2054人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ
7 中央気象台
東京麹町。中央気象台。全国の気象を予報する部署である。大島は座った席の隣を見た。そこはまだ空席だった。
「はあ」
「どうした大島」
「いや。こいつに早く復帰してほしいなって思ってさ」
その席には『小田島』とあった。大島はまた、ため息ついた。
「やっぱりあいつがいないと、予報が外れっぱなしですから。梅雨明けも予報外れて苦情がきたじゃないですか」
「だが。あいつは病なんだろう」
同僚の声。大島、大量の資料を前にさらにため息をついた。
「そうなんですけど……」
葉書を出しても返事がない。病気休暇の前は確かにおかしなことを話していたが、学生時代からの知り合いの大島。小田島悠を心から心配していた。
小田島は気象予報が的中する社内のエース。大島は同僚、そして友人として彼を尊敬していた。この時、彼は部署内で会議を開いていた。
「それでは。気象予報の情報収集について意見交換をします。まずは資料をご覧ください」
大島。みんなに内容を説明した。それは気象予報に関する新たな試みのことだった。
「皆も知っての通り。現在、日本各地に気象測定所を設けている。そこからここに気圧や温度、風向きなどを報告してもらっているが、我々としてはもっとこの予報の精度を上げたいのが課題である」
大島の説明、これに部下達は静かに聞いていた。
「特に。台風被害が重要である。人命がかかっているからな。今年は台風の予報をもっと的中させたいと思っているが。誰か良い方法はないか」
「はい。大島室長。自分の意見ですが」
若い部下、立ち上がって話した。
「過去の気象をデータを元にやる他ないと思います。例えばですね、この気圧、この風力で、同じ季節の気象なら。過去の天気図と照らし合わせてある程度、予報ができるのではないでしょうか」
「それは今、もう行っている。俺が言っているのは。それ以外の方法はないかということだ」
シーンとなり腕を組んだ同僚達、これはいつもの光景だった。この時、誰かが呟いた。
「あーあ。小田島君がいたら。なんて言うのか」
同僚のこぼした話。大島はじっと聞いていた。こうして会議は終わった。
◇◇◇
「ただいまです」
帰ってきた澪。慣れない外出にくたびれていた。それを知らず悠はまだ寝ていた。彼の様子を見てほっとした澪は夕食を作り出した。
食材は相変わらずひどい野菜。このため澪は帰り道に食材を買ってきた。嫁に来たと言うのに澪は生活費をもらっていなかった。その代わりに森下が必要なものを揃えてくれる約束だった。
しかしそれは最低限で、ひどい物だった。そこで澪は嫁入りに持参した金を少しづつ使っていた。これは悠のためであった。
今夜は悠に精がつくものを食べさせたいと思った澪、卵を買ってきていた。これで弟が好きな親子丼を作り彼に出した。
「お前が作ったのか」
「はい。あの、お嫌いですか」
ふわと閉じられた卵色。悠、首を横に振るとそっとこれに箸を入れ、そして食べた。
「どうですか」
「……まあまあだな」
「よかった!?」
……そんなに嬉しいのか?
