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 弥一は村の中ほどにある家の土間で、狩りに使う道具の手入れをしていた。  猟師だった父親から譲り受けた銃が一丁、山刀、胡桃の柄に鉄製の穂先を装着した熊槍、散弾は溶かした鉛を型に流し込んで造る。  慣れた手付きで作業をしながら、弥一の思いはもみじ谷に飛んでいた。  もみじ谷は弥一の住む集落からは尾根を一つ越えてすこし下ったあたりの一帯で、斜面がなだらかで谷底が平たく、見通しがよいうえ、渓流の幅がせまいので移動がたやすい。  つまり標的を狙いやすく撃ち取った獲物の回収が楽なので、複数の集落の猟師が獲物を求めてもみじ谷にやってくるほど人気の狩場だった。  そのもみじ谷のほど近い森にギザ十が出没するようになって、三年。  ギザ十は手当たり次第に動くモノを襲い、植物といわず動物と言わす食い尽くしてしまう大食漢で、もう何人もの村人や猟師が犠牲になっていた。  年々、老獪で凶暴になってゆくギザ十は、まぎれもなく脅威であり、言葉を解さぬ森の暴君であった。  なんとしても雪が来る前に、弥一はギザ十を討ち取りたかった。 「弥一、いるか」  表から声が掛かった。  聞き覚えのある声だった。 「?」  弥一は立ち上がって戸を引き開けた。  外はもう夜の闇に浸っている。 「誰だ?」 「オレだ」 「アカメ?」    中空に浮かぶ月は、怖いほど大きかった。  冷涼な月光があたりを冷たく照らしている。  アカメは家の脇に立つ桜の古木の下に、ひっそりと佇んでいた。 「どうした? 珍しいな」  アカメが村の中まで足を踏み入れているところを見たのは初めてだった。  うたはいくら尋ねてもアカメとどこで知り合ったのか、弥一には話してくれない。  金色の髪と赤い瞳。  狐の皮の襟巻がついた、錆色の長套を着て、胸と腕には見たことのない彫り物が入っている。  異国の旅人が森へ迷い込んで棲み付いたのかと、村で噂になった時も、うたは困った顔をしてるばかりで何も語らなかった。  森で獲ったキノコや川魚、ウサギなどをもってうたを訪ねてくるアカメと、弥一は時々顔を合わせることがあった。  物静かな男だが、時折見せる眼差しの鋭さや、振る舞いの隙の無さに、森で出会う獣たちと共通の用心深さを感じることがあった。 「どうした? 入れよ」  弥一が勧めても、アカメはかすかに頭を振った。 「なんか用だったか?」  重ねて訊く弥一に、 「明日、もみじ谷の西の斜面に、俺の仲間がギザ十を追い込む。弥一、討てるか?」 「あ、ああ。アカメの仲間も猟師か? 巻き狩り猟やんのか?」  巻き狩り猟は仲間で役割を分担し、追い立てられた獲物を撃ち手が仕留める猟の方法だ。  しかし、またもアカメは頭を振った。 「明日の正午。弥一、一人で来い」  それだけ言って、アカメは身を翻した  長い錆色の布端が軌跡を描き、次の瞬間には闇に沈んで見えなくなった。 「正午……か」  弥一は口の中で呟いた。  ふと、夜風に血が匂った気がした。 「アカメ」  「スイ……どうした?」  群れのいる峠近くの岩場で、スイが待っていた。  ほとんど黒に近い暗灰色の毛並みが艶やかに月の光を反射して、眩しい。  スイは濡れた鼻先をアカメの胸に押し付けて挨拶した。 「遅かったな」 「用があった」  大きな耳と丈夫な足腰をしたスイは、アカメと同じ年に生まれた狼の中で唯一、父母が手元に残した娘だった。  将来は群れの中から番を選び、群れを率いる存在になる。 「また『うた』か?」 「いや。弥一……猟師の男に会ってきた」 「なぜ」 「共にギザ十を倒す」  スイは黙った。  ギザ十に喰われたリンを、アカメが可愛がっていたことを知っていたからだ。  これ以上、群れから犠牲を出すことに、アカメは耐えられないだろう。  それでもスイは言わずにいられなかった。   「猟師は仲間も殺す」 「俺たちも人を襲う」    アカメは黙ってしまったスイの顔を大きな舌で舐めた。  スイが心配するのも無理はない。  鉄砲を持って森に来る猟師は、ギザ十の何倍も危険だ。  弥一は違う、とはアカメにだって言い切れない。  群れを危険にさらす事に変わりはないのだ。  スイは不安を紛らわすようにアカメの胸に顔を擦り付けた。  その温もりを受け止めながら、アカメは梢の向こうの黄金の月を見上げた。
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