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(九)
どこまでも高く広がる空が、視界の端の方から少しずつ橙色に染まっていった。俺は砂利だらけの地面に横たわったまま暮れゆく空を眺めた。
首から下の感覚がない。かつて味わった悪夢が蘇り、絶望という二文字が浮かんでは消えた。俺が知るその症例は腰椎圧迫骨折。過去にそんな大怪我を負い、長い治療を経て日常生活に復帰したのはそう遠い昔の話ではなかった。
しかもいまだに体調を崩すと重く鈍い患部の痛みと、下半身の痺れを伴う苦しみに付きまとわれている。その時と同じ怪我ならば今度こそ再起不能かもしれない。その恐怖感に圧し潰されそうだった。
さっきまで聞こえていたシオンの叫び声はいつの間にかやんでいた。俺はゆっくりと頭を動かしてたった今、俺を跳ね飛ばしたバンのテールランプを目で追った。
運転席のドアは開いたままで、スライドドアから乗り込もうとする芝山の姿が見えた。後ろの窓ガラスには黒いフィルムが貼られている為、車内の様子は見えないが、シオンが必死に抵抗している気配だけは感じ取れた。しかしその努力虚しく、程なくして芝山に羽交い絞めにされたシオンの身体が強引に引きずり降ろされた。
芝山の右手には大振りな山刀が握られていた。その刃先がシオンの首筋に食い込み、うっすらと血が滲んでいる。芝山はシオンを背後から引きずるようにして、こちらに近付いてきた。
「テメエ、離せよ――」
そうシオンが反抗的にあらがう度に鋭い刃先が喉に食い込み、血の筋が伝った。芝山はまるで動じる事なく深い底なし沼のような目で俺を見つめた。その陰湿な目は確かに、かつて凶悪連続強盗殺人犯として全国に指名手配された顔写真の目と重なった。
「まるでデジャブだな――」そう言って悪魔が笑った。
俺は目で芝山芳樹、いや、以前は福建マフィア・劉鵬飛の名を騙り、それよりも前は中国残留孤児二世グループの伝説的人物として名を馳せた孔健を睨みつけた。
長い間、待ちに待った再会の瞬間――。それがまさかこんなに無様な形になるとは思いもよらなかった。しかしそれでも俺はできるだけ威厳を保って訊いた。
「どう言う意味だ?」
「だってそうだろ。これじゃまるで、あの時と同じじゃないか」
あの時と同じ――。それはつまり十五年前の呼野の農道で轢かれた若い警察官の事を指しているのか。
孔健は口の端に品のない笑みを浮かべた。
「新橋に来てからずっと――、あんたは俺の正体に騙されてきたけどな。そっちもたいしたもんだ。俺もあんたの正体には気が付かなかった」
シオンは孔健の腕から逃れようともがき苦しみながら一瞬だけ俺の顔を盗み見た。
「何を言ってる――」
「ついさっきまで――、あんたが昔の農道の事件の話を持ち出すまでは、さすがの俺も気が付かなかった」
俺は必死にもがき、言う事を聞かない身体をどやしつけた。
「あの意気地なしで、いつまでも女みてえな声で痛いよ痛いよってすすり泣いてた情けない警官がよ、まさか十数年後に新橋で探偵になっていたとはな」
遠くから断続的に金属を打ち付ける音とブルドーザーのアクセルを目一杯踏み込む甲高い排気音が聞こえてきた。
「そうだろ。福岡県警小倉署・呼野交番勤務、浅田慎也巡査長――。ずいぶん久しぶりだな」
俺は両手に力を込めて上半身を起こそうとした。悪魔は不敵に笑い、シオンは怒りとも悲しみとも取れる目で俺を見つめている。
「俺たちはお前の制服を着て、お前の警察手帳を見せて被害者宅に潜入した。そしてお前の拳銃を使って奴らを撃ち殺し、金を奪ったんだ。だから言わばお前も共犯だ。それなのにお前にだけ、これまで一銭も分け前をやらなくてすまなかったな」
そう言って孔健は高らかに笑い声をあげた。その横顔には混じり気のない邪悪さだけが宿っていた。
