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3 鬼のいぬ間に
「やはり勝手なことをしていたな!」
「あのその」
「その花をどうするおつもりだ!」
「こ、これは。きゃあ!」
顔を真っ赤にして怒り狂う森下。澪、あまりの怖さに思わず花瓶を落としてしまった。立腹の森下。こめかみに血管を浮かせ澪に詰め寄った。
「己よくも」
「す、すいません。これは違うんです」
澪、用意していた嘘を言った。
「お花に虫がついていたので、明るい所で取ろうと思って」
「うるさい!……どけ!お香は」
……あ?まずい。お香は消してしまったわ……
森下はさっと寝室に入っていった。あのお香は先ほど澪が確かに消した。澪、叱られる覚悟を決めながら、割れた花瓶のかけらを拾っていた。やがて森下、黙って部屋から出てきた。興奮の肩、しかし彼女は何も言わなかった。澪、不思議だった。
「あの」
「……花を戻しておきなさい!この件は、小田島家に報告しておきます」
「申し訳ありませんでした」
なぜかお香のことに触れない森下に平謝りで見送った澪、今度は玄関をしっかり施錠した。そして悠の部屋をそっと覗いた。
……あれ?お香の煙が上っているわ?どうしてだろう。
確かに消したはずなのに。お香は怪しい香りを立てていた。森下はこれを見て怒れずに帰ったのだと澪は悟った。
……おかしいな?確かに消したはずなのに。
首を捻りながら。澪は大事にお香を部屋の外に持ち出した。火を消せば灰が出ない。こうして彼女。毎日、森下が来るまでこの香炉を火をつけたまま屋外へ出すようになった。
そして。彼の部屋以外を掃除。雑巾掛けで綺麗にしていった。さらに彼の部屋の襖を開け換気に徹していく。心なしか彼の咳が少なくなっているようなそんな感触を覚えていた。
夜はあいかわず居間に座布団を敷き詰めていた。夏の始まりの季節。肌寒い夜もある。澪は持参した着物をたくさんかけて寝ていた。
こうして十日ほど経った朝の日。それは雨上がりの朝だった。
「……ん!」
「……う、ううん……」
……誰?
肩を叩かれ澪が目を開けると。そこには長い髪と髭の男の顔があった。
「うわ」
「……水」
「あ?水ですか、今、お持ちします」
なぜこの居間にいるのか不明であるが。彼は自分で起きてここにいた。澪、驚きであったが水を持ち、彼に飲ませた。戻ると澪が今まで寝ていた座布団に座る彼。長い髪の浴衣姿。湯呑みでごくごくと飲む様子。じっと見ていた。
……明るいところで、初めて見たわ。
しかし。まだその顔はよくわからなかった。そばで澪、ボサボサの髪を見ていた。
「ん」
差し出した湯飲み。お代わりを所望の様子。彼女、受け取った。
「は。はい」
たくさん飲む理由がしれない。が、澪は言われた通りに水を持ってきた。そんな彼。飲み終えると澪が寝ていた座布団の上にあぐらをかいた。
……もしかして。お腹が空いたのかな?
「あの。もうすぐ。森下さんがお粥を持って来てくださいますよ?なのでお待ちください」
まだ早い時刻。森下はまだ来ない。彼女は恐ろしいほど時計通りの女。すると彼は澪を指さした。
「え?私」
彼はうなづいた。
「もしかして。私に作れと?」
うなずく彼。澪、びっくりした。
「私の?……はい、お待ちください」
……変なの?私が作ったのは食べないはずなのに。
返事を聞く前に。彼は座布団の上にゴロンと寝転んだ。そして澪の着物でもそもそしていた。
……い、いいのかな?私の着物なんかで。
しかし掛け布団は無い。澪はドキドキしながら台所でお粥を作っていた。するといつものように森下がやってきた。
「おはようございます」
「おはようございます。あの。森下さん。今朝は旦那様が起きていらっしゃいます」
彼の体調が良好の報告。だが、森下、血相を変えた。
「え?起きているですって」
驚きの森下。慌てて居間に向かった。
……どうしてあんなに驚いているのかしら。
元気になってきたなら喜ぶはず。しかし森下は彼を自室へ戻させた。そして、澪の粥ではなく、自分が作ってきた粥を強引に食べさせようとした。
廊下で控えている澪。森下の会話が聞こえていた。
「さあ、悠様、私のお粥を食べましょうね。ところで、お香は?」
……あ?寝坊したので、火が付いてないはずだわ!
