1人が本棚に入れています
本棚に追加
この正倉院展の目玉とも言える平(へい)螺鈿(らでん)背(はいの)円(えん)鏡(きょう)を前にして、衣鶴はため息をつくように言った。なるほど、そういう考えかたもあるのか。感心しながらも、言葉にはせず「ああ」と気の無い返事だけ返した。
「なに? 遅れたことまだ怒ってるの?」
「別に」
衣鶴から視線をそらし、彼女が持っているバッグの紐を握りしめている少年に目をやる。口を真一文字に結び、下を向いているが、時々耐え切れなくなったように、母親の横顔を見つめていた。
「謝ったじゃん」
「だから、もうそれはいいって。大丈夫だから」
「あっそ」
まったく納得していなさそうな顔をしていたが、面倒なので無視した。今はそれどころではない。なんとかして、未来を変えなくてはならない。だが、どうすれば良いのか、まったく見当すらつかなかった。
人ごみの中、少年の身体を何人もの人間が通り抜けていく。誰も、彼の存在に気が付いていない。一番近くにいる、衣鶴でさえも。
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
見ていられなくなり、栄次はその場から逃げるように立ち去った。
「いってらっしゃい」
最初のコメントを投稿しよう!