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4 晴天
六月の朝、晴天。小田島家に嫁入りした澪。屋敷の庭でうーんと伸びをした。
「あの」
「うわ?お、おはようございます」
いつの間にかいた庭向こうの隣人。老婆は優しく微笑んだ。
「おはようございます。あんたは小田島さんの嫁さんかい?」
「え、ええ。まあ」
はっきり答えることができず俯く澪。老婆は嬉しそうに畳み掛けた。
「やっぱり!そうかい?旦那さんは最近調子が良いみたいだね」
隣人の老婆。嬉しそうに洗濯物を広げていた。
「うちにも毎晩、咳が聞こえているんだけど、あんたが来てからぐっと減っているからね」
「そうなんですか」
「ああ。そうか、お嫁さんのおかげか」
しみじみ話す彼女は洗濯物を干し終えた。するとこの場に森下がやってきた。
「澪さん!」
彼女は荒々しく澪の手を掴んだ。
「痛い」
「近所の人と口を聞くな!さあ、悠様の支度をしろ」
「はい……」
怒りではじまった朝。ふと見ると老婆はじっと自分を見ていた。そして小さく目配せをした。澪、この態度を後で詫びに行こうと思いながら家に入った。
森下は今朝もキリキリと部屋を確認した。
「お香もあるし、花もありますね」
「はい」
今朝も誤魔化しは万全。あとは森下のお粥。これは悠本人がなんとかする話であった。澪は彼の部屋の外、廊下で正座をし待機していた。彼女には二人の会話が聞こえてきた。
「悠様。お薬を飲んでいますか」
「ええ」
「……減ってきましたね。明日、補充しましょう」
実際は、悠は手洗いに捨てていた。これを森下、気がついていなかった。
「神水も飲んでいますね」
「はい」
「では。これも足しておきましょうね」
実際は飲んでおらず捨てている怪しい水。このお酒のトックリのような壺。さらに彼女は話を続けた。
「悠様。あの澪という嫁ですが」
「ああ」
「私の言いつけを守っているのでしょうか?私にはそうは見えませんが」
……うわ?どうしよう。
憎しみがこもっている言葉。ドキドキの澪。悠は静かに返事をした。
「確かに守っていませんね」
「ほら?やっぱり!」
……嘘!まさか、そんな。
肯定する悠。喜ぶ森下。澪、青ざめた。彼のために尽くしているつもりだった。目の前が真っ暗になり、そしてジワと涙が出てきた。
「あの娘は怠け者。森下さんが帰ったら、寝てばかりですから」
「まあ?おほほほ」
……え?はあ、びっくりした。
悠の嘘を喜ぶ森下。彼女の暗黒面。澪はドキドキしながら聞いていた。
彼はどこか嬉しそうに話していた。
「よって、自分は話もしませんので」
「それでよろしい!そのまま私のいう通りになさってくださいね」
恐ろしく喜ぶ森下。澪、ゾッとした。そんな彼女は上機嫌で帰っていった。
澪、いつものように森下対策でつっかえ棒をした。
玄関から戻ると、彼は居間のちゃぶ台の前で待っていた。今朝も澪のおかゆを食べると言う彼。晴天の朝、澪、自分で作った粥を彼に食べさせた。彼は静かに食べていた。
「先ほどの話、聞いておったか」
「はい」
まだどこか神妙な顔の澪。悠、笑った。
「そう驚くな。致し方ないであろう?あの場合、ああ言う他ない」
「違うんです?あの、森下さん、やっぱり私の事を疑っていますよね」
目を伏せる澪の心配。悠の箸が止まった。
「疑うとは?」
「旦那様が、お薬やあの水を飲んでいないことに気がついていると思います」
悠が行っている治療拒否。澪はこの発覚を恐れていた。
「まあ、案ずるな。お前は関係ない」
「私が申しているのはそれではありません。旦那様がもっと、その」
「その?」
「……例えば、森下さんが、旦那様をどこかに隔離するとか、そういう強い態度に出そうで怖いんです」
「お前……」
……俺の心配をしているのか?
