国語教師の声

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国語教師の声

 教室の喧騒から逃れたくて、翔平は昼休憩に入るとすぐ多目的室へ移動した。  誰もいない、照明もついていない薄暗い空間。静寂が心を落ち着かせてくれる。  高校二年、杉本翔平は持ち歩いているスマートフォンにイヤホンを繋ぎ、MP3プレイヤー。いわゆる音声再生アプリを起動した。 『……好きです』  イヤホンから同じ音声が延々と再生され始める。  この声は以前、国語教師の波原先生との会話を録音し編集したものだった。  ──国語の授業で、花の話題が出た日のこと。  授業終わりに、翔平は教室を出ていく波原に声を掛けた。 「先生は、花だったらどんなのが好きですか。色とか、種類とか」 「そうですね……僕は、小さい花が好きですね。かすみ草とか、名前はあれですけどオオイヌノフグリとか」 「オオイヌノフグリが……何でです」 「直訳すると『大犬の陰嚢』だそうですよ」 「え……知らなかった」 「僕も昔小説で知りました。以来春地面に咲いてるのを見ると、どうしても名前のことを思い出します」  ──『好きです』。その言葉を録音したいがために、わざと好きな花の話題を振った。  学校にいると、どこにでも人がいて喧騒がつきまとう。  ……他人の声を録音なんて、よくないことは分かっているけれど。  うるさい場所が苦手な俺には、何かしら心の拠り所が必要だった。  だから波原先生の低く落ち着いた声。大好きな声を、いつでも聞ける手元に置いておきたかったのだ。 「あれ、杉本くんじゃないですか。こんなところに一人でどうしました」  ──イヤホンをしていたせいで、多目的室の戸が開いたことにすら気づかなかった。 「うわぁっ……な、波原先生っ!?」  驚いた拍子にイヤホンが膝に引っ掛かり、端子がスマホから抜け落ちる。 『……好きです』  当人の前で、大音量で流れる波原先生の声。──終わった。  恐る恐る視線を上げる。  しかし俺を見下ろす先生は……怒るでも、気持ち悪がるでもなく。ただ、不思議そうに俺のことを見ていた。 「杉本くん。聞き間違いでなければ今の……僕の声、ですよね」 「そ、それは……」 「隠さなくていいんです。ただ、事実確認をしたいだけなので」 「……はい。勝手に録音してすいませんでしたぁー!!」  観念して、翔平は深々と頭を下げた。  自分の責任は自分で取らねばならない。一体どんな処罰が下るのだろう。  波原先生に下される処罰ならどんなことでも受け入れようと、次の言葉をひたすら待つ。  ──しかし。聞こえてきたのは教師としての厳しい声でなく、口に手を当てて、押し殺すような笑い声だった。 「ふふっ……わざわざ僕の声を録音して、『好きです』だけリピートするなんて。杉本くん、そんなに僕の声が好きですか」  唖然とした翔平は、質問されて途端に我に返る。 「あ……はい、大好きです! 授業の時に教科書読む声とか、全部永久保存したいくらいで」 「ふふっ、ありがとう。──実は僕、声優を目指してたことがあるんです。でも演技がてんで駄目で、志半ばで辞めてしまいました」  初めて知る事実に、翔平は妙に納得していた。 「そう、だったんですね。……けど俺、先生のいつも通りの声が好きです。海で波の音聞いてるみたいに心が穏やかになって……って、気持ち悪いですよね。生徒にこんなこと言われたら」  またやってしまった。二度目の失敗だ。と自己嫌悪に陥る翔平に、波原はまたもや柔らかく微笑みかけた。 「生徒でも、そうでなかったとしても。……自分の一部を真っ直ぐに『好きだ』と言われて、嬉しくないわけがないんです。ただ、その録音は消してくださいね。他の人にバレたら、君にとってよろしくない状況になりかねない」 「そう……ですよね、ごめんなさい」  翔平はスマホを操作して、音声ファイルから先生の声が入ったファイルを全て消去した。  念の為、空になった画面を波原にも見せる。 「確かに、確認しました。それでは素直に謝れた翔平くんに、ご褒美をあげましょう。目を……閉じていてください」 「目を? ……こう、ですか」 「はい。そのままでいてくださいね」  真っ暗になった視界の中、先生が耳元に近づいてくる気配がする。  耳を澄ませていると。あの大好きな声が、翔平の鼓膜を心地よく揺らし始めた。 『翔平くん。僕の声を好きと言ってくれて、ありがとう。これからも国語の勉強、頑張っていきましょうね』  ──言葉の最後で、小さくリップ音がした。  触れられたわけでもないのに、頬のあたりへキスされたような感触がする。 「……もう、いいですよ」  翔平は目の前に立つ波原の顔を見た。  ……途端に頬が熱く感じられて、思わず正面から視線を逸らす。 「あの……さっきの『ちゅっ』っていうのは、一体」 「あぁ、リップ音ですか。声優学校で習ったんです。演技はダメダメだったけど、キスの演技だけはそこそこ褒められてました」 「あの……本当に俺、キスされたみたいで」 「触ってないからセーフかと思ったんですが。……駄目でしたか?」 「駄目……じゃ、なくて。その……心臓が、持ちません」  キーンコーンカーンコーン。五限開始十分前のチャイムが鳴り響く。 「昼休憩、終わってしまいますね。お互いに授業の準備に戻りましょうか」 「……あのっ、波原先生」  立ち去ろうとする彼を呼び止めた翔平は、期待と諦めを抱えて声を絞り出した。 「今度また。先生の声、耳元で聞かせてもらえませんか……?」  束の間の沈黙。翔平はギュッと目をつぶった。  足音が近づいてくる。聞こえてきた言葉は── 『……放課後、国語準備室で待ってます』  それだけ言って、波原先生は今度こそ廊下へ出ていった。  時計を見ると、既に授業開始五分前。翔平も大急ぎで教室へ戻る。 『──放課後、国語準備室で待ってる』。  自席につき、窓の外を見ながら波原の言葉を思い出す。  ……ふと、窓ガラスに映る自分の頬が赤らんでいるのに気づき、翔平は誰にもバレませんようにと、立てた教科書越しに念じるのだった。  終
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