2 暗黒の部屋

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2 暗黒の部屋

恐る恐る入った部屋。真っ暗な和室だった。 ……明かりがある。あ、蝋燭なのね。 森下。慣れた様子で廊下にあった蝋燭を灯し、それを皿に乗せそっと和室へ進んだ。乏しい明かりが揺れる部屋。その奥、布団が一組敷かれおり、誰かが寝ているように見えた。 それは暗がり。誰なのか見えなかった。 ……まだお昼なのに、雨戸も閉めたままなんて。 今は(うらら)かな春三月の正午。反してここは閉めっぱなしの明かりが無い部屋。驚く澪。それをかまわず森下、布団に眠っている人物の側に座った。 「(ゆう)様。お薬の時間ですぞ」 「う……」 「駄目ですよ。飲まないと」 起こそうとする森下。彼は少しだけ動いた。白い寝巻きの浴衣。長い髪。澪にはそれしかわからなかった。 ……この人が、旦那様。 長い髪はボサバサ。髭と薄暗さで顔は全くわからない彼。目を覚ました様子だった。 「……今日は……何日だ」 「十日です。悠様。とうとうお嫁さんがお越しになりましたよ」 「嫁?……う!ゴホゴホ!」 驚くような声で彼は咳き込んでしまった。この間、森下は彼の背をさすっていた。 「ささ、悠様、お薬ですよ」 森下は慣れた手つきで彼に薬を飲ませていた。澪、それを正座のままじっとみていた。 ……この人、苦しそうだわ。何かの病気なのかしら。 暗い部屋の男。自分の結婚相手はまさかの病人。驚きの澪。彼は布団で身を起こし、森下に介抱されていた。 「まあ?ほら、せっかくお嫁さんが来たんですから。綺麗な晴れ着をお召しですよ。顔くらい見て差し上げては?」 どこか意地悪な物言い。これに彼は首を横に振った。 「ゴホゴホ……」 この時、ちょっとだけ澪を見た。長い髪の間から除いた瞳。その目の下は黒く、彼の辛さが見て取れた。 「はあはあ、死にかけの俺に花嫁か……お前、一体、金をいくらもらったんだ?」 「え」 咳に苦しむ顔。青い頬に必死の声。澪、体が固まった。この時、森下は嬉しそうに口角をあげた。 「ささ悠様……お話はその辺で。さあ、お静かに横になってください」 森下、彼に布団をかけた。この状況。澪。やっとこの状況を飲み込んだ。 ……この方は病……だから誰もお嫁さんが来ないんだわ。 咳込む彼。晴れ着の澪を見ることもしない。無関心で背を向けて寝ていた。 確かに澪、小田島家が資産家と聞いて、多少暮らしの良さを期待した自分がいた。北原の家よりもマシ、いや。幸せかもしれない。そんな淡い期待はもう破られた。 それは間違い。それは自惚れ。自分には有り得ない幸せだった。幸せを一瞬でも思ってしまった自分。恥ずかしかった。 驚きと悲しみと絶望の花嫁。そんな彼女に向かって彼は冷たく話した。 「お前……そ、そんなに着飾って。俺が喜ぶと思ったのか?ゴホゴホ」 「ほらほら悠様。お話しすると咳ができますよ」 嬉しそうな森下の顔。彼の重い咳。苦しそうなゼエゼエの息。澪、まだショックで彼から目が離せなかった。 ……なんてお痩せなんでしょう……まだお若いでしょうに。 澪のショック。それは彼の憎まれ口ではない。彼の病の重さだった。 今まで辛い世界で育ってきた澪。いつまでもめそめそしない。そんなことをしても誰も助けてなどくれないと彼女は知っていた。 ……私なんかをお嫁さんにもらおうとしているってことは。そういうことだったんだわ。 こんな病の彼に、福子が嫁に来るのはもったいない。そこで自分が代わりに選ばれたのだと澪は悟った。 ……それに、これはお嫁さんと言うよりも、きっと私は看病や付き添いで呼ばれたんだわ。 彼自身、自分に興味はなさそうだった。それに森下の高圧的な態度。しかもこの家に彼の家族はいないこの状況。澪、自分は病の彼のために家政婦として呼ばれたのだと認識した。 ……そうよ。だからご家族もいないのだわ。私もこのお方も。見捨てられたんだわ。 ようやく嫁にきた理由を悟った澪。どこか安堵していた。菊が自分に告げた『死んでこい』という意味。この事だとうなづいた。自分の思い描いていた結婚生活。それは無いと澪は結論づけた。 ……それよりも。この部屋が暗いわ。ここにいると私まで気分が悪くなるわ。 しかも妙な匂いがした。