てっきり。彼女自身が叱られることを気にして要ると思った悠。だが違う。彼女の心配は自分。こんな病の意地悪な自分をただ案じていた。澪はさらに続けた。
「森下さんは。私のことを小田島家に報告すると言っていました。だから、本家から何かお話があるかもしれません」
「なるほど、う?ゴホゴホ」
「あ?大丈夫ですか」
悠は会話を続けたかったが、咳き込んでしまった。激しい勢い。会話はしないほうがいい。澪は優しく背をさすった。
「はあ、はあ」
「旦那様。お気を楽にして下さい、さあ、ここでよければ横になって」
「ああ」
食後の悠。澪の敷き詰めた座布団に横になった。
「旦那様。少し背を上げてください」
従った彼。なぜか呼吸が楽に思えた。
……そうか。傾斜をつけたのか。
座布団を重ねた澪。枕を高くするのではなく。腰から上まで徐々に上がっていた。少し身を起こした体制。呼吸が楽になった。
彼女はちゃぶ台を片付けて、台所で食器を洗っている音がした。
……細やかに動く娘だ。まるでネズミのようだ。
そして。彼のそばにお茶を持ってきた。
「どうぞ、人肌です」
「ああ」
そして。彼女はじっと彼を見つめた。
……澪。今よ。はっきり旦那様に言うのよ……
「ん?なんだ?」
素直な瞳。黒い髪の小柄な娘。長い髪でボサボサの彼、ドキとした。彼女はまっすぐな瞳で彼に向かった。
「あの!いいですか?」
「ん?」
「旦那様のお部屋です。大掃除して良いですか?!」
真剣な顔。悠は思わず口角が上がった。
「ああ。好きにせよ」
「はい!では行きます!」
嬉しそうに割烹着で翻した彼女。それをそばで見ていた悠は微笑んでいた。
……まるで戦闘準備だ。
いそいそと動く彼女。悠には可愛らしく見えた。
……バケツの大砲。ほこり叩きはまるで薙刀。ふふ。面白いな。
髪も結び直し頭にもふきんを被った彼女。悠は面白そうに見つめていた。そして用意が整った。
「旦那様、私の着物で申し訳ないですが」
「ああ、なんでも良い」
彼女はそっと自分の着物を彼に掛けた。娘柄の小紋に包まれた悠、彼女に匂いに思わずドキとした。
「では、旦那様。何かあればおしゃってくださいね」
言うことは何もない。悠は喋らず手で行けと払った。澪は嬉しそうにした。
「はい!」
こうして澪。悠の暗い部屋を掃除へと向かった。悠、その足音に微笑んでいた。
◇◇◇
……暗黒の部屋。いざ!
澪。頭を下げ入室した。口に覆いをし、いよいよ雨戸を開いた。
……戸が重い……長く開けてなかったのね……
ガラガラとなんとか開いた。そこには青空が広がっていた。澪はどんどん障子を開いて行った。
「ぶ!?すごい埃!ゴホゴホ」
そして。まずは布団を外に干した。梅雨の合間の晴天。どんどん布団を干していった。こうして部屋のものを外に出した。
「よし!次!」
埃たたきにて、片っ端からかけて埃を払う、光に当たってどこか綺麗にキラキラの部屋であるが、澪はどんどん埃を叩いて落としていった。
……よし、埃はここまでにしてひとまず部屋を開放して。あ?その前に洗濯しないと。
せっかくの晴天。ここで澪は仕事を切り替えて洗濯に向かった。
寝具の洗濯は大物。大きな樽に敷布などを入れ洗剤を入れた水で足で踏んで綺麗にしていった。
心地よい風、陽気な天気。澪が干したものは乾きそうな雰囲気だった。
そして今度はまた悠の部屋に戻った。
埃が減ったような部屋。箒をかけて雑巾で何度も拭く。棚も床も畳を雑巾が白くなるまで拭いた。この部屋は八畳間。元々物が少ない部屋であったので、この午前中は清掃はここまでにした。
「はあ。やったわ……あ?旦那様のこと」
……忘れていた!
