イントロダクション / Introduction

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イントロダクション / Introduction

 それが現実のものなのか、あるいは人から聞いた話を自分の中で映像化しただけなのか時々、判断がつかなくなる。  それは遠く地平線に夕日が沈みゆく農道を一人の制服警官が自転車で巡回している光景だった。  空はどこまでも高く、ほとんどの農家が稲刈りを終え、乾いた地表がむき出しになった田園が見渡す限り遥か遠くまで連なっていた。  辺りの家々は皆、束の間の休息を楽しんでおり、普段なら畦道のあちらこちらに停まっている白い軽トラの姿もこの日は一台も見かけなかった。  事件など滅多に起こらぬ長閑な田舎町だ。家の戸に鍵をかける習慣すらない。だからその日の巡回もいつも通り退屈で緊張感のないものになるだろうと思っていた。  しかしそこに突如、背後から大型車らしきエンジン音が近付いて来て状況が一変した。けたたましく迫り来るそのエンジン音から農道を走るにはいささか常識外れのスピードであると理解できた。  だから警官は自転車を停め、大型車を制止するつもりで振り向いた。ところがトラックはあまりにも現実離れした速度で目の前に迫ってきていた。  次の瞬間、警官は全身に強い衝撃を覚え、田園の空高く舞っていた。  映像はそこで途切れている――。  事故現場から約五キロ離れた山村にある木材倉庫の中で瀕死状態の被害者が発見されたのは、事件から二日後の早朝だった。発見者は同倉庫で従事する林業作業員で、警察への通報内容は「遺棄死体の発見」であった。  救急車で北九州市内の病院へ緊急搬送されたのは、福岡県警小倉署地域課(ふくおかけんけいこくらしょちいきか)に所属する浅田慎也(あさだしんや)巡査長(二十八歳)だった。  巡査長は幸い一命を取りとめたが、全身打撲に加え、腰椎と肋骨の骨折、左前十字靭帯損傷、臓器損傷など生死をさまよう重傷と診断された。  また発見時、同巡査長は下着姿で手足を縛られ、猿轡を噛まされており、身に着けていた制服や警察手帳、階級章、手錠、特殊警棒、無線機、拳銃などの装備品がすべて無くなっていた。  二日後、事件に使われたと見られる四トン・トラックが事故現場から約八キロ離れた貯水池に沈められているのを、飼い犬の散歩中だった地元住民が発見した。この車両は飯塚市内の工事現場から盗まれたものとして六日前に盗難届が受理されていた。  事件について福岡県警は計画的に制服警官を狙った犯罪であると断定し、盗まれた警察官装備品を悪用した犯罪発生を恐れ、県内全域に緊急警戒を発令した。 〈ニセ警官に注意〉〈拳銃所持の凶悪犯が潜伏中〉〈不審人物を見かけたらすぐに通報を〉  市内の小中学校はしばらくの間、放課後の部活動を中止し、近隣の商店や公共施設が臨時休業するなど、自治体も対応に迫られた。しかしそれらの心配をよそに、その後一年間は何事もなく過ぎ去った。  浅田巡査長は脊椎の圧迫骨折による後遺症が残ったものの、長く辛いリハビリを経て、事件発生から十一ヶ月後の九月、内勤ながら職場復帰を果たした。  そうやって誰もが事件のことを忘れかけていた頃、ついに事件が起きた。  同年十一月四日――。深夜。福岡市内で強盗殺人事件が発生した。被害者は博多区寿町(はかたくことぶきちょう)で中華料理店を経営する張本守一(はりもとしんいち)(五十九歳)とその妻・春江(はるえ)(五十二歳)で、二人ともに射殺体として発見された。  張本宅の寝室内にあった金庫が荒らされ、貴金属や高級時計なども盗まれており、その被害総額はおよそ数千万円に上るものと見られた。  現場検証によれば実行犯は二人組で、他に逃亡用の運転手がいたとすれば、少なくとも三人以上の複数犯であると推測された。また現場から発見された弾痕から、凶器に使用された銃は警察官支給拳銃と同型のニューナンブM60、つまり一年前に北九州で盗まれた浅田慎也巡査長の装備品である可能性が濃厚とされた。  その後、捜査員による近隣聞き込み調査の結果、事件当夜、現場付近で制服警官らしき不審人物を見掛けたという地元住民の証言が得られた為、尚更、巡査長の装備品である可能性が高まった。恐らく犯人グループの一人が警察官に扮し、被害者を信用させて自宅内に侵入、その後仲間を引き入れて犯行に及んだのだろう。  福岡県警は県内全域で緊急配備を実施し、各地の検問を徹底した上で、拳銃を所持した殺人犯が潜伏しているとして警戒警報を発令した。  しかし翌十一月五日の夜十時過ぎ、捜査当局をあざ笑うかのように関門海峡を越えた隣の山口県で、二件目の強盗殺人事件が発生した。  今度の被害者は周南市(しゅうなんし)の無職・安田盛重(やすだもりしげ)(七十六歳)と、当日、安田宅に居合せた知人男性二名を併せた計三名。いずれも銃で射殺されていた。  使用された凶器は福岡と同じ拳銃と見られ、その手口から同一犯の犯行と断定された。加えて今回も自宅金庫が荒らされており、被害総額については推定三億から四億円相当と見られた。また残念なことに、被害者宅に備え付けられていた計四台分の防犯カメラ映像はハードディスクごと持ち去られていた。  たった二日の間に二件の凶悪な連続強盗殺人事件が発生し、被害総額は少なく見積もっても四億円以上――。殺害された被害者は全部で五名――。使用された凶器は警察官支給の装備品――。  これらのセンセーショナルなニュースは瞬く間に全国を駆け巡った。福岡県警は対応に追われ、マスコミは一年前に北九州市で起こった事件を蒸し返して、容赦なく警察の責任を追及した。その結果、浅田巡査長は上司命令により、警察官舎での待機を余儀なくされた。  彼は車椅子生活者だった。  事件の後遺症により自力で歩くこと叶わず、底知れぬ絶望感と戦い、拷問のようなリハビリに耐え、ようやく前を向いて生きていこうと決めた矢先だった。しかし事件が発生し、自分の銃で尊い人命が奪われた、その意味が重く圧し掛かっていた。  決してお前のせいではない――。そう言われても安易に警察官装備品を奪われた自分の未熟さが憎くてたまらなかった。その忸怩たる思いは事件の起こる前でさえ、常について回ったのに、実際に五人もの命が奪われた後となっては、もはや悔恨と懺悔の思いしか残らなかった。  だから上司か、同僚の誰かが、もっと注意を向けるべきであった。  浅田巡査長からの定時連絡がなくなって二日――。上司である総務課長はようやく事態を案じ、巡査長が生活する独身寮『小倉 北区警察官舎(こくらきたくけいさつかんしゃ)』の管理人に状況確認を依頼した。  連絡を受けた管理人はすぐさま巡査長の部屋へ向かい、ドアをノックしたが、しばらく待っても返答がなかった為、合鍵を使って室内に侵入した。  程なくして管理人はテーブルの上に置かれた遺書と、無造作に倒れた車椅子、そしてクローゼットの中で首を吊っている浅田慎也巡査長を発見したのである。
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