嬉しそうにする娘。悠は恥ずかしいのを隠して食べていた。森下の料理は悪意があるのか濃い味ばかり。反して澪の料理は優しい味がしていた。この時。目の前の彼女は自分を見てばかりで全然食べる気配がない。気になった悠。箸を止めた。
「お前は食べないのか」
「はい。私、味見をしすぎて。お腹いっぱいです」
本当は、鶏肉と卵は高くてたくさん買えなかった。それなのに悠の食欲が旺盛な様子を目の当たりにした澪。自分は食べるのを止めにした。
「旦那様。まだお代わりありますよ」
「少しで良い」
「はい」
そして澪、自分の分を悠に差し出した。彼は何も知らずに食べていた。むしゃむしゃ食べる様子。澪、驚きで見ていた。
「ん?なんだ」
「いいえ、その」
……よかった。お元気になってきて。
初めて会った時の青白く痩せた頬だった悠。今は少し声も元気になってきていた。澪、悠の回復にホッとしていた。
「旦那様。お茶をどうぞ」
「あ、ああ」
「私、片付けておりますね」
食器を下げて居間を出た娘。悠、その小さな背を見ないように見ていた。
……ああ。また言えなかった。
『ありがとう』や『美味かった』と澪に感謝したい悠。つまらないブライドでそれができなかった。喉のここまで言いかけているのに、そこから先が出てこない。出会った時にひどいことを言ってしまったのを彼はまだひきづっていたしていた。
……それに。また俺はちゃんと挨拶もできていない。
母親の整えたこの縁談。死にそうだった自分に、お情けやってきた飾りの妻のはずだった。それは金目当て。それは自分が死ぬのを待つ恐ろしい女のはずだった。でも、違った。彼女は真摯に自分を看護し、そして命を救ってくれようとしている。悠、じっと湯呑みの水面を見つめた。
……しかし。不思議だ。なぜ、こんなに私を助けてくれるのであろうか。
悠が思い込んでいると、澪が居間に戻ってきた。悠、思い切って澪に向かった。
「なあ、お前」
「はい」
「お前はなぜそんなに私の世話をしてくれるのだ?」
「なぜって、それは……」
澪、思わずそばに座った。悠、続けた。
「俺など見捨てて。出ていけば良いのに」
「でも。私はこの家に、一応、お嫁さんとしてきたわけですから」
「では。その責任で務めていると言うことか」
「責任?」
どこか悲しい言い方だった。お節介が嫌いな彼。澪。泣きそうな胸の想いを殺した。
「……そう、なりますね」
「そう、か」
……くそ!なぜそんなに悲しい顔をするんだ。
落ち込む澪。悠もまた悲しくなった。こんな二人、夜は雨が降っていた。
同じ寝室で眠る二人には会話はなかった。
そして翌日から。澪は中央気象台へ大島に会いに行くようになった。
◇◇◇
そんな大島。ある日、噂を耳にした。
「何だって?」
「お前、知らなかったのか」
「もう一度、詳しく話してくれ」
他部署の男。大島に毎日会いにくる娘がいると教えてくれた。
「俺は初耳だぞ」
「そうなのか?身なりの貧しい娘さんだそうで。金の無心らしいから。受付で断っている様だぞ」
「そんな」
ここで話を聞いていた別の男。その娘を見たことがあると話した。
「確かにその娘さんは身なりは貧しいが、綺麗な顔立ちで挨拶も丁寧だよ。俺はてっきりお前がそう指示していたと思っていたけど。ええと彼女、誰かの名前を言っていたな?誰だっけ?」
「……まさか?」
大島、あわてて受付に向かった。
「君!」
「あら?大島さん。デイトのお誘い?」
真っ赤な口紅、色のついた爪。受付嬢の香水の匂い。大島、それを無視した。
「君!私に毎日客が来ているそうじゃないか?なぜ取り次ぎをしないんだ」
「え?……だって。あんなみすぼらしい女。大島さんと話なんかさせられないですよ」
良いことをしたと思っている受付嬢。まだ笑顔である。この時。大島の緊迫した声に人が集まってきた。受付嬢はまだ事の重大さをわかっていなかった。
「私は大島さんのためにしていたんですよ?いやだ!そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
「君は。君は私に会いに客を、私に聞かずに勝手に断っているのか?」
「え、す、すいません」
「信じられない……こんな受付嬢がいるなんて」
話の内容にざわつく玄関。受付嬢は涙で平謝り。しかし大島はやってきた人事部長にこの場を任せた。この時、静々と娘が入ってきた。
