よりも面倒を見、慈しんで育ててきた。 この夜。家族は食事となっていた。大きな座卓に食事が並んでおり、皆、定位置に座り食事を始めていた。 「澪。旦那様の熱燗を」 「はい」 「澪。味噌汁がぬるいわよ。温め直しなさい」 「はい」 使用人の澪。カメの指示通りお盆を持ち、行ったり来たりしていた。この時、豊が苦しそうに胸をトントン叩いた。隣に座っていた福子が心配そうに顔を見た。 「どうしたの豊」 「魚の……骨が喉に」 「まあ?大変」 本人は大丈夫と言っているが、周りが心配した。結局ご飯を丸呑みさせて事なきを得た。しかし、食後、今宵の食事の支度をした澪は母に呼び出された。 「どういうこと!お前は豊を殺すつもりなのかい」 「いいえ?決してそんな」 「恐ろしい……ああ。その目。あの男にそっくりだ」 亡くなった澪の父親。見合い結婚だったカメは彼が大嫌いだった。その男に似ている澪。カメ、この夜も鞭を取り出した。 夜の和室、蝋燭の中。カメは鬼よりも恐ろしかった。 「罰だよ。さあ!背中をお出し!」 「はい……」 澪。その小さな白い背に鞭を打たれた。痛みで痺れる夜、初めてではなかった。 「こいつ!こいつ!」 「う」 ……私がお父さんに似ているから。お母さんは私が嫌いなんだわ。 そして。米屋の妻という母の重責。この重圧の吐口になっている自分はそんなことでしか役に立てない無用な娘。 息が上がる母の鬼の形相。澪。悲しみで痛みを堪えていた。 ◇◇◇ ……ああ、燃えるように痛む。 罰を受けた澪。鞭を打たれた背をサラシで巻いた。その上から着物を着たが燃えるように背が熱く痛い。この様子だと恐らく血が出ている事であろう。 ……でも。明日のご飯の支度をしなくちゃ。 必死に立ち上がり夜の台所に向かった。しかし、すでに支度が済んでいた。 ……ああ、きっと。誰かがやってくれたんだわ。 丁稚奉公の誰かが代わりにしてくれていたようで、何もすることはなかった。 澪を表立って庇うとその者が罰せられる。しかし、こうして密かに助けてくれる従業員たちがたくさんいた。 ……ありがとう。誰かわからないけれど。 月夜の窓あかり。思わず手を合わせた澪。自室に戻ったが床に着いても眠れなかった。それは痛みと悲しみ。孤独と絶望。希望の持てない明日がまた来るが、それは幸せではない。 ……やめよう。明日の事を考えるのは。 流れる涙。痛みよりも疲労が襲ってきた。澪は今夜も悲しみを抱き眠りについた。 そんなある日。北原家に使者がやってきた。 「小田島家より伝達です」 店先にいたカメ。受け取った。 「は、はい。預かります……あなた。これは、なんでしょうね」 奥の部屋。米屋の夫婦は書状を読んだ。それは驚く内容だった。二人はそれを持って奥座敷で隠居している老母の元に走った。 「母さん。小田島からえらい話が来たんだ」 「小田島さん?一体、なんだっていうんだ」 前当主、老齢の女の北原菊。その書状を読んだ。彼女はため息をついた。 「これは。冥婚(めいこん)じゃないか?……」 絶句する菊。老婆は目を開いていた。息子の実。その母の顔を見た。 「母さんは知っているのか」 「……お前さん達には話してなかったね」 老齢の菊、息子夫婦に静かに語り出した。 ◇◇◇ 「まず。昔の話になるね」 彼女の部屋、奥座敷。二人を座布団に座らせた菊。窓の外を確認し、開けていた障子を閉じた。 「お前さん達。うちの前の道をずっと行くと、明治橋ってあるだろう?」 「ああ。その橋がどうしたんだよ」 不思議そうな巌。菊。ため息をついた。 「その明治橋を作っている時、橋が落ちてしまってね。職人達がたくさん死んだ年があったんだよ」 老齢の彼女、しみじみ思い出していた。 「みな独り身でね、結婚もせず可哀想となってな。気の毒に思った家族達が嫁さんの代わりに紙人形を棺桶に入れて弔ったのが始まりだと聞いている」 「あ?俺は聞いたことがある」 「私は初めて聞きました」 驚く若夫婦。老婆は淡々と続けた。 「死んだ男に紙人形の嫁を嫁がせて、それを『冥婚』と言ったんだ。そして、この書状の話はこの事だ……」 菊、茶箪笥から古い写真を取り出した。