毎朝の誤魔化しをしていない澪。やってしまったと彼女は背中に汗をかいた。
「……そこに」
「そうですね」
……え?いつの間に。
二人の会話は続いていた。
「悠様、花は?」
「私が倒したので、片付けさせた」
「左様でございますか、まあ、仕方ないですね」
……どういうこと?
彼は澪のしくじりを庇ってくれていた。澪、ドキドキしていた。会話の森下は何も言えず、どこか悔しそうだった。
「……そうですか。ですが、お花も常に置いてくださいませね」
「ああ」
「悠様。私は帰りますが。布団から出てはなりませぬ」
「わかった」
そして。森下は部屋を出てきた。憮然とした様子。澪を無視し、彼女は帰っていった。
……はあ?怖かった。ああ、鍵を閉めないと。
帰ったふりでとんぼ帰りで調査をする可能性の森下。これに懲りた澪、つっかえ棒までして森下対策をしていた。そして布団の彼、この朝も彼は森下が持参したお粥を食べると澪は思った。
「あの。これをどうぞ」
森下の粥。彼は首を横に振った。
「え、でも」
そして。澪をじっと見つめた。
目の前に森下の粥があるのに澪の手製を所望する彼。澪、不思議であったが自分が作った粥を持ってきた。
「土鍋が熱いですから。私がお椀に取ります」
澪の仕草。彼は見ていた。
……あの腕、やはり……俺のせいだ。
初めての出会った夜。せっかくの彼女が食事を運んでくれたのにそれを拒んでしまった自分。その時、彼女は確かに熱いお粥を腕にかけてしまっていた。しかし、彼女はそれについて愚痴らず涙も流さず、何も何も言わなかった。
……それに。あのように座布団の上で寝ているとは。
彼とて。この家に布団は自分の部屋にしかない事は知っている。意地悪をすれば彼女が出ていくと思っていたが、彼女はなぜかそうしなかった。
「はい。旦那様。量はこれくらいでよろしいですか」
「ん」
「はい。どうぞ」
持たせてくれた匙。彼は澪が作った粥を口に入れた。それは懐かしい味がした。澪はこれを嬉しそうに見ていた。
「では。私はお茶を」
この時、澪のお腹がぐううーと鳴った。
◇◇◇
「すいません!あの、気にしないでください」
頬を染めた澪。そう言って彼女は台所へ行った。悠、ふと匙を止めた。
……もしかして。食べていなかったのか?
悠は自室で寝ていたが、澪が何をしているのか音で探って知っていた。火傷の腕を井戸で冷やしていたこと。居間を掃除している音。彼女はいつも動きを止めず何かをしている様子だった。彼女は台所にいる時間は確かに短かったと思い返していた。
思案中の彼を知らず、彼女はお茶を持ってきてくれた。
「どうぞ。熱いですよ」
「お前、食べているのか」
「……はい」
「嘘だ」
「た、食べていました!少しかもしれませんが」
一か八か、話をぶつけてみた悠。澪。申し訳なさそうにした。
「すいません。旦那様がその、お食べにならないのに、私だけが食べるなんて……どうも食が進まなくて」
……今日で十日になるのに。この娘。
恐縮している彼女。母親が勝手に連れてきた花嫁。自分を思うあまりに母が暴走した縁談である。病の悠は彼女を受け入れるつもりは毛頭なかった。しかし、今はそれよりも頑固娘になんとか食べて欲しかった。
「お前も食べろ」
「私は、後でいただきます」
遠慮して食べないかもしれない。悠はそんな気がした。
「では俺は食べない」
「それは困ります?あの、お願いです旦那様」
弱り顔の彼女。悠、ちょっと面白かった。
「ここで今。俺と食べろ。嫌なら出て行け」
「はい……わかりました」
彼女はスッと下がり、会釈をした。そして部屋を出て行ってしまった。
……え?本当に出て行ったのか?