部屋を目を凝らしてみるとその正体、床の間のお香だった。澪の視線。森下は説明をした。 「澪さん。あれは病の祈祷のお香です。絶えず焚くようにお願いします」 「お香……それに花もあるんですね」 彼のためなのか。この部屋にお香を焚き、生花を飾っていた。そのせいか、ここは異様な匂いがしていた。 ……空気が澱んでいるみたい。きっと、締め切っているせいだわ。 健康な澪でさえ、気分が悪くなりそうな空気。しかし、失礼に当たると思い、彼女は何も言わなかった。森下は平気なのかお香の煙を確認した。 「さて。今宵は澪さんには、このお部屋に寝ていただきます」 「あ?はい」 「布団はあちらの押し入れです、では、一旦出ましょう」 言われるがまま、澪は彼の部屋を出た。そして居間にて森下、矢継ぎ囃子に説明をした。それは彼に関する細かい規則だった。 「飲水。これは枕元の『神水』と書いてある(かめ)の水を飲ませてください。そして、食事。これはすでに作ってあります。これを夕食に澪さんが食べさせてください」 移動した台所。そこには野菜と米があった。 「これがあなたの食料です。八百屋が届けに来ます。ですが悠様の食事は私が作って届けます。これ以外は食べさせてはなりませんぞ」 「はい」 そこには枯れかかったほうれん草。潰れたカボチャ。そして。干からびた長ネギがあった。他にもお米の小さな袋を見た。これが澪の食料、彼女は自分の価値をこれに見た。 「それに。あなたは悠様のお世話がありますので基本、外出できません。なので配達は便利でしょう?ご自分の食事はぜひこの食材で、存分に料理の腕を振るってくださいね」 「はい」 笑顔で親切な物言いであるが。萎れている野菜、古そうな調味料。澪。森下の笑みにゾッとした。 ……それに。これは。外に出るなという意味じゃないかしら。 鼻歌を歌う森下。澪、森下の真意が読めなかった。 そして他にも食事は朝夕二回。そして風呂の使い方、戸締り方法など森下は詳しく念を押していった。 「最後に。悠様のお病気を近所に知られてはなりません」 「はい」 「よって。お前は私以外の人間と口を聞いてはいけません」 「……はい」 強く念を押す森下にうなづいた澪。そして、森下は帰り支度をした。 「さて、私は帰ります」 「あ!あの。森下さん」 聞きたいことが山ほどあった。そもそも小田島家の人はどこにいるのか。澪は全く知らされていなかった。そんな彼女の不安な気持ちはどうでも良いように森下はそそくさと履物を履いた。 「言いつけを守るように。また明日きます。ではよろしく」 そう言って。彼女は帰ってしまった。シーンとした粗末な家。澪、不安になった。 ……どうしたら良いの?ここで病の旦那様と一緒なんて。 言いつけはわかった。それはやってはいけないという禁止事項。澪が知りたかったのはやって良いという許可された行動だった。これを聞くまでに森下は帰ってしまった。玄関で胸を押さえていると、廊下の奥、部屋から彼の重い咳が響いていた。 奥の部屋なのに聞こえる咳。彼の体調の悪さ、澪、感じ取っていた。 ……こうしてはいられないわ。 澪、せっかく来ていた晴れ着を脱いだ。どうせ花婿はこれを見るつもりもない。そしていつもの紬の着物、そして割烹着姿になった。 かまどには土鍋、そこにはお粥が作ってあった。森下が置いて行った食事。少しだけ味見をした。 ……濃い味?!こういうのがお好きなのかしら…… 味噌汁もあったがこれも味噌が濃い。そして、家の中を確認した澪、指示された夜の六時。温めた土鍋からお粥を取りお盆に乗せ、彼の部屋にこれを持ち込んだ。 暗い部屋。彼は布団で横になっていた。 「旦那様。お食事です」 「……」 暗い部屋と長い髪。これで彼の顔は全然わからない澪。背中に声をかけた。 「旦那様?お腹が空きませんか」 「うるさい!」 「きゃ?」 彼はいきなり腕で払った。このせいで、澪が用意したお粥はひっくり返ってしまった。その熱いお粥。澪の腕にかかった。 「熱……」 「はあ、はあ。あっちに行け」 「……失礼しました」 慌てて片付けて部屋から出てきた澪。腕はお粥をかぶり火傷の状態。しかし、今はそれどころではなかった。 ……旦那様は食べてないわ?どうしよう…… 澪は残っていたお粥をまた茶碗に乗せ、彼の寝床に運んできた。 ……食べないかもしれないけれど。