セピア色。そこには若い男性が映ってた。 「お前達。うちは婿取りなのは知っているね?これは私の兄さんだ」 菊は遠くを見るように話だした。 「病で若くして死んだんだが、独身だったんだ。だからうちの親がどうしても冥婚にしてやりたいって言ってね。当時、ある家で若くして死んだ娘さんの遺骨を譲ってもらい、兄さんと一緒に埋葬したことがあった」 「も、もしかして」 血相が変わった巌の顔、菊、皺だらけの顔でうなづいた。 「そう。その相手がこの書状の小田島家なのさ」 「そんなことがあるなんて」 「ど、どういう意味にですか?私にはさっぱり」 恐ろしさに絶句の巌。カメも恐怖で夫に寄り添っていた。菊は今度は仏壇から古い書状を取り出した。 「ほれ、ここに、それが書いてあるよ」 差し出した巻物。巌とカメは恐る恐る手に取った。『冥婚の確約の件』という血判状。この時の冥婚のやりとりの内容。巌は震える声で母を見上げた。 「母さん。ここには『今後、小田島家が骨を所望する場合、北原家はこれに従うべし』とあるってことは。今度が、お返しに我が家が骨を出さないとならないのかい」 「ひえ」 カメ。恐怖で腰を抜かした。菊。淡々としていた。 「そうだね。今回、小田島家がうちに冥婚の依頼をしてきたということは、昔の恩を返せと言う意味だろね。しかし、この手紙によるとこの男はまだ死んでいないようだよ」 冷静な菊。巌、深呼吸をした。 「では、どういうことだい?」 「まあ、形だけでも生きているうちに嫁を取らせてやりたい、と言うことだね、詳しくは話し合いをしないと私にもわからないよ」 小田島家の書状。ここには冥婚についての依頼と、対象は闘病中の小田島家の次男としか書いていなかった。ここで巌、母に向かった。 「じゃあ母さん。相手が生きているなら、うちの生きている娘ってことだろうか?だがうちの福子をそんな病人に嫁には出せないよ」 この北原家の大事な長女の福子。死ぬとわかっている男に嫁がせるのは言語道断。父親である巌は強く反対した。カメもうなづいていた。 「そうですよ。あなた。その縁談はお断りしましょう」 「ああ」 ここで菊。話を切った。 「そうしてやりたいが、お前達。互いのご先祖様の血判があるこの書状に逆らうわけにはいかぬぞ?そんな事をしたら、我が家に災いが来るに決まっておる」 菊。再度、書状を見た。 「これは……私が行こう」 「え、母さんが?」 「ああ、ここには『北原家のものを所望』とある」 「無理だよそんな話は!」 老母の英断。息子の彼は思わず大きな声を出した。大切な母親の恐ろしい話。しかし本人はお家を守る為に続けた。 「ここには年齢は書いておらぬぞ」 「待ってください。母上!何か手を考えましょう」 この時、カメははっと煌めいた。 「お義母様。では。澪はどうでしょう」 「澪?」 菊。眉間に皺を寄せた。 「カメ。だが、あの娘はお前の連れ子だ。北原家の血が入っておらぬ」 「ですがこの書状、『北原家のもの』としか書いておりません。澪も北原の籍に養女に入っておりますので、なんの問題もありませんわ」 実の娘を差し出すというカメ。この非情、菊、じっと嫁を見つめた。 「お前さん、本当にそれで良いのかい」 「はい。この家と、福子さんや豊を守るためです」 ……守るのは自分の身だろう。恐ろしい。本当に恐ろしいよ。 鬼嫁の嬉し顔。老齢の前当主の菊は眉間に皺を寄せた。しかし、他に案はない。 この巌とカメの意見を胸に菊は後日、小田島家と話し合いをした。 ◇◇◇ 互いの墓がある光陽寺。和尚に頼みこの一室に小田島家代表の小田島チエと北原菊は話し合いを始めた。歳が近い二人、まずチエがまっすぐ話を始めた。 「小田島さん。話は書状の通りです。わが次男の(ゆう)は肺の病のために床についたままでございます。このままでは独身で終わる若い身、親として嫁を娶らせてやりたいのです……」 涙のチエ。精神的に相当参っている様子。対する菊、冷静に尋ねた。 「北原さん。失礼ながら。その息子殿はまだご存命との事。それであれば冥婚とは言えぬのではありませぬか」 「おっしゃる通りです。