驚いた悠、持っていた匙が落ちた。それを拾っていると、襖が開いた。
「失礼します。旦那様」
「あ、ああ」
……よかった。って?何を思っているんだ俺は。
自分用のお椀を持ってきた澪。そっと土鍋から装っていた。
「いただきます」
「ああ」
しみじみ食べる彼女。食べていた。彼はなぜかほっとした。
「旦那様、お味はいかがですか」
「……」
「……もっと濃い方が良いですか?それに、お嫌いなものがあったら、教えてください」
「味などはどうでも良い」
「え」
低く冷たい声。澪、彼を見つめた。
「嫌いなものは『お節介』だ」
「『お節介』……あ、すいませんでした」
……私のことだわ。いけない、打ち解けたような気になってしまったわ。
精神が不安定の悠から思わず出た憎まれ口。澪は悲しそうな顔して食べるのをやめてしまった。
「ごちそうさまでした。旦那様、お薬を忘れずに」
「ああ」
「失礼しました」
頭を下げて出ていく彼女。その悲しそうな顔。悠、まともに見れず自己嫌悪。食後、自室の布団に入った。
……くそ!なぜ、こんなことに。
息が苦しいはずの病の身。しかし、今は心がズキズキと痛んでいた。
◇◇◇
小田島悠。資産家の次男である。会社経営の父親になじまず、学業に専念。そして役所に勤務していた。会社は長男の兄が継いでいる。
そんな彼。恋人だった美沙と別れた後、体調を崩す。動けば咳き込む彼。病院で診てもらうが原因不明。藁をもすがる思いにて母親は民間療法に頼っていた。
それは小田島の母親が見つけてきた高額な民間療法。これは香を焚き部屋を浄化し、神水と言われる水を飲み体を清めるもの。医薬品は毒入りとみなし、禁止。全て彼らの薬や食べ物を使用せねば早く死が近づくという教えであった。
小田島の母親。言葉巧みな健康食品会社の森下の話に傾倒。すっかり彼女に洗脳されていた。悠。病の身であったため当初、これを信用する。そして森下の指示に従っていた。
しかし、ますます悪くなるこの体。彼はすぐに森下の方針がおかしいと気がついたが手遅れ。母は信者。母を信じた自分は父や友人に暴言を吐いてしまい縁を切られたに等しい状況。よってこの治療を阻止してくれる家族や友人は彼には皆無であった。そして悠、森下の狂った治療により、反抗する体力を失いかけていた。
そんな絶体絶命の時にやってきた娘。死にかけの自分に、嫁を用意したと、本気の涙の母親の顔を彼は思い出していた。
……あの時は、いよいよかと思っていたが。
その嫁と言われる娘。彼女は頼んでもいないのに、勝手に怪しい治療を自分から除いてくれている。当初は森下の手下と疑っていた悠。ただただ澪のすることが不思議だった。
しかし、彼女のおかげで乱れていた精神が霧が晴れるように落ち着いていた。彼は以前の自分を取り戻しつつあった。
……ん?開いた。
朝食後。いつものようにスススと襖が開いた。これは澪のいつもの換気である。彼が寝ていると思っているのであろう。忍足の仕事。悠は目が覚めていたので音だけを聞いていた。
……さあ。始まるぞ。今度は樽に水を汲んで。雑巾掛け開始だ。
彼女は静かに動いているつもり。しかし元気なのであろう。だんだん音は賑やかになる。悠はこれを密かに楽しんでいた。今は、樽の中でサブサブと雑巾を洗っている音がした。
「あ!うわ」
……こぼしたな?ふふふ……
バシャーンと樽をひっくり返した音。悠、思わず布団で笑った。娘、慌てている音がした。
どうやら水浸しにした廊下を必死に拭いている様子。彼には娘の様子が目に浮かんでいた。
……ふふ。静かに行うことをすでに忘れておるし?面白い娘だ。
澪の仕事の音が心地よい悠。いつの間にか、咳もなく眠りについた。
この昼は食べずに夕飯時。彼は居間に自力でやってきた。
「飯」
「え?旦那様?」
……また部屋から出てきた。ちゃぶ台を出さないと!
