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prologue
「大人がいない」
黒いキャスケット帽を被った少年は、片目に軽くかかった前髪を鬱陶しそうに払いながら神妙な顔付きで呟いた。
硝子細工をあしらった豪華絢爛なシャンデリアが天井からぶら下げられ、他の小さな暖色のライトと共に彼の血の気が引いた顔を煌々と照らし出していた。白と金を基調にした床は鏡代わりに使えてしまいそうなほど丁寧に磨かれている。左右に設置された螺旋階段は一段一段が己の光を放ち、部屋の中央には厳粛な雰囲気を醸し出す焦げ茶色の船の彫刻があった。エレベーターの奥にはこじんまりとしたバーがあるのが見え、大人しか近付けさせないような妖艶な空気を漂わせていた。黒いキャスケット帽を被った少年の近くにはいくつものソファが並べられ(一人掛け、二人掛け、円形、台形、背もたれ付きと大きさや形はバラバラだった)、そのどれもが上質なものであるのは素人目でも分かった。ローテーブルには名前も知らない様々な花が白い花瓶に活けられている。階段の傍には小さな滝が作られ、豪快な音を立てて大理石の水溜め(アイリスの花びらが浮かんでいる)に向かって流れ続けていたが、今はこの場に集まる者たちの騒ぎ声の方がずっと大きかった。
計二十一人の子供が集合し、誰も彼もが辺りをきょろきょろと見回しては、不安げな面持ちでやいやいと何かを言い合っていた。黒いキャスケット帽を被った少年は子供たちの顔にざっと目を通し、やはり大人と呼べる人物が存在していないことに動悸を速めた。この場所だけではない。少年たちは、自分たちに優雅な旅をもたらしてくれていた船内を数時間かけて歩き、探索したのだ。そして、船内のどこにも大人がいないことを確認していた。だからこそ彼は改めてロビーへと訪れ、奇妙な現状に愕然としていた。
「いったい何が起こっているの」
少年の隣に立っていたシャンデリアにも負けない輝きを持っている黄金色の髪を後ろに結った少女が、胸の前に持ってきた両手を握りしめながら囁いた。ロビーに居る子供たち誰もの気持ちを代弁したものとなり、黒いキャスケット帽を被った少年を挟んで反対側に立っていた目付きの悪い赤髪の少年が、侮蔑を込めながら鼻を鳴らした。
「大人がいない。今さっきオスカーが言った通りだよ」
「どうして大人がいないのかと聞いているのよ!」
黄金色の少女はヒステリックな金切り声を上げ、ソファに腰かけていた幼い少女が、その声に恐怖してわっと泣き出した。ロビーに反響する泣き声に、騒がしかった子供たちの声が波のように引いていき、全員が黄金色の少女とソファで泣いている少女を注目した。自分に注目が集まったことにより、彼女は居心地悪そうに視線をパンプスへと移した。「エリザベート、静かにしてくれ」
オスカーと呼ばれた少年は、黄金色の彼女を厳しい口調で牽制すると、弾かれたように顔を上げ、キッと目の端を吊り上げたエリザベートが「ライアンが悪いんでしょう」と反論した。ライアンはべっと舌を出し、悪戯っ子に相応しい意地の悪い笑みを顔に広げた。また子犬のような甲高い声で怒り狂いそうになったエリザベートだったが、横目にオスカーに睨まれていると気が付くと、渋々と口を閉ざした。未だにわんわんと泣きじゃくっている幼い少女は、周りに注目されることにより、一層心を掻き乱されているようだった。
少し離れた位置に立っていた眼鏡をかけた少年(オスカーたちより幾つか年上に見える)が、少女の目の前まで歩み寄ると、片膝を付いて「大丈夫だよ」と落ち着き払った大人な声色であやし始めた。子供の中の大人だとオスカーは感心しながらも、このままではいけないと冷静に頭の片隅で考えていた。
