300から66への手紙

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 この正倉院展の目玉とも言える平(へい)螺鈿(らでん)背(はいの)円(えん)鏡(きょう)を前にして、衣鶴はため息をつくように言った。なるほど、そういう考えかたもあるのか。感心しながらも、言葉にはせず「ああ」と気の無い返事だけ返した。 「なに? 遅れたことまだ怒ってるの?」 「別に」  衣鶴から視線をそらし、彼女が持っているバッグの紐を握りしめている少年に目をやる。口を真一文字に結び、下を向いているが、時々耐え切れなくなったように、母親の横顔を見つめていた。 「謝ったじゃん」 「だから、もうそれはいいって。大丈夫だから」 「あっそ」  まったく納得していなさそうな顔をしていたが、面倒なので無視した。今はそれどころではない。なんとかして、未来を変えなくてはならない。だが、どうすれば良いのか、まったく見当すらつかなかった。  人ごみの中、少年の身体を何人もの人間が通り抜けていく。誰も、彼の存在に気が付いていない。一番近くにいる、衣鶴でさえも。 「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」  見ていられなくなり、栄次はその場から逃げるように立ち去った。 「いってらっしゃい」
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