支度はしないと。 「旦那様。これ、お粥です」 「……」 返事はない。だか、澪は布団のそばに置いてきた。それしかできない雰囲気だった。 「あの、お薬を飲んでくださいね」 「……」 返事がないが、これしかできない。そして出てきた部屋の外。急に腕が痛んだ。澪。外の井戸にて火傷の腕を冷やした。この夜、森下に彼の部屋で寝るように言われたが、澪は星空の下、風に吹かれてながら考えていた。 ……今から、あの部屋にお布団なんか、敷けるはずないわ。 病の彼の立腹の様子。彼が怒りで興奮する様子。肩を震わせ苦しそうに息をする彼。近寄るのは病を悪化させると考えた。 この夜。仕方なく澪は座布団を敷き詰め居間の畳で寝た。嫁いだ初日。歓迎しいてくれる者はいない春の寒い夜。悲しい花嫁の彼女はかけ布団の代わりに晴れ着を自分に掛けた。 嫁に行くという昨晩からの不安とこの日の驚きの出来事。疲労困憊の澪、月明かりの居間。新婚初夜、涙と一緒に眠った。 ◇◇◇ 翌朝、習慣で早く起きた澪。身支度を済ませて寝ている彼をおこさないようにそっと彼の真っ暗な寝室に入った。 ……食べてない。やっぱりか…… 全く手をつけていない。これは澪を拒否しているような気がした。けれど、澪、こんなことではめげない。病の彼に今日はなんとか口にして欲しいと思った。お盆を下げながらそんなことを思っていた。 その時、玄関の音がした。 「おはようございます……」 「あ?おはようございます」 慌てて玄関で出向いた澪。森下は顔を顰めた。 「……どうなさったんですか。その腕は」 腕にサラシを巻いていた澪。森下は心配すると言うよりも怪訝そうに彼女を見つめた。 「これは。お粥をこぼしてしまって」 「澪さん。あなた……」 森下。澪の腕を取った。 ……え?心配してくれるの? しかし、それを力強く振り払った。 「きゃ!」 「こんな腕どうでもいい!では、悠様は食べてないのか!お前は何をしているんだ!」 いきなりの怒号。澪は怖さよりもびっくりした。 「すいません」 「いいから!早く!薬を飲ませろ!水はどうした!?」 「は、はい。飲んでくださいと。お伝えしました」 怖くてそう言うしかなかった。森下、鬼の顔になった。 「おい……」 すると森下。澪の着物を掴んだ。 「貴様!ぼやぼやするな!悠様を殺す気か!」 「いいえ?決してそのようなことは」 「どけ!私がする」 森下。澪を突き飛ばし彼の部屋を開けた。そして寝ている彼を起こし、強引に持参した料理を食べさせた。そして薬を飲ませ、水を飲ませていた。その乱暴な様子。澪、ひどいと思っていた。 ……やっていることは看護かもしれない。でも、これは虐待だわ。 嫌がる彼に飲ませる薬は大量。苦しそうな彼を澪、見ていられずに廊下にいた。そして森下、さっさと食べさせた。 「いいか。夕食はちゃんと食べなさい!出ないとお前を追い出すからな!」 「はい」 彼女、多忙と言い澪に任せて帰って行った。 ……ああ。怖かったわ。 胸を撫で下ろした澪、時計を見た。まだ午前十一時だった。 そこで澪。掃除を始めた。森下は何もいじるなと言ったがどこか埃ぽい。綺麗好きな彼女、静かに居間の畳を雑巾掛けを始めた。 ……旦那様の部屋だけよね。いじるなって言っていたのは。うわ?真っ黒。部屋が薄暗いからわからないのかしら。 あまりの汚れ。しかし時間がある澪。居間の障子窓を開き、埃叩きで掃除を始めた。居間の縁側も雑巾掛け。三月のポカポカ陽気なこの日。ここに座ると庭が見えた。咲いている梅の花。少しだけ気分が晴れてきた。 ……あら?雑草がずいぶん伸びているわ。あそこね。今度の掃除は。 悲しい輿入れをした自分。実家でもひどい目にあっていた澪。それを気にしないように掃除をしていたら、澪はずいぶん心落ち着いてきた。 居間の掃除を終わらせた澪。夕刻。静かに彼にそろりとお盆に森下の用意した料理を乗せ部屋にやってきた。 「失礼します……」 「スースー」 ……あら?寝ている。でも、胸の音が苦しそう。それにやはり、この部屋は異臭がする。 健康な自分でさえ、気持ち悪くなるこの匂い。明らかにお香と花のせいだった。 「う!ゴホゴホ!」 「大丈夫ですか」 「ゴホゴホ」 ……それはそうよ、こんなにお香の煙があるんですもの。 実家にいた時、弟の豊の世話をしていた澪。