夢中の掃除。居間で寝ている彼を忘れていた澪。慌てて居間に戻った。
「旦那様?あ」
「スー……スー……」
寝ていた悠、澪はほっとした。この息遣い、楽そうである。彼のためにお茶でも淹れようと澪はお湯を沸かし出した。その音、悠、目が覚めた。
……ん。掃除は終わったのか。
悠にとっては先ほど掃除に向かったばかり。なのに今はもう台所で動いている彼女。この働きぶりに笑みが溢れていた。
知っているのは澪という名前。心配性の母親が連れてきた自分の嫁らしい、ということ。この話、どれもが薬のため思考が酩酊したい時の話。悠もよくわかっていなかった。
それにしても働く娘。じっとしているのは落ち着かないのであろうか。そんな娘を悠はじっと見ていた。
「あ、旦那様。起きておいでですか」
「掃除は済んだのか」
「まだです。今は一旦、休憩です」
そう言いながら澪はお茶を出してくれた。悠、むくと起き上がった。
「お食事はどうなさいます?」
「腹は減ってない……夕飯を早めてくれ」
「そうですか。ええと、何時にしましょうね」
うずうずしている娘。悠、微笑んだ。
「俺のことは気にするな。好きだけ掃除してこい」
「はい!では」
元気よく向かった娘。悠、湯呑みから上がる湯気の向こう、じっと見てた。
六月の梅雨晴れの昼下がり。初夏の香りのこの居間、庭にはキビキビ働く娘、その上に広がる青空、白い雲。ゆったりとした時間。
……さあ、俺も、しっかりしないと。娘に頼ってばかりはいられない、な。
澪の着物を被った悠、その眼はスッキリしていた。彼はこれからのことを考えていた。
◇◇◇
「すいません。遅くなってしまって」
「別に、そんなに遅くない」
午後も夢中で掃除をした澪。夕食の時間まで必死にやってしまった。その間、居間にて過ごしていた悠。本など読んでいた。
そしてやっと夕食になった。澪が作ったお粥に煮物。悠は黙って食べてた。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「お掃除のことなんですけど」
森下に部屋をいじるな、と言われていた澪。それを背いて掃除をしてしまった今、明日の森下になんと話そうか悠に向かった。
「私、最初は旦那様の部屋に寝るように言われていました。だから。そのためにお布団を出したって、言い訳しようと思います」
「そう、だな」
「あの?布団はこの部屋に敷いて寝ますので」
澪と彼は形だけの結婚。そのため澪は、寝室を別にしようと思っていた。
「……それではダメであろう」
「え」
粥を食べながら悠はつぶやいた。
「俺の部屋じゃないと、森下は納得しないだろう」
「でも」
最初は瀕死の彼のための嫁だった自分。しかし、今の彼はそうではない。どうすれば良いのか澪もわからなかった。
「今夜、お前に話をしよう。とにかく、私の部屋で寝てくれ」
「わかりました」
ドキドキの澪。食器を片付け寝支度をし、彼の部屋に向かった。埃が立つので澪は食後に自分の布団も敷いておいた。
掃除が済んだ寝室。空気も新鮮で澪はやっと安心した。彼は自分の寝床で起き上がっていた。
「旦那様。これは寝る前のお茶です」
「ああ。まず、そこに座れ」
寝床の明かりをつけていた悠。読んでいた本を閉じた。
「咳が出たら話をやめる。まず、俺の体のことだ」
悠、二年前から咳き込むようになり、医者に診てもらったが、原因不明だったと語った。
「そこで母親が、民間療法で俺を治そうと思ったんだ。そこで森下を紹介されて、彼女の指示通りにこうして過ごすようになったのだ」
「でも、あの薬は」
「ああ。俺も異常だと思う。しかし、母も信じてしまって、俺も弱っていため森下に言われるままになってしまったのだ」
「そう、だったんですか」
咳き込む悠の部屋でお香を焚くのはおかしいと思っていた澪。悠の話に納得できた。
「だがな、お前が来た」
「私ですか?」
長い髪で髭の彼。顔は見えないが恥ずかしそうだった。
「ああ。お前だ。お前が森下に叛いたせいで、結果的に俺の呪縛が解けたんだ」