……なんか。大騒ぎだわ。それにいつもの受付さんがいないし。
今日もやってきた澪。そばの男性社員に尋ねた。
「あの。すいません。受付の人はどこですか」
「……首になったよ」
「そうなんですか?あの、ではどなたに伺えば良いですか?」
「君は」
尋ねてきた娘。粗末な着物。でも澄んだ目で自分を見上げていた。
「私。小田島の家の者です。気象部の大島さんにお会いしたいのですけど」
「君が?ああ……」
ごめんね!という気持ち。大島、娘の両腕をほんわりと抱いた。澪、びっくりした。
「あ、あの」
「……すまない本当に!僕が大島だよ」
「まあ」
「ああ、よかった。ささ。こっちにおいで?話を聞きたいんだ」
「は、はい?」
こうして澪。腕を取られて会議室にやってきた。
訳のわからない澪、麦茶を持ってきた大島に改めて頭を下げた。
「大島様。初めてお会いします。私、小田島様の身の回りの世話をしている澪と申します」
丁寧なお辞儀。可愛らしい娘の仕草。大島。見習った。
「私は大島だ。小田島の同僚で学生時代からの付き合いなんだ。そして澪さん。小田島は元気なのか」
「……はい。今は」
「今は?」
澪、今までの話をした。一気に話す内容。彼女の切迫した想いが詰まっていた。この話。大島は息を呑んだ。
「そうか。手紙も取り上げられていたんだね」
「はい。でも大島様の葉書はなんとか読めたので、旦那様に大島様に助けていただくようようお願いしたら、と言ったんですけど。どうも不義理をしたので、合わせる顔がないと」
「そうか……彼はプライドが高いからね。でもね。僕は何も気にしてないよ?」
「そうなんですか」
「ああ。彼がいなくて仕事で参ってるんだ。早く復帰して欲しいよ」
安堵する娘。うっすら目頭が濡れていた。
「小田島の家の人も……あの森下さんの言いなりで……私に助ける力はあればいいのですが、こうしてここに来るのがやっとで」
めそめそと泣き出した娘。大島、ハンカチを渡した。
……なんてことだ。この娘は命懸けで毎日ここに来ていたなんて。
恐ろしい健康食品会社。その監視を逃れて自分に助けを求めていた娘。それに気がつかなかった自分、正義感あふれる彼、胸が痛んだ。
「ごめんな。すぐに気がついてやれなくて」
「いいえ。お仕事が忙しいのに申し訳ないです」
受付嬢の嘘を信じていた娘。不安な気持ちで何度ここにきたのであろう。実際は社内にいた自分。娘の涙に誓った。
「澪さんと言ったね。僕は必ず小田島を助けるから」
「ありがとうございます」
「まずね。その森下という女性の話を聞かせてくれないか?それと、今後はね」
大島は郵便以外の方法で連絡すると言ってくれた。そしてお菓子を勧めてきたが、澪は時計を見た。
「いけない!帰らないと」
「バスかい?電車かい」
「あの、お恥ずかしいですけど。歩いてきてたんです」
「あの家から?」
小田島の屋敷を知っている大島。驚いた。そんな彼は無理矢理電車代を渡した。
「そんな?困ります」
「いいんだ。今までの交通費だよ」
そして彼女を帰した。彼は職場に戻った。
「どうだった?」
「やはり知らない娘か」
冷やかす仲間。大島は真顔だった。
「彼女は小田島の家の人でした」
「え」
驚く同僚達。大島、続けた。
「みんな。聞いてくれ。小田島のことなんだ。内密なんだが、協力してくれ」
室長の大島。気心知れた同僚二人に澪の話をした。彼らは小田島を慕うものばかり。エースの小田島の復帰を心待ちにしていた。
そして今回の澪の決死の行動に怒り、悲しみ、そして同情していた。
「事情はわかりました。して、我々は何をすれば」
「まず。その森下って女の組織を調べよう。なんでも『神水』を使い、お香を焚くらしい。他にも朝日を浴びてはならないということだ」
気象部の大島と部下の二名。この日から森下の正体を探ることになった。
それは小田島の奪還もあるが、梅雨明けの暑い中、健気にここに通った澪への謝罪もあった。
「わかりました、僕も手伝います」
「自分は警察に知り合いがいるので、ちょっと聞いてみます」
「助かる。あとは、そうだな」
大島の頭には、汗だくの澪の顔があった。
……絶対。小田島を助ける。あの娘さんのためにも。
梅雨明けの町、窓の外は夕暮れだった。大島の心のように真っ赤な夕日だった。
完
最初のコメントを投稿しよう!