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 うたの小屋から、群れのいる峠を目指して、アカメは急ぎ足で駆け続けた。  途中、赤松に囲まれた淵で水を飲もうと立ち止まりかけた時、折り重なった倒木の向こうに獣のたてる息遣いを感知して、アカメはギクリと動きを止めた。  距離はだいぶ離れているが、たしかに張り詰めた気配が感じられる。  アカメは鼻先を上げて、空気の流れを感じようとした。  森の中では臆病でなければならない。  どんな些細な違和感も見逃せば命とりだ。  そして、この重圧に似た濃い肉食獣のにおいは、間違いようもなくヒグマの体臭だ。   ギザ十でなくとも、秋深まるこの季節、冬ごもり前のヒグマは食欲旺盛、木の実やキノコ、鹿やウサギを捕食して脂肪を蓄える。  食べるために狼を襲うことは滅多にないが、単独で渡り合えば敵う相手ではない。  アカメは足音を立てずに水場を離れ、そっとその場を立ち去ろうとした。 「!!」  まったくの不意打ちに、目の前の藪から灰色のヒグマが巨体を揺らして転がり出てきた。  激しい闘争心、それを支える屈強な筋肉と骨格、経年の練磨をうかがわせる傷だらけの大きな顔、鋭利なかぎ爪を蓄えた掌は分厚くてたくましい。  咆哮は地鳴りのようにビリビリと木々を震わせ、仁王立ちになったその姿は、まさに森で最大最強の肉食動物だった。  倒木の向こうの気配に気を取られ過ぎていたアカメは、ギザ十が藪伝いに接近してきていたのに、気づくのが遅れたのだ。  とっさに身を伏せて、一打めの剛腕はよけたが、続いて振り下ろされたもう片方の前足がまともに肩口に当たった。  頭から地面を転がり、体を起こそうとしたアカメの背中をギザ十の後ろ脚が押さえつける。  肺から空気が押し出される。頭のすぐ後ろにむき出しになったギザ十の牙を感じて、全身の毛が逆立った。  これまでか、と思った瞬間。  どうっ! とギザ十の体が揺れた。  何かが大胆にもギザ十の背中に体当たりをしたらしい。  木立の間を駆け抜けて、灰色の塊がつぎつぎとギザ十の尻や後ろ足に喰らいついてゆく。   「アカメ、無事か」 「ザザ、助かった」  周りを狼の群れに囲まれ、さらに怒り心頭のギザ十のおろそかになった足下からもがき出て、アカメは兄狼に礼を言った。 「よし、引き上げるぞ、今戦っても勝ち目はない、戻れ」  ザザの一声で、ギザ十に食いついていた仲間が一斉に身を翻して森奥へ逃げ込んだ。 「リン、お前も来い!」  最後に残ったのは、昨年の夏に生まれた若い、というよりまだ幼いような末の世代の狼だった。  リンは怖い物しらずの無鉄砲なところがあり、今もザザの指示に従わずギザ十に吠えかかっている。 「正面はダメだ、リン!!」 「回り込め、前に立つな」    ザザとアカメは同時に叫んだ。  リンを止めに飛び出そうとしたアカメの横腹にザザが体当たりしてとめた。 「ザザ!?」 「よせ」   一瞬の出来事だった。  体躯に見合わぬ敏捷さで振り返ったギザ十の一撃を、リンはまともに喰らった。 「ぎゃん」  血飛沫が弧を描く。  誰も動けなかった。  次の瞬間、どっと横倒しになったリンには頭がなかった。 「リン!!」 「もうだめだ、アカメ、行くぞ」    ザザに首を噛まれ、引きずられるようにアカメはその場を後にした。  その視界の中、ギザ十がゆっくりとリンに覆い被さってゆくのが見えた。
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