悠は長い髪の間から、瞳を覗かせた。
「そんな!?私こそ、勝手なことをしてしまって」
うむつく澪。しかし、ここで悠が咳をした。
「ゴホゴホ」
「旦那様?お話はもういいです」
「い、いいんだ。とにかく。今宵からここで寝ろ。ただ、隣にいれば良い」
「はい」
……苦しそう。とにかく、様子を見て差し上げたい。
彼の咳が止まるまで、澪は寄り添っていた。そして彼を寝かせた。清潔な布団、清浄な空気。咳が治った彼の優しい寝息。これを聴きながら澪も隣で眠った。
この日は大掃除をした彼女、久しぶりのフカフカの布団の中。彼の寝息がどこか弟と寝ているような安心感があった。
……旦那様の咳が聞こえないわ。よかった……
1日の仕事の疲れと安堵感。澪は初夏の部屋で涼やかに眠った。
「おい……おい。起きろ」
「ん」
「森下が来るぞ」
「へ?……あ?こんな時間?」
慌てて起きた澪。暗い部屋で寝過ごしてしまった。
「どうしよう。寝坊です」
「俺は何度も起こしたぞ?ふふふ、それに髪が」
「髪なんてどうでもいいです……もう。どうしよう?」
布団を急いで畳み、廊下に出た。そして寝癖の髪を結んで着物を着ていると、玄関に人影が映っていた。
「澪さん、開けなさい」
「はい!おはようございます」
玄関の鍵を開けた時、森下、ムッとした顔をしていた。いつもであれば開けておくこの玄関。彼女は機嫌を悪くした。
「私に入って欲しく無いのですか」
「いいえ。泥棒よけです」
「……退きなさい。悠様の支度をします」
森下。自分で作ってきた食事を広げ出した。そしていつものようにお盆に乗せて悠の部屋へ進んでいった。澪。廊下で控えていた。悠、自分で香を焚き、造花を暗い部屋奥に飾り設定した。そして雨戸を閉めたまま横になっていた。
「おはようございます。悠様」
「あ、ああ」
「お香は、焚いていますね?お花も、あるし」
「ああ」
「ん、その布団は」
澪が寝ていた後を発見した森下。悠、静かに答えた。
「私が付き添いを頼んだのだ。昨夜、咳がひどくてな」
「あらあら?そんな時は神水ですよ?」
どこか嬉しそうな森下。澪、ゾッとした。この部屋は暗いせいか、森下は掃除をしたことに気がつかなかった。
そして。森下の薬を飲んでいると悠が話すと興奮気味で話した。
「ええ。その調子です。どんどん飲めばご利益がありますよ」
「いつもすまない」
「いいえ?では、私はこれで」
悠の朝食を置いて部屋から出てきた森下。鼻歌を歌っていた。澪は彼女の残酷面にドキドキしながら、廊下を歩く彼女の後ろをついていた。
「あ。そういえば、澪さん。食材の方は大丈夫ですか」
嬉し顔の森下。この時に言いにくいことを話すチャンスである。
「それが、少し足りないです」
「では。少し増やして配達させますね」
「……あの。私は自分で買いに行ってはいけませんか」
すると。森下はカッと怒り顔になった。
「お前は私の手配したものを使っていればいいんだ!余計なことをするな!」
「はい?すいません!」
「全く。これだから反対したんだ。米屋の娘なんか……どうしようもない」
怒ってしまった森下。怒りのまま、帰って行った。
「はあ」
どっと疲れた澪。玄関で肩を落としていた。
「鍵は?」
「あ?つっかえ棒をしないと!」
いつの間にか玄関までやってきていた悠。腕を組んで立っていた。澪。悠の声に鍵を閉めて、さらに入念につっかえ棒をしていた。その姿、悠、長い髪の間から見ていた。
「それ……よいしょ!これで、絶対入れないっと。よし!」
必死につっかえ棒をする澪。その元気な様子、悠はじっと立って見ていた。
「ふ」
「ん?なんですか」
……面白い女子だ。森下が怖くないのだろうな。
「旦那様?」
「飯」
「あ?はい!?ただいま」
よどんだ空気に包まれていたこの家。一人の娘によって明るい光が差し込んでいた。小田島悠。この朝、昔と同じような笑顔で頑張る彼女を見つめていた。
完
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