あの時――、俺は自分の未熟さゆえ大勢の命が奪われたその事実に耐えられず自ら命を絶とうとした。しかし警察官舎管理人の発見が早かった為、救急病院に運ばれて一命を取り留めた。それでも俺はもう警察官として職務に戻れる精神状態にはなく、そのまま辞表を提出した。
その後はひたすら劉鵬飛への復讐だけに取り憑かれた。その目的の為に怪我の治療に専念し、拷問のようなリハビリに耐え、車椅子生活から脱却して健常者として日常生活ができるようになるまで回復した。
そして血の池に垂らされた細い蜘蛛の糸のような芝山の足跡を見付け、新橋にやってきたのだ。
事件当時、俺の名は被害者として新聞に掲載された。だから芝山の経営する楽器店のすぐそばで探偵を開業するにあたり、偽名が必要だった。
そこで俺は高校時代、ボクシング部でライバルだった親友、故・石橋耕平の名を借りたのだ。それ以外の選択肢など思いつかなかった。
今、目の前にいる孔健は倒れたまま一歩も動けずにいる俺を見下し、嘲け笑っていたが、急に興味をなくしたように表情を一変させ、シオンを引きずりながら暗い倉庫の中へと向かった。
その目的は明白だ。中で拘束されている弟の孔琳を助け出しに行くのだ。
彼らは純然たる日本人でもなければもちろん中国人でもない――。歴史によってその存在すら否定された中国残留孤児邦人の兄弟である。その血の結束は理屈ではないのだろう。
シオンは引きずられながらも必死に両足を踏ん張り、孔健の腕から逃れるようと抵抗した。しかし業を煮やした孔健の山刀の柄で頭を強く殴られ、膝から力が抜けたように見えた。そのままシオンは抱きかかえられ、二人のシルエットは倉庫の奥へと吸い込まれて行った。
俺は必死で戦い、抗い、麻痺した身体にメッセージを送った。
頼む、今この瞬間だけでいい。後は一生動けなくても構わない。だから神よ――、今だけ力をくれ。
芝山はシオンの身体を古紙ブロックの前に投げ出すと、ここまで音が聞こえるほど強く頬を張り、そこを動くなと命じた。そして山刀で孔琳の腕と足首のロープを切断し、次に顔を覆う黒い布袋の紐を緩めようとしたその時、倉庫内に猛獣の咆哮のような怒声が響き渡った。それと同時に孔健が足を抱えて横向きに倒れた。
すかさず立ち上がったシオンはこちらに向かって来たが、先ほど殴られたダメージがまだ残っているのか足元が覚束ない。その手にはさっきまで孔健の手にあった山刀が掴られていた。つまりシオンは一瞬の隙をついて孔健の山刀を奪い、無謀にも反撃に出たのだ。
しかし間髪入れず、自ら頭の黒い布袋を剥ぎ取った弟の孔琳が阿修羅のような形相を浮かべて駆け出し、逃げようとするシオンの背中に素早く追い縋った。そして左腕と髪の毛を鷲掴みにしてシオンを引きずり倒すと、その華奢な身体の上に馬乗りになった。
シオンの悲鳴がこだまし、山刀が地面に落ちて転がる乾いた音が聞こえた。倉庫の奥で孔健が立ち上がり、右足を引きずりながらゆっくりと二人に近付き、落ちている山刀を拾い上げた。
孔健と孔琳――。これまで数多くの日本人を残虐極まりない方法で殺害し、強盗を繰り返して来た凶悪な兄弟。彼らの表情には常軌を逸した異常性がはっきりと見て取れた。
このままならシオンは殺される。容赦なく、それも最も残虐な方法で――。
そう考えた次の瞬間――、俺は立ち上がっていた。
すぐに孔健と孔琳が同時にこちらを見た。孔健はまた面倒が増えたと言わんばかりに溜息をつき、弟の前に山刀を差し出した。
孔琳は卑しい笑みを浮かべて頷くと、組み敷いたシオンの身体から立ち上がり、兄の山刀を受け取った。そして一度だけ頷き、ニヤリと笑い、こちらに向かって全力で駆け出した。
俺は呼吸を整え、肩の力を抜いてオーソドックスに構えた。孔琳は瞬く間に目の前まで迫って来た。そして一切躊躇せず渾身の力で銀色の刃を振り下ろした。
