1/1
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ

 朝、ケージでラットが一匹死んでいた。安中忠義は、サージカル手袋を着けた手で死骸を検めて、外傷がないのを確認すると、部下の澄田に、解剖して調べるように指示した。  食餌調整して人為的に動脈硬化を引き起こしたラットたち。あと九十九匹は丸々と太り、ケージで歩いたり、休んだりしている。蛍光灯色の光で、ラットの毛の茶色が際立つ。リノリウムの床が安中たちの影を映していた。  澄田が解剖結果を報告に来たのは昼前だった。脳内出血だった。眼鏡を指先で直しながらレポートを読み上げる彼女は、入社二年目の新人研究員だが、よく頑張っている。 「新薬の副反応でしょうか」  と彼女に訊かれて、そうとは言い切れないだろう、と安中は呟く。研究している抗血小板剤、つまり血液を固まりにくくサラサラにする薬は、止血しにくくするから大出血になる危険性が元々ある。 「動脈硬化にしているから、血管自体が老化していた可能性もあるしね。百匹のうち一匹では、副反応とは断言できないだろ」 「次はどうしますか?」 「成分を0.002ミリグラム下げてやってみよう……すまないが、今日は私用でこれで上がらせてもらうよ」  わかりました、と答える澄田の口調に、ため息が混じっていないか、安中は気になった。  試験棟を出てオフィスへと向かう。工場を横切るのが近道だ。安中が勤務している研究所は、アカツキ製薬の創薬研究部門で、工場に併設されている。工場は増築に次ぐ増築で、試験棟は工場建屋の隙間に配置されているため、研究所の各棟の間を移動する時は、工場を横切った方が便利だった。  広い廊下の向こうから、頭の上から足の先まで白衣で覆われた従業員が、電動作業車を操作しながら近づいてきた。安中さん、と声をかけられて、後輩の製造部課長であることに気づく。課長自ら材料を運んでいるのか、よほど人が足りないらしい。 「忙しそうだな、元気か」 「安中さんこそ毎晩遅いですよね。所長のところですか? 呼び出し?」 「いや、午後から私用で出るから」 「こっちは、中間品の検査表が二週間分溜まっているんで、片づけですわ」  笑いながら去っていく。おい、検査表を毎日つけていないのか。背中にそう言いたくなったが、厄介事に首をつっこむ暇はない。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!