ですので我が小田島家としても、多くを望んでおりませぬ。籍を入れずとも良いのです。若い娘さんにそばにお越しいただき、息子の手を取って欲しいだけです。死ぬ前に、あの子に幸せを感じさせてやりたいのです……」 涙涙のチエ。看病疲れであろうか、大変衰弱していた。 ……なんと非道な縁談。確かに他家にはとても頼めぬ話であろう。 息子可愛さに自分勝手の母親の思い。相手になる嫁の気持ちなど何一つ配慮していないこの小田島チエ。それほどチエは追い詰められている、菊はそう感じた。 ……ゆえに昔の冥婚の書状を使ったのであろうな。哀れよの。 さらにチエのこの疲労の様子。その次男がそう長くないと菊は悟った。菊はさらに尋ねた。 「では。亡くなった後ではなく。今、嫁が欲しいのですね?おそらく、そばで寄り添うだけしかできませぬが」 「そうです。それで十分です」 「……チエ殿……わかり申した」 「本当ですか?」 嬉しそうにするチエ。涙で疲れたその顔、菊には虚しかった。 「では、互いに契約をしましょう」 「おお?ありがとうございます……ああ、よかった」 彼の病の様子や嫁としての条件など、二人は廊下に待たせていた和尚を挟み話をつけていった。そして、その数日後、菊は奥座敷に彼女を呼び出した。 ◇◇◇ 「大奥様。澪です」 「……ここに座りなさい」 「はい」 奥座敷、菊の部屋、二人きりの夜の部屋。血の通った孫の福子と違い真っ赤に荒れた手。粗末な着物。切れ切れの黒髪。しかし、その瞳は真の強さを表し菊をじっと見ていた。 「澪。お前に縁談だ」 「嫁?私がですか」 「ああ。嫁に行ってくれ」 老齢の菊。そう言って澪にお茶を出した。菊は怖くて厳しい。だが意地悪ではない。彼女の指導はいつも正しかった。そんな菊、澪の事は最初から家族扱いしないと宣言していたが、雇い主と使用人のように接してくれていた。 澪はまだ十六歳。まさか冥婚の花嫁とは告げるのはあまりにも悲しすぎた。菊、違うところから切り出した。 「澪、よくお聞き」 その菊。この時、初めて家族のように打ち解けて話をしているように澪には感じた。菊。澄まし顔でキセルを手に取った。火鉢の前、それに火をつけた。 「お相手は小田島家で。古くからうちと縁がある家だ」 「小田島様」 驚きで反復するだけの澪。必死に自分に言い聞かせていた。キセルの煙を吐く顔の菊をじっと見ていた。 「……あの、どうして私なんですか」 「小田島家は北原家の娘をご所望だ。これは互いの先祖からの掟であり、うちは断ることはできぬのだ」 「あの、福子様は?」 自然な質問。菊は素直に答えた。 「そうだね。本当は福子が行くところだ。しかし、あの娘は婿をとってもらいたいと思っていてね。嫁には出せぬのだ」 「そ、そうですよね」 ……確かにそうだわ。福子様が行くはずはないわ。 この家の実娘の福子。当然の話である。この突然の話に動揺している澪。この娘をじっと見る菊。静かに続けた。 「澪。お前。今、幸せかい?」 「え」 「毎日、実の母親になぶられて……、お前、幸せか?」 「大奥様」 菊。囲炉裏にてキセルを静かに吸い込んだ。今まで自分のことを見ぬ振りをしていた菊の思いがけない言葉。澪、心を読まれてドキドキしていた。 「お前は学校も行かせてもらえず、給金もないのに、よく働くこと」 「私は、居候ですから」 そうでもしないと置いてもらえない。澪はそれは口にせず、代わりに口と正座の上の拳をキュッと結んだ。 「私は思ったんだ……お前、一度、その男に嫁いで、死んでごらんよ」 「死ぬ?」 驚きで目を見開く澪。菊、微笑んだ。 「違うよ?本当に死ねって言うんじゃないよ?その男の元に行って、今の自分を一旦終わらせて、また生まれ変わるのさ」 「生まれ、変わる」 「そう」 菊は煙を吐き出した。澪、その煙を見ていた。 「……でも。悪いがこれは決まった話だ。相談ではない」 「はい」 冷たい口調。が、どこか自分を励ますように聞こえた澪、返事をした。菊、静かに澪に尋ねた。 「澪。ここで、私に聞きたいことはないか」 澪、じっと菊を見つめた。 「坊っちゃまのお世話はどうなりますか?」 大事な弟。