それを上半身のスウェーだけで躱し、お返しに一歩踏み込んで右のボディブローを左脇腹に突き刺した。
何かが折れる感触――。同時に山刀が音を立てて地面に転がった。
次に、痛みに歪んだ光琳の顔を渾身の左フックで薙ぎ倒した。それでも孔琳は先程とは異なり、そう簡単に失神しなかった。前に崩れながらも俺の下半身にしがみ付いて来たのだ。
俺はその顔に容赦なく膝蹴りを入れた。孔琳はその衝撃で仰向けに倒れ、ザクロのように割れた眉間から夥しい量の血が滴った。
次の瞬間、背中を火で焼かれたような激痛が走った。振り向くと山刀を手にした孔健が不敵に笑っていた。その山刀の刃先には真っ赤な血が付いている。もちろん俺の血だ。
見ると孔健の右腿から膝にかけてベッタリと血が滲んでいた。どうやらシオンは孔健の右足に相当深く斬り付けたようだ。そのお陰で俺と孔健の勝負は振り出しに戻った。
俺の背中は熱く燃え、斬られた傷口はそこに心臓が移動したかのように早鐘を打ったが、俺はその怪我を無視して再びオーソドックスに構え直した。
孔健は無表情のままノーモーションで山刀を真横に薙いだ。それを意志でなく、身体の反応だけで後方にステップを踏んで躱す。
孔健はそのまま手首を返すとスナップを効かせて、インサイドから俺の顔に向けて山刀を薙いだ。耳元で風を切る音――。ピーカーブー・スタイルで頭を振って右に踏み込み、間一髪で刃先を回避した。
顔の左側面を通り過ぎた銀色の閃光の先に孔健の横顔があった。右の射程圏内――。だから容赦なく撃ち抜いた。
それは教科書通りの右フック。かつてライバルの石橋耕平が最も嫌がった俺の最大の武器だ。
拳には何のインパクトも感じなかった。高校時代、いつも言われていたのだ。完璧なタイミングで打つパンチは嘘のように軽いが、相手は間違いなく倒れている。けれど当時は何度練習しても、言われた通りのパンチが打てなかった。もしかしたら今初めて理想のパンチに辿り着けたのかもしれない。
孔健は白目を剥いて崩れ落ちた。長い間、執念だけで追い続けて来た怨敵が今、俺の足元で失神し、砂利だらけの地面に口付けしていた。
見上げると、立ち上がったシオンが山刀の刃先を孔琳の首筋に突き付けていた。血で顔を真っ赤に染め、動けずに横たわったままの孔琳は怒りに震えていたが、もはや手も足も出ないのは明らかだった。
その時、計量器を乗り越える車の音が聞こえて、甲高いエンジン音が近付いて来た。錆だらけの古びた小型トラックの助手席には陣内英二警部補がおり、その隣には陣内の部下である谷巡査部長が大きな体を丸めて窮屈そうにハンドルを握っていた。
そこでカラータイマーが切れた。
俺は腰から砕けるように崩れ落ち、再び首から下の感覚を失ったが、もはや神に不満をぶつける気持ちにはならなかった。もう十分だ。十分望みは叶えてもらった。ありがとう。
すぐにシオンが駆け寄って来て、俺を膝の上に抱き上げた。
「大丈夫? ねえ大丈夫なの?」
俺は微笑んでシオンを早く安心させたかったが、喉が詰まって言葉が出てこなかった。
本当にこれですべて終わったんだ――。
その思いが渦巻いて心の奥底で安堵が広がり、同時に意識が遠のいていくのを感じた。
シオンは俺を抱きしめながら、誰かに助けを求めてヒステリックに叫んでいた。
遠くでパトカーと救急車のサイレンが交互に鳴っている。そして鬼のような形相で警察無線を掴み、谷巡査部長に指示を出す陣内警部補の姿を俺はぼんやりと、まるで他人事のように眺めながら、シオンの泣き顔を見つめて力なく笑い、本当にもう大丈夫だと言いかけて、そこで暗闇に包まれた。
(終)
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