1day

5/7
前へ
/53ページ
次へ
05.美味しい食事 一階のロビーから繋がるデッキに出ていたオスカーとエリザベートは嵐がとうに過ぎ去り、満点の星を見せる夜空をビーチチェアに腰かけて仰向いていた。その景色は船旅に出てからというもの毎晩目にしてる美しい光景だったが、今宵はより一層に二人の心を惹きつけた。それはある人によれば真っ黒なシルクの布に何万と置かれたダイヤモンドであり、またある人によれば、真っ黒に汚れた地面に落ちている埃たちだ。オスカーにはそのどちらとも見えたし、真っ黒なキャンバスにただ白い点を描き散らし、高価な値を付けられている様も想像した。 星を見上げて想いを馳せるロマンティストではないのはお互い様だったが、オスカーもエリザベートも、数分間は一切口を利かずに眺めていた。それは壮麗さが理由ではなく、アイリス・キングに乗っていた頃とまったく同じ光景が、二人を安心させたからだった。自分たちはおかしな世界に飛ばされたわけではない。九と四分の三番線なんて存在しないし、タワーを守る世界へ繋がる扉を潜ったわけでもない。ここは、自分たちのよく知っている現実世界なのだ。科学と金と権力と知性がすべてを支配する紛れもない地球。そのことを実感できるからこそ、二人は目を離したくなかったのだ。目を離したすきに死神と名乗る女が、船から大人たちを消し去ってしまったかのように、夜空から数多の星さえ奪い取ってしまいそうだったからだ。 船から放たれる眩い黄金色の光が、漆黒の絨毯の上をゆらゆらと揺れている。船は進んではいるが、かなり速度を落としているように思われた。 「オスカー、さっきは本当に驚いたわ」 星空から視線を逸らし、目を凝らしても闇しか見えない海(子供が想像する魔界のよう)を見つめ、遠慮がちにエリザベートは隣に座っているオスカーを見た。呼吸を忘れてしまったかのように星空を凝視していたオスカーも、半ば無理やり顔を正面へと向けると、彼女の方は気にも留めず大海原と対面していた。 「ついカッとなったんだ。エリザベートも同じはずだよ」 「ええ、私も頭に血が上ったわ。だけど、暴力はいけないことよ」 「友人があんなに酷い侮辱を受けても?」 『アンタが死ねばいいのよ!』というマリアの暴言を思い出したエリザベートは、怒りに頬を紅潮させたが、すっとその赤みも消え去ると、己を誤魔化す咳ばらいをした。「暴力は野蛮だわ」 オスカーと自分自身に言い聞かせるために囁いた彼女に、オスカーは何も言わなかった。ただ真っ直ぐに夜の海を見渡していた。船内の(背後から)聴こえてくるクラシックに耳を傾け、オスカーはようやく本当の意味で安静を取り戻した気がした。 「大人たちが居なくなって、実際にどれだけの時間がたったのかは分からないけど、思った以上に気が滅入ってるのかもしれない。大人がいないことだけが理由じゃない。死神とかいう変な女とおかしなゲームと…とにかく色々なことのせいで、精神的に疲れていたんだ」 カトリック信者の少女を殴りつけた右手はまだじんじんと痛み、オスカーは表情を歪めると「だから手を出してしまった」と最後に付け加えた。普段はどんなに腹立たしいことがあっても、気に食わないことがあっても、暴力で相手を屈させるような人間性ではなかった。 今まで一度も人を殴ったことがないというのは嘘である。一度目はプライマリースクールでライアンのサタニズムを理由にいじめっ子たちにからかわれた時だ。酷い騒ぎになり、学校に呼び出された両親は家に帰った後こっぴどくオスカーを𠮟りつけ、その年のクリスマスにサンタがやって来ることはなかった。二度目はほんの一年前。オスカーの態度が気に入らないという難癖を付けてきた相手と口論になり、殴り合いの喧嘩にまで発展した。しかし、その時期は夏休みであり、学校では優秀な生徒として知られていたオスカーが問題を起こしたとなればその地位は危うくなると、父が相手の家族に和解金を積んで事件をもみ消したのだ。知っているのはオスカーの家族と相手の家族、ライアンとエリザベートだけだった。 エリザベートが息を吸いこみ、言葉を発そうとしたのを遮り、背後から二人の名前を呼ぶ声がして振り返った。船内の逆光に照らされて、黒い服を身に纏った少年は不気味な存在に見えた。 