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16
診察室が並ぶ廊下の壁に背中を当てて、安中は考えようとしたが、頭が真っ白になったかのように、何も考えられない。暗い廊下の端に人が歩く気配を感じるだけだった。
妹が、鳴美が死ぬ、死ぬ、死ぬ……このまま手術しなければ死ぬ。その医師の言葉が全く頭に入ってこない。放置しても、自然治癒するんじゃないか。
カテーテル手術をすれば命は助かる。でも麻痺は残る。右半身麻痺。どのくらい麻痺が残るのか。歩けるようになるのか。右手の動きが悪いくらいなのか。リハビリすれば日常生活できるようになるのか。一生車いすとか。
「死なせて」
妹の声がした。何もわからなくなったら、兄ちゃんの負担になるなら、死なせて欲しい、と言っていた。今が、その決断をすべき時じゃないのか。手術しないと医師に言えば、意識不明のまま妹は息絶える。その方が、妹にとっては幸せではないのか?
手術が成功しても半身不随の体になれば、車いす生活になり、仕事もできなければ、日常生活も人の世話にならなくてはならない。そんな自分に、プライドの高い妹が我慢できるだろうか。
いや、そんな妹を支えるのは俺しかいない。俺は、身体障碍者の妹を一生介護していくことができるか、仕事をしながら。無理だ、そんなこと無理だ。
「あのう……」
いつの間にか看護師が近づいて、安中に声をかけてきた。
「決まりましたか? 先生がお待ちです」
「もう少し待って下さい。連絡したい先とつながらないので」
「いつ、つながるんですか? 刻一刻と悪化しているんですが……」
「もう少しだけ、お願いします!」
思わず声を荒げた安中から、看護師はそっと離れた。安中はスマホをかけるフリをする。本当は、どこにも相談できる相手なんていない。妹の死を願うなんて、誰にも言えない。手術するかどうか、なんて迷うことじゃない。それが常識の世界。でも、俺らは常識の世界では生きてこられなかった。
安中は広い宇宙でたった一人だった。たった一人で、助言も参考情報もなく、調べることもできないまま、二人の人生を決める決断をしなくてはならなかった。
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