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3
「アカメ?」
急に体を起こしたアカメを見て、うたはきょとんとした顔をした。
「弥一がくる」
人の姿になったアカメは、獣道をやってくる足音に耳をすませてそう呟いた。
ややして、小屋の引き戸をガタつかせて、弥一が顔をのぞかせた。
「うた、少し薬をわけてくれないかな。お母の咳がとまらなくて……」
そう言いながら土間へ下ろしたのは薪の束と、丸まる肥えたキジバトとウサギだった。
「アカメも来てたのか」
「ああ」
久しぶりに会うアカメに笑顔を見せる。
山歩きで鍛えられた厚みのある隆々とした身体の上に、日焼けした人当たりのよい丸顔が乗っている。
弥一は村に小さい田畑を持っているが、本業は森でおもにウサギや鹿を狩る猟師だった。
アカメも何度か森で弥一を見掛けたことがある。
子連れの鹿やヒナを育てている山鳥は狩らないし、臆病なほど用心深く風向きが変わっただけでも狩りを中止するほど慎重な狩人ゆえに獲れ高は少ないが、その手腕にアカメは一目置いていた。
「これ、咳がひどいときに蒸して蒸気を吸うとおさまるよ。こっちは煮だして寝る前に飲むといい」
うたは数種類の薬草を束にまとめて弥一に差し出した。
「いつもありがとうな、うた」
弥一は押し頂くようにして、薬を受け取り頭を下げた。
「弥一だって、獲物を分けてくれるじゃない。助かってるのよ、とても」
そう言って、うたはにっこりした。
「そか、そりゃよかった」
弥一は受け取った薬を左から右、右から左と持ち替えながらぎこちなく笑った。
言いたい事が喉につかえてるみたいに、どぎまぎと視線を巡らせて、そっとうたの顔を見る。
「どうしたの、弥一」
小首をかしげるうたに、弥一はいよいよ顔を赤らめた。
ようよう息を整えて、思い切ったように一気にしゃべった。
「うた、あのな、おれ、もみじ谷に行くことになった」
「もみじ谷?」
「ああ、ギザ十が今年ももみじ谷へ戻ってきてるんだ」
その言葉に、アカメは顔を上げた。
もみじ谷のギザ十は、このあたり一帯の山を縄張りにしている灰色のヒグマだ。
他の熊のように冬眠せず鹿や狐、狼を捕食する気性の荒い雄で、厳冬期には食べる物を求めて集落に降りてくることもあった。
そのため、ギザ十討伐は森の周辺で生活するすべての住人の悲願であり、猟師たちが一種憧れと畏怖を抱いてその姿を追い求める存在でもあった。
「それでな、うた」
「うん?」
「ギザ十をもし、討ち取れたらな」
「うん」
「そのな」
頭をかきながら弥一は視線をめぐらせ、囲炉裏のそばのアカメの存在を急に意識して唾を飲み込んだ。
「と、とにかく。ギザ十を討ち取ったら、うたに話がある」
言い捨てるように一息に言い切って、弥一はうたの返事も待たず、小屋を飛び出して行った。
「弥一? 慌てて……。どうしたんだか」
と振り返った囲炉裏端に、アカメの姿もなかった。
うたはますます煙に巻かれたような心境だった。
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