豊は気管支が悪く、すぐ風邪をひく子供だった。そんな時、澪はいつも付きっきりで看病していた。その経験から澪はこの部屋は異常に感じていた。 「ウ!ゴホゴホ」 澪。彼のあまりの苦しさに見かねた。止まらない咳。苦しそうな彼。これを見た澪、香を湛えた香炉を手に取った。せめて、彼から遠ざけたい。そう思った澪、部屋の隅に移動した。そして百合の花もできるだけ部屋の隅に移動した。 ……それにしても。この部屋は全然掃除をしてないみたいだわ。埃がすごい。 「う」 「あ。お目覚めですか」 水が欲しいのか。彼は森下の水差しを指さした。 欲している彼。澪、頭のところにあった壺を手に取った。その水、違和感があった。 ……なんだろう……何か、お薬が入っているのかな。 寝ぼけている彼の前。甕の水を澪、ちょっと飲んでみた。酸っぱかった。 ……う?腐っている味ではないけれど。何か入っているわ。この水。 他にも。寝床に置いてあるたくさんの薬の量。これに驚いた。考え込んでいると彼は澪の着物を引いた。 「あ?すいません。お水ですよね」 すると。彼は黙って首を横に振った。 「え。違うんですか?」 話ができるはずだが話すと咳が出る様子。彼は語らず喉が乾いたと言っているようだった。 ……そうよ、お食事の味があんなに濃いんですもの。お喉が渇いてるんだわ。 でも。彼は、この水は嫌だと伝えてきた。 「もしかして……これじゃない水が良いのですか?」 うん、と彼はうなづいた。澪。うなづいた。 「わかりました。井戸水を汲んできますね。お待ちください」 澪、この神水ではなく、台所から新鮮な井戸水を汲んできた。彼はごくごくと飲んだ。その喉仏が動くのを彼女は見ていた。 「旦那様。では。お夕食をお持ちしますね」 彼は首を横に振った。要らない、水だけ欲しいと訴えていた。澪、言う通りにしたいと思った。 「……では、汲んできたお水を、ここにおいておきますね。ご自由にお飲みください。え?なんですか?」 そっと寝床の横に置いたお盆。彼はふと、澪の腕を掴んだ。火傷を庇う晒しの腕。悠はじっと見た。澪、恥ずかしくなった。 「これは?な、なんでもありません」 「……」 「旦那様。お薬はご自分でどうぞ。では。失礼します」 慌てて部屋を出た澪。この夜も彼の部屋の布団で寝ることを断念した。この家にはあの部屋にしか布団がない。仕方なくこの夜も居間に座布団を敷き詰めた。 ……あら?お咳が聞こえないわ。お薬を自分で飲んだのかしら。 昨日はひどい咳だった彼。今宵はそれはなかった。澪、どこか安心した。そして腰入りの二日目。寂しく疲れて眠った。 翌朝、三日目。澪はひとまず何かをしようと台所にやってきた。 ……北原の家では、この時間は炊事の時間だし。 働き者の澪。何かをせずにはいられない。そこで彼女、外の井戸で洗濯を始めた。桜の蕾が見える朝、南風。気持ちが良かった。 ……これは旦那様の木綿の浴衣。普段着は無いのね。 病の彼。洗濯物も寝着と下着。外出などできるはずのない彼の体調、彼の悲しい毎日。澪。不憫に思えてならなかった。そこに足音がした。 「おはようございます」 「あ?森下さん。おはようございます」 「それは?」 庭に顔を出した森下。勝手に洗濯をした割烹着姿の澪を見下ろしていた。無表情の顔。澪、濡れた手を拭いた。 「洗濯物の桶に入っていたので洗いました」 「……そうですか。くれぐれも勝手に家の中をいじらないでくださいね」 なぜか。片付けを嫌う森下。そんな彼女は勝手口から台所に入っていった。澪、後をついていき、仕事を覚えようと彼女がすることを見ていた。 森下は慣れた手つきで持参した土鍋でお粥を温め直していた。澪、背後から見ていた。森下はこれを嫌った。 「ここは良いです。お前は洗濯の続きをしなさい」 「でも。あれは終わりました」 「ではお手洗いの掃除です。さあ、怠けていないでお行きなさい!」 台所を追い出された澪。言われた通り、手洗いの掃除をした。特に使用されていない様子。掃除は簡単に終わってしまった。 廊下に出て台所に戻ると、お粥や味噌汁が完成していた。他には菊の花を持つ森下。澪、付き添いをせねばと思い森下の仕事の背後に立った。 森下は無言で悠の部屋まで歩んだ。 「ここで待つように」 「え」 「私が運びます。お前は片付けだけで良い」 その暗い部屋。