「夕食が出来たから呼びに来た。ヘンリーがやけに張り切っててさ、ちょっと大変だったんだ」 軽く肩を竦めたライアンの様子はオスカーとエリザベートが居ないうちに、他の子供たちと交流を深め、距離を縮めたことを表していた。悠々とした所作で腰を上げたオスカーは星空を一瞥すると、デッキに背を向けて相手の下へと歩み寄った。エリザベートも後に続き、たったそれだけのことだったが、もう三人の関係性は元通りのようだった。 オスカーが隣にやって来るとライアンはレストランに向けて歩き出しながら「さっきはスカッとしたなぁ!」と思い出し笑いをした。デッキでオスカーにしたようにエリザベートは彼にも注意しようとしたが、どうもそんな気は失せてしまった。暴力には賛成できなかったが、清々しい気持ちになったのは彼女にも微かに覚えがあるのだ。あの瞬間、驚愕する己のとなりで「ざまあみろ!」と叫んでいる彼女も存在していた。 「そう言ってくれてよかった。キングにまでやり過ぎだって怒られたら、僕が殴ったことはただの暴力に成り下がるよ」 その発言はまるで、侮辱されたライアンが仕返しを良しとしたことにより、暴力が正義へとすり替わったかのような言い回しだった。ニヤニヤと笑っているライアンと対照的にエリザベートの顔には陰りがあった。 三人がレストランまでやって来ると、もう子供たちは決められた座席に行儀よく着席し、彼らが来るのを今か今かと待っていた。天井で揺れるシャンデリアはロビーのものには劣るが、十分に広々としたレストランを照らし、豪華な雰囲気を作り出している。純白のテーブルクロスが敷かれた机の真ん中にはアイリスの花が活けられていた。クリーム色の床はいつ見ても隅々まで磨かれ、彼らの顔を反射するのではないかと思えるほどだった。 「僕たちの席はこっちだ」とライアンが二人を案内して、料理が並べられているが、空席となっている真ん中の席に足を運んだ。クリームシチューとサラダ、バケットが三つの席の前に並べられ、水の注がれたガラスコップと水差しも置いてあった。オスカーは自分の座席を引いてから子供たちをぐるりと見回し「遅くなってごめん」と一言謝罪をした。三人が席に着いたのを確認すると、ヘンリーが小さく咳払いしてから声を張り上げた。 「今日も神の恵みに感謝していただこう!」 それが食事開始の合図になり、多くの子供たちが一斉に料理にがっつき始めた。一日中船を歩き回り、すっかりと疲れてしまっていたが、何よりも空腹が勝っていた。とくに芳ばしいパンの香りとクリームシチューの優しい匂いがオスカー達の腹の虫を騒がせたが、オスカーは他の子供のように手を動かすことはなく、目を閉じてじっとしていた。料理を食べずにただ座っているだけなのはエリザベートも同じだった。三人の席で唯一行動を起こしたのはライアンだけだったが、彼も料理を食べるのではなく、胸元に下げていた逆十字の飾りを取り、握りしめながら瞼を下ろし、ぶつぶつとお祈りを捧げ始めた。ミガ様へのお祈りだ。サタニズムの少年がお祈りをするときは、終わるまで静かに待っているのが親友の間での暗黙の了解となっていた。いつもならオスカーもエリザベート同様に料理を俯瞰しながら待っているのだが、視界の隅にマリアがロザリオを持ってお祈りをしている姿が映ったため、不愉快な気分を抑え込めようと静かに目を閉じていたのだ。 数分ほどしてライアンがお祈りを終えると、瞼を上げて飾りを元の位置に戻した。同じように目を開けたオスカーが、もういい?と友人に目配せした。彼がコクリと頷き返したのを見て、エリザベートがカトラリーを利き手に掴んだが、オスカーはまだ料理を食べようとはせずに、腰を浮かせて食事を楽しむ子供たちを見回した。彼の唐突な行動にエリザベートとライアンはキョトンとして相手を仰向いた。 「みんな、聞いてくれ」 誰もが無意識下でこの船のリーダーだと決めている少年の発言に、子供たちは食べる手を休めると(小さい子の何人かはもごもごと口を動かしていた)、カトリック信者の少女を殴りつけたという事実を踏まえて畏敬の眼差しを注いだ。 「今日はみんな疲れているだろうし、ご飯のあとには自分たちの部屋に帰って休んでもらっていい。