いつも澪が世話をしていた。 ……心残りがこれ、か。 弟想いの澪の無垢なる思い。菊。思わず目をつむった。 「あれは跡取りだ。お前に言われなくても大切にするさ」 「はい、そうですよね、すいませんでした」 ……豊ぼっちゃまが幸せなら。私はそれでいいわ。 そもそも澪に選択肢はない。断れない。悩むこともできない。行くしかない。結婚の話に澪。思わず俯いた。 「話は以上だ。カメから話を聞いて、支度をおし」 「はい。大奥様」 ……私の事を、思ってくださっていたのかしら。 辛い事しかなかったこの北原家。しかし、置いておらわねば路頭に迷う自分。実母に苛まれ、義父に罵られ。福子に意地悪をされていたが澪は決して反せず、じっと耐えてきた。 耐えた理由。それはいつかは実母が自分に優しくしてくれるのではないかという淡い夢。それは義父が学校に行かせてくれるのではないかという甘い妄想。そんな小さな願いはどれも未だ、気配すらない。自分が悪いといい聞かせていたが、それももう限界。この家にはどんなに努力しても澪の居場所はなかった。 ……もう。私はこの家にいても、何もないもの。 絶望しかなかった家、家族。その代表の菊、自分に嫁に行き、生まれ変わってこいという。言葉の真意は定かではないが、どこか愛を感じた。 澪、深々と頭を下げた。 「大奥様。今までお世話になりました。澪は嫁に参ります」 「わかったよ……さあ、仕事に戻りなさい」 「はい」 澪が出て行った部屋、菊、思わず額に手を当てた。 ……あの娘。惜しいことよ…… 血が通っていたらこの二人。祖母と孫になる間柄だった。菊の孫はたくさんおり、米屋にも若い従業員がたくさんいた。しかし、この若手の働き手の中、客観的に見て一番優れているのはこの澪だった。 辛い仕事も愚痴をこぼさず行う根性持ち。従業員には優しい態度。学校に通っていないのにできる読み書き算盤。さらに幼い弟を可愛がるその心。孫の福子も可愛いが。娘として人として。菊は澪にいつも感心していた。 月を見上げた菊。心から信用していた娘、澪、その娘の未来に一人、幸あれと願うだけだった。 ◇◇◇ そして。両家で打ち合わせが行われた。北原家は若い次女を嫁を出すと言う返事。小田島家では喜んだ。こうして澪は嫁として小田島家に向かっていた。行きの人力車の中。母はそわそわしていた。 「お前は器量は良いのよ。自信を持っていきなさい」 「はい」 この輿入れ。澪は小田島家の次男としか聞いていない。向こうの事情により挙式は良い日を見るため後日の予定。両家の挨拶も親同士で解決済み。澪はただ、小田島の屋敷に行くように言われていた。 花嫁道具。カメが支度したかんざしと着物と裁縫道具。家具や貴重品はない。身一つで来て欲しいと言う要望。澪、福子が気に入らなかった晴れ着のお下がりを着ていた。 普段、下働きの澪。小柄であるが力仕事をこなす健康的な体つき。手入れができなかった黒髪。菊から椿油をもらいこの日まで塗っていた。おかげで艶やかな黒髪となっていた。その透き通った肌には母に薄毛化粧を施してもらい、綺麗に映えていた。 この娘を隣のカメ。今までにないくらいの上機嫌だった。実母でありながら二人だけで外出するのは、澪は初めてのような気がした。 後妻に入るまでは普通の母娘だった二人。こうして共にいると澪。当時、いつも暗い部屋で仕事帰りの母を待っていた幼心を思い出していた。 ……いつの間にか。私の方が背が高くて。お母さんはこんなに白髪が混じって。 歳をとってきた母。澪には小さく見えていた。この母。打ち合わせにて経緯を知っている様子。反して澪は詳しい話は何も聞かされていなかった。 綺麗な着物に化粧をしてもらったが、なぜか嬉しくない。これから起こる出来事が、どこか他人事のような気がしていた。 縁談の話を聞きつけた米屋の従業員は小田島家は資産家だと教えてくれたが、到着したこの家はとても粗末な家だった。 木造の古い平家。どこかどんよりしていた。 「さ、澪。ご挨拶よ。粗相のないように」 「はい」 澪。そんな母と一緒に訪問した。 「どうも。北原でございます。澪の母でございます」 「お世話になります。