てっきり自室で食べると思った澪。彼の登場にびっくりした澪。慌てて畳んでいたちゃぶ台を広げようとしていた。
「慌てるな。また失敗するぞ」
「すいません……」
……そうか。今日の失敗を知っているんだわ。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
彼のからかい。これを失敗への怒りと受け止めた澪。小さくなりながら彼に尋ねた。悠。これに眉間に皺寄せた。澪は続けた。
「今夜のお夕飯は森下さんのですか?それとも、私のお粥ですか」
娘の恐縮した態度。悠、自分の言葉のせいと気がついた。
「お前のが良い。あのな、娘」
「はい」
火傷を我慢。森下の怪しい治療を見抜き排除している叡智。さらに悪態をついているのに関わらずこの優しい態度。
悠、今まで彼女を金目当てか、森下の手下の可能性を疑っていたが、この人柄の良さより、その可能性を排除した。
「ゆっくりで良い。それに、お前も一緒に食べろ」
「はい。少々お待ちください」
そして。澪は食事を出した。
「お粥と、それとにお庭にあった野菜でお新香と煮物を作ってみました」
「いただこう」
悠、食べた。美味しかった。
「お前も食え」
「はい。いただきます」
梅雨なのか寒い雨。窓の外はどんよりしていた。二人、黙って食べていた。
澪としては色々尋ねたいが、お節介は無用と言われている。
悠としても色々尋ねたいが、プライドが邪魔をしていた。
森下の怪しい水や食べ物を食べないようになった悠。少しづつ元気になり、目の前の澪の料理を美味しく食べていた。
「ん」
「はい」
おかわりの所望。会話はこれだけ。だが進む食事。澪は嬉しかった。
……よかった。お薬を飲んでいないから。どうなることかと思ったけど。
薬の服用は彼に任せていたが。彼は飲んでいない様子だった。このやり方。病が進めば澪のせいである。
しかし、あの異常なほどの大量の薬。澪には無理強いはできなかった。このせいで咎められたなら澪、甘んじて罪を受けようとまで覚悟していた。
静かな夕食。二人だけの時間、やがて悠、お茶を飲んで口を開いた。
「明日……」
「は、はい」
長い髪、髭の顔、その顔は澪にはよくわからなかった。
「明日は晴天だ。私の部屋を掃除しておくれ」
「え?良いのですか、でも、晴天って」
今は梅雨時期。今夜もしとしと雨。なぜ晴天と言っているのか、澪は首を傾げた。彼は話を続けた。
「ああ。森下が帰った後に内密にだ」
「かしこまりました……」
「さて」
彼はそう言うと立ち上がろうとした。痩せた体、澪、思わず立ち上がり彼の身を支えた。
「旦那様!
「お前?」
余計なこと。お節介が嫌いな彼。澪はもちろん承知していた。
「すいません。ここだけお手伝いさせてください」
確かに立ち上がる時がぐらついた悠。悔しいが娘が助けになった。
「……私は寝る。お前も早く寝ろ」
捨て台詞を残し。彼は居間から出ていった。静かになったちゃぶ台。二人分の食器。彼女は片付けようと彼の食べ終えた小鉢を手に取った。
……たくさん食べたわね……あ?煮物のニンジンを残している?……
窓の外は雨。これが晴れると言う彼を思い出し、澪は微笑んだ。
この家に来てそろそろ二週間。彼女は生まれて初めて、明日という日が楽しみになっていた。
完
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