ただ明日の朝には、朝ごはんを食べて、それから会議を開くべきだと思うんだ」 子供たちはざわざわと騒がしくなったが、厳粛な佇まいで立っているオスカーに委縮し、次第に会話の波は引いていった。ずっと被っていたキャスケット帽を脱いだオスカーは、癖の付いた髪を乱雑に梳かした。子供たちは意味があるのかも分からないその行動を静かに見守っていた。 「僕たちはいくつかのチームに別れて、それぞれの役割を果たさなければならない。そうやって上手く回さないと、時間がないんだ。アデレードが死神か人間かは今は置いておくとして、タイムリミットの七日間と言うのは本当だと考えてる」 ヘンリーがすっと片手を上げ、次に彼に注目が集まった。オスカーは年長者の彼の行動を素晴らしいと感心した。 「こうやってみんなで話をするときは、ヘンリーみたいに手を挙げるんだ。学校と同じだ。何せ二十一人もの子供が居るんだから、一斉に話されても僕には聞き取れないよ。だから発言したい人は手を挙げて、いい?何人かが同時に挙げた時は、その時に発言している人-今の場合は僕だ、が、発言を許可する相手を指定する。それに従うように。そうやって賢く話し合いをしよう」 マリアを殴りつけたとは思えない利口な少年の提案に、子供たちは尊敬を持って彼と対峙していた。ライアンとエリザベートも、学校の監督生として見せる彼の威厳ある姿勢は、やはり嘘偽りなく、こうした緊急事態で最も役にたち、頼りになる人物だと感動した。「それで、ヘンリー?どうしたの」 リーダーの少年がヘンリーに視線を投げかけると、子供たちは再び一斉に眼鏡を持った更に英明そうな少年を注視した。 「アデレードが人間であっても死神であっても、彼女は七日後には僕たちを殺害するということだね?」 「そういうことだよ。だから、僕たちには時間がないんだ」 「殺し合いはしない。なら僕たちは七日間、いや、あと六日間でアデレードを船から見つけなければならない。あと六日もあるなんて言ってられない。広大な場所を六日かけて探すのと、狭い場所を六日間何度も探すのと、どちらが難しいんだろうか?僕たちは毎日同じ船をぐるぐると探索し続け、アデレードを見つけなければならない。何度も見た場所を、何度も探すんだ。でも、僕たちが生き残る術はそれしかない」 「ヘンリーの言う通りだよ。僕たちは殺し合いをしたりしない。協力し合うんだ。アデレードをみんなで見つけて、おかしなゲームをやめさせよう!」 声を上げたオスカーはさながら革命軍のリーダーといった具合だった。子供たちは彼の勇ましい姿に触発され、雄叫びを発したり、口笛を吹いたり、拍手をしたりして賛同を露わにしたが、そうやって周りと同調しながらも、どこか不満げな顔をしている者も数人は居る。二十一人もの子供が集まれば、立派なグループ(集団)であるのだから仕方がないことだった。何も殺し合いを望むわけではないが、七日後までにアデレードが見つけられなかったら?他にも策は必要なのでは?もしもアデレードが本当に死神なら?という不安や疑問によって生まれる反発心だった。オスカーは何人かの子供のそんな表情を見逃さなかったが、一先ずは反論する者がいないことにホッとした。 「とりあえず、明日は会議でチーム分けだ。それを念頭に置いておくように。どんなチームを作るかは明日の朝までに僕が考えておくよ」 歓声が止んだ後に、オスカーは今や僕がリーダーだと顔に書かれた様子で周りを見回すと「食事中に聞いてくれてありがとう」と最後に優雅に一礼し、着席した。子供たちは食事を再開しようとはせずに、オスカーが動き出すのを待っていた。まるで彼が主賓である晩餐会のようだった。誰もが自分の次の行動を気にかけている状況は、オスカーを優越感に浸らせ、実に愉快にさせた。カトラリーを手に取り、クリームシチューを掬って口へ運ぶ。蕩けるような味わいに「美味しい」と彼が頬を緩めると、他の子供たちは食事を再開した。 ほんの一日で生まれた船内の子供たちの関係地に、ライアンは目を据わらせていた。そんな友人を横目に留めたエリザベートは、三人の間に影が忍び寄っているような、不穏な空気を敏感に嗅ぎ取っていた。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加