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春。
雪が消えた森では、動物も虫も活発に生活を始める。
鹿たちは小さな仔鹿を草むらに隠して、萌えはじめた下草や灌木の新芽を夢中で食べ、冬ごもりから覚めた母熊は子熊たちを連れて森の深部へ戻ってゆく。
蟻の女王は雄を引き連れて大空へ結婚飛行に出発するし、蝶や蜂は蜜を集めに大忙しで飛び回る。
まるでそれ自体が身震いしているように、春の森の蠕動はにぎやかなのだ。
農作業に人手が取られるということもあるが、雪解けから桜が散るまで、このあたりは禁猟区になる。
生まれた仔たちは次の世代への大切な架け橋になる存在と位置づけられ、その親たちもひっくるめて保護の対象となるためだ。
禁猟期間の間は、森で罠を仕掛けることも、矢を放って鳥を獲ることも厳しく禁じられている。
それは代々、集落の掟として小さな子供ですら遵守してきた。
ところが、この春は前年の作物の不作で十分な食糧を確保できなかった幾人かの住人が、禁忌とされる罠を禁猟区に仕掛けたのだ。
森で山菜を取っていたうたは、ある日、罠にかかった若い狼を見つけた。
罠は大型の動物を狙った仕掛けで、足を挟まれた動物が暴れると糸が切れ、毒を塗った矢じりが刺さってとどめを刺すという残酷なモノだった。
狼は後ろ脚を射抜かれ、死に瀕した荒い呼吸をしながらも、罠から逃れようとめちゃくちゃに暴れていた
「許してくれな」
うたが近づくと、狼はさらに凶暴に荒れ狂い、悲痛な声を上げて罠を引きずって逃げようとした。
「手当をさせてくれ、許してくれな」
うたは手早く持っていた麻袋を狼の頭に被せ、罠をほどいて狼を自由にした。
それからうたは、視界を奪われ観念したのか、大人しくなった狼を引きずるように小屋まで運んだ。
傷を切開して薬湯で洗ったあと、毒を吸い出してくれるミズヒルと一緒に布で巻いて手当した。
手当の間、狼は唸り続けていたが、うたを攻撃してくることはなかった。
「これでよし」
囲炉裏のそばに布を敷いて狼を寝かせ、うたは土間に下りて解毒の湿布を作るため薬草を摺りはじめた。
「……う」
夜が更け、囲炉裏の火がおおかた灰になった頃、うたは誰かの声がした気がして振り返った。
囲炉裏端に寝かせた狼が消えていた。
代わりに現れた奇妙な姿の青年は、鋭い眼でうたの小さな小屋を見回し、ミズヒルと布で手当てされた足の傷と呆然としているうたの顔を順にみくらべ、うたが敵なのか味方なのか判断が付きかねているようだった。
青年は集落の誰にも似ていない金色の髪と赤い瞳をしており、肌には胸からはじまって腹、背中側は貝殻骨から尾てい骨にいたるまで、子どもの落書きじみた大胆な筆致で奇妙な紋様が刻み込まれている。
「あんた、あやかしだったの……」
そう訊かれても、アカメは答えることができなかった。
自分が時々、人間の姿になることは知っていたが、それがなぜなのかはわからなかったし、自分をあやかしだと思ったことはなかったから。
アカメを育ててくれた父狼も母狼も、兄弟分の狼たちもアカメを仲間として受け入れてくれ、今日まで群れの一員として生きて来た。
答えあぐねているアカメをさして怖れるふうでもなく、うたは近づいてきた。
「あたしはうた。おまえ、名前は?」
人の姿になることがある、というだけで、アカメにとって人間は罠を仕掛け、毒矢を射る厄介な森の闖入者に変わりはない。
それでもうたは命を救ってくれた恩人だ。
アカメは迷った末、答えた。
「アカメ」
「アカメ……ぴったりの名ね」
うたはアカメの緋色の瞳をじっと見てそう言ったあと、また詫びた。
「禁猟区で罠を使った猟師はあたしの村の者だった。去年、十分な作物がとれなくて家族が飢えてゆくのを見かねて密猟していたの」
なぜうたが謝るのか、アカメはわからなかった。
森の獲物が減れば、狼たちは人や人が飼っている動物を襲う。
食べなければ弱り、生き延びることは出来ない。
養うべき群れがいるならなおさら、食糧を得るのは重要なことだろう。
「なぜ、助けた?」
「それは……」
うたは困った顔をして、結局答えなかった。
そのかわり、解毒の薬草を摺りまぜた軟膏で傷口を湿布してくれ、優しい声で歌ってくれた。
3日ほどで、アカメは再び立ち上がることが出来るようになった。
「よかった。これで森へ帰れるわね」
喜んでくれるうたの笑顔。アカメはゆっくりと尻尾を振って応えた。
「森には仲間がいるのでしょう? きっと心配して待ってるわ」
「うたの仲間は?」
うたの腕は細く、体は薄く、声は小さい。
アカメは一人ぼっちのうたが心配だった。
「あたしはずっと一人で暮らしてきたんだから大丈夫。夏に向けて村の手伝いや薬草の栽培の仕事もあるし」
森で獲れるわずかな山菜や薬草、ツルを編んでこさえる生活用具を売ってうたは暮らしていた。
「世話になった」
別れ際、アカメは大きな舌でベロンとうたの顔を一舐めした。
うたは金色の背中が下草を分け進み、やがて見えなくなるまで見送って、ほっと息をついたのだった。
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