私は通いの使用人で、森下でございます」 付き添いでやってきたカメ。優しい母親を演じていた。相手の中年女史。にこやかな顔。歳は六十歳ほどであろうか。白髪混じりの髪、着物姿の痩せ体型。どこか神経室そうな、そんな女性だった。 澪はこの日まで嫁入り修行をさせられており、身なりも美しい晴れ着。これに森下、嬉し顔を見せた。 「まあ、綺麗なお召し物で。よく来られましたね」 一瞬の違和感。それは澪ではなく着物を褒めたこと。母はこの言葉に気がついていなかった。 ……きっと、私の気のせいよ。悪気はないんだわ。 笑顔の森下。澪、気を取り直した。カメは何も頬染めて娘の背をそっと押した。 「どうぞ、よろしく。ほら、澪。ご挨拶を」 「初めまして」 森下に澪は頭を下げた、そして玄関で挨拶をし通された客間。カメと森下は、世間話で盛り上がっていた。 ……でも、おかしいわ。この人は使用人って言っていたけど。どうしてご家族がどなたもいないのかしら。 この家の家族が不在とは。不思議である。しかし母と森下は承知済みなのか、盛り上がっていた。 ……まあ。私の気持ちなんか、どうでもいいことだものね。 この結婚。菊の話っぷりから訳ありの縁談だと澪は思っていた。相手は再婚か、あるいは子持ちの家に後家に入るのか。ともかく今の自分に良縁が来るとは思えなかった。 他人事に感じていた澪。森下と母の談笑。雀の囀りの如く心に全く入って来ず、窓の外を見ていた。 「澪?聞いているの」 「は?はい」 「母さんは帰るわね。では、不束者ですが、よろしくおねがします」 「こちらこそ」 よき母を演じ切ったカメ。帰っていった。この客間で見送った澪。今夜からこの小田島家の嫁として住む立場。ここで森下に向かった。 「さて。澪さん」 「はい」 打って変わってどこか固い顔の森下。口調もどこか暗くなった。 「今日からお前は悠様の妻です。それを忘れるな」 「はい」 ……なんだろう。急に人が変わったみたい。 命令口調の森下。彼女は早速、夫となる人物の部屋へと廊下を進み始めた。古い家、粗末な建て付け。床はぎいぎいと鳴った。 澪。従業員達から小田島家は裕福だと聞いていた。それを期待したわけではないがあまりにも粗末な家屋。不思議に思う澪に反し、森下は淡々と説明をした。 「悠様の食べ物はこちらで用意する。お前の食事は自分で作りなさい」 「はい」 「そして。悠様には私が作った物以外、食べさせないでください。そして枕元の薬と水を必ず、必ず飲ませるように」 「は、はい」 命令口調。澪。家庭でも邪険にされていたが、この森下の二面性。怖くてぞっとしていた。彼女の低い声は続いた。 「そして。部屋は一切いじるな。悠様の寿命が縮んでしまうのでな」 ……え?寿命が縮むって。どういうことかしら。 内容、どれも予想外の話。花嫁の澪。必死に森下の話を聞いていた。 「わかったか!」 「は、はい」 そして。森下は昼だと言うのに薄暗い廊下。その奥の部屋、襖の前に立った。 恐怖で心凍る澪に構わず、森下は彼女に向かった。 「部屋はここだ。良いか?悠様は太陽の光がお嫌いだ。窓は決して開けるな。飲水は枕元の水しか与えてならぬぞ」 怖い顔の森下。澪、口の中が乾いていたが、必死に声を振り絞った。 「は、い」 「さて。入るぞ。悠様?悠様。まあまあ、いかがですか?ご加減は」 急に猫撫で声になった森下。この変わりよう、澪、背筋がぞっとした。 ……この人は何なの?でも、旦那様に挨拶しないと。 それは先決。澪、必死に心を励ました。ここで森下、振り向いた。 「さあ、何をしているのです、澪さん、どうぞお入りなさい」 「はい」 森下が開けた襖。暗黒の畳の部屋。小さな蝋燭が灯っている。一体、この部屋にいる夫はどう言う人なのか。澪は恐怖でしかなかった。 ……でも。行かなきゃ。私は、ここにお嫁に来たんですもの。 導かれるまま。澪は真っ暗な部屋へ足を踏み入れた。不安でたまらない胸の内。その白い足袋の足、震えていた。 つづく
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