すると、こんな奇妙な状況に陥ってもなお船内を優しく包み込んでいたクラシック-グスターヴ・ホルストの組曲『惑星』 火星、戦争をもたらす者-がプツンと途切れた。街の喧騒のように当たり前に流れていた音楽が止んだことに、誰もが動揺を隠せず、四十二個の目があちらこちらに飛び交った。いくつかの囁きとため息のような息遣い。ロビーに広がる子供たちの困惑をおもむろに打ち払ったのは、船内放送から響き渡った女の笑い声だった。その声は聖母マリアの優しさも、同級生の女の子みたいな親しさも感じられない、ベアトリックス・レストレンジを想起させる邪悪なものだった。年長者の子供たちさえ身震いしてしまう笑い声に、幼い子供たちは身を寄せ合って目尻に涙を浮かべた。
オスカーは沈黙したまま、女の声が聞こえてくる天井(スピーカー)を凝視していた。
「ようこそ、アイリス・クイーン号へ!私は此度のゲームホストである<冥界を統べる女王 アデレード>だ。貴様たちにも分かるような言葉で言い換えるのなら、死神といったところか」
映画や小説の世界ならば、ここでざわめきが起こり、数多の疑問が飛び交うところだっただろうが、子供たちはあまりにも現実離れした出来事に唖然としているしかなかった。今にも泣きそうになっていた幼子も、眼鏡の少年にあやされていた少女も、ポカンと口を開けて虚空を見上げていた。
「私は世界の生きとし生けるもの総ての死をこの手に握っている。私の気分で人が死に、猫が死ぬ。貴様たちはそんな私に選ばれた、運が良い子羊だ。だが、ただ意味もなく死なせるのもつまらない。何せ私は地球が誕生し、そこに生命が生まれた何億年も前から存在している。毎日が単調で退屈で仕方がないのだ!私を愉しませるために、貴様たちは此度のゲームに招待された。実に運が良いことだぞ、感謝しろ」
豪快に笑った死神アデレードに、オスカーはあからさまな不快感を露わにして眉を顰めたが、唇はキュッと結ばれたままだった。エリザベートが彼の腕にしがみつき、小さく震えていた。
「さっそく此度のゲームを説明してやろう。年端もいかぬ子供も多いからな。分かりやすく、実に簡単なゲームにしてやった。無事に両親と共に我が家へ帰りたいのなら、このアイリス・クイーン号で最後の一人になれ。意味が分かるな、子羊たち?必要なものは用意してある。して、最後の一人になった者には、王が支配する世界へと帰還する鍵と共に、どんな願いも一つ叶えることが出来る奇跡の力を授けてやろう。なぁに、気にするな。奇跡の力はゲームを通して私を愉しませた褒美だと思うがいい」
一気にゲームの説明をし終えたアデレードは小さく息を吐きだし「それと…」と言葉を続けた。子供たちの頭は情報を処理しきれずにパンクしそうだった。中には理解することを諦めたのか、放心している者もいたが、オスカーは綿が詰め込まれたかのような思考回路を必死に回転させ、死神の台詞を脳髄へと刻み付けていた。
「いつまでも事が進まずに馴れ合いを見せられては、私もゲームを用意した意味がなくなる。よってタイムリミットを用意する。七日間だ。今日から数えて七日後に、二人以上の人間が船に残っていた場合、貴様らの負けだ。誰も生きて帰ることは出来ない!」
腹立たしい女の高笑いが子供たちの鼓膜を震わせた。オスカーは唇を噛み締め、友人の体温を衣服越しに感じていた。ちらりとライアンが彼に目配せをしたが、応えようとはしなかった。
「…それとも、協力し合い、私を探し出して、皆で王の世界へと帰るか?人間如きが、私を屈服させられるとは思わないが、其れもまた一興!さあ、私を愉しませろ!幸福で、憐れな子供たちよ!」
彼女の笑い声は次第に遠のいていき、再び船内にはクラシックが舞い戻って来た。
ロビーには、ただ現実を現実として受け止めきれない子供たちが取り残された。
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