森下は入っていった。中からは彼の咳き込む様子、苦しそうな声がした。気の毒で聞いていられない澪、ただただ、襖の前にて正座で待つだけだった。 そして。森下が出てきた。まとっているお香の匂い。閉まる瞬間の彼の姿は暗い布団で寝ていた。 「ちょっと。澪さん。お話が」 「はい?」 居間にて。森下は澪に尋ねた。 「あなた。昨夜はどこで寝たんですか」 「すいません。旦那様を怒らせてしまって。この居間に」 「ここに?ふ」 馬鹿にするような笑み。森下はうなづいた。 「まあ、お好きになさい。では、今日もあのお粥です。私の作ったものだけを食べさせなさい」 「はい」 「では、これで」 森下。帰っていった。静かになった屋敷。澪。することがなかった。 ……じゃ、またお掃除しよう。これではあんまりだもの。 彼の部屋以外は何も指示がない。澪、玄関から居間までを徹底的に掃除をすることにした。そして。彼の寝息を確認してから、そっと食べ終わった食器を片付けていた。 ……う?この匂い、やっぱりきついな。 匂いというか、煙というか。どう考えても体に良いとは思えない。澪、森下は明日の朝まで来ないと定めた。 ……消した方がいいと思うけど。やっぱりいけないのかな。 「ゴホゴホ!」 ……やっぱり。これは苦しいはずよ。 彼の咳。これを聞いていられない澪。とうとうお香の火を消してしまった。そして匂いがキツい菊の花。これも部屋から出した。 ……このお部屋、お掃除したいけど。寝ているから無理だわ。 加えて。部屋をいじるなと言われた澪。しかし、この澱んだ空気。生命の危機を感じていた。 ……とにかく。部屋をいじらなければいいのならば。 澪、彼の部屋の廊下側の襖を開けた。そして廊下の空気を和室に送ろうと思った。何もしないよりはマシ。彼の寝息もどこか楽に聞こえていた。彼の様子を時折り見つつ、彼女は部屋の換気を行っていた。 昼食。言われた通り森下のお粥を温めて寝床におく。しかし彼は食べない。 ……お薬もまだだわ。 思い切って。声をかけてみた。 「旦那様。お水は?」 「う……美沙(みさ)か。来て、くれたのか」 女の名前。澪の息が一瞬止まった。彼は夢うつつ、手を伸ばしてきた。 ……美沙さん?私とその女性を間違えている。でも、これでお水を飲むのであれば。 悲しい誤解。自分を見ていない彼。澪。それでも必死に声を出した。 「はい。旦那様」 彼が伸ばした震える手。澪。そっと両手で握った。痩せた冷たい手だった。 「お水ですよ」 「水……ああ」 目を伏せたままの彼。彼女は抱き起こし彼が欲していた井戸水を飲ませた。たくさん飲んだ彼、やがてまた眠りについた。 ……飲んだ。ああ。良かった。 粥は食べないが、すうすうと眠る様子。澪、ホッとして汗が出た。その夜、彼は森下の粥を少し食べた。こうした日が数日続いていた。 そうして一週間経た四月の朝。澪。居間にて森下に尋ねられた。 「最近、お香の香りが薄いと思いますが」 「そうですか」 実際は。森下が帰れば消しているお香。森下はこれに気がついた様子。だが彼の体調は良くなっている。澪、胸の鼓動を必死に抑えていた。 「それに。燃えたはずの灰が少ないのですが」 「あ?ああ、それは」 澪、とっさに申し出た。 「先日、私、お香を倒して。灰をこぼしてしまったんです。申し訳ありません」 「あれほどいじるなと申したのに」 森下が設定する部屋のお香。大きな香炉に山盛りに何やら盛ってあるお香の代物である。澪も見たことがないもの。森下、他にも無表情に語った。 「私はですね。小田島家より依頼されて悠様の手当てをしているのです。余計なことをするとお前様など追い出されますよ」 「承知してます。申し訳ございません」 「……花も飾っておくように。では私はこれで」 森下。そう言っていつものように午前中で引き上げていった。これもいつもの動き。これを見届けた澪。悠の部屋に戻った。 ……よし!片付けよう。 いつものようにお香の火を消した。そして、部屋に飾ってあった菜の花を部屋から花瓶ごと持ち出した。 「お前……」 「え」 「やはり。お前の仕業か!」 帰ったはずの森下。鬼の形相。なぜか玄関から入ってきていた。 つづく
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