調査報告1「残された女」 A Woman Left Ⅼonely / Janis Joplin

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(二)  それは六月の終わり、雨が降りそうでなかなか降らない、どうにもハッキリしない午後のことだった。  来客用ソファーに座ってセブンスターを一本抜き取り、父親の形見でもある傷だらけのジッポーで火を点けた。  ゆっくりと煙を吸い込んでから肺に貯めると背もたれに身体を預けて大きく仰け反り、天井に向けて白い煙を細く、長く、ゆっくりと吐き出した。  世間の嫌煙ムードなど知ったことか――。  もちろんビル内は喫煙室と一部店舗を除いて原則禁煙だ。それでもこの部屋は毎月大金を支払っている我が城なのだから、煙草くらい好きに吸わせてもらう――。そう独り言ちているとノックと共にドアが開き、髪の長い女性がそっと顔をのぞかせた。 「すみません、今、よろしいですか――」  それは透き通るように色白で目鼻立ちがくっきりとした典型的な美人顔の女性だった。俺はてっきり目的の部屋を間違えたのだろうと思った。館内には女性向けのエステサロンやクリニックが幾つかある。あるいは上司に頼まれて公認会計士事務所へのお遣いか、訳ありで弁護士事務所か――。  午前中にアポイントの電話はあったけれど、それと目の前の女性とが結びつかなかった。たどたどしい物言いで単身赴任中の夫の浮気調査を依頼してきた疲れた声と、目の前にいる現役アイドルでも通用しそうな可憐な女性の顔がイコールで繋がらなかったのだ。  彼女は事務所の入口で立ち尽くしたまま煙草の煙に少しだけ顔を顰め、不安げな瞳をこちらに向けてきた。  俺は念の為、尋ねた。「もしかして今朝、電話をくれた?」 「はい、そうです、その多村(たむら)です」  彼女は早口でそう答えた。俺はほとんど残ったままの煙草を灰皿でもみ消すと、尻で椅子を突き飛ばすようにして立ち上がった。そして満面の笑顔で彼女を招き入れ、向かい側にある三人掛けソファーへ誘導した。  彼女は小さく会釈してから腰掛けた。この向かい合わせた二脚の黒革ソファーは別の空きテナントから拝借してきたもので、以前の持ち主は歯科医だった。つまり患者の待合ロビーで使われていたものである。相当の年代物なのであちこちにひび割れや切れ目があり、目立たぬよう黒いガムテープで補強してあるが、それが却って古臭さを強調してしまっている。  またソファーの前には焦げ茶色で傷だらけのローテーブルがあり、壁側にはもう少し明るい茶色だが、やはり傷だらけのテレビ棚と二十インチの液晶テレビが鎮座していた。  俺のデスクはソファーセットの後方にあり、さらにその背後の窓の向こうには灰色にくすんだ新橋の街並みが広がっている。  俺は立ち上がって飲み物の用意をする為、衝立の向こうのキッチンへ向かった。入口には温泉マークに平仮名で〈ゆ〉と書かれた青い暖簾がかかっている。その昔、誰かが冗談で取り付けていったものだ。面倒だし、目隠しになって良いのでそのままにしている。  冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出して、グラスに注ぎながら暖簾越しに来客の様子を伺った。彼女は所在なく事務所内を見渡していた。無垢で化粧気の少ないその横顔はまるで十代の少女のように幼く見えた。藍色のワンピースから覗く二の腕は細く、透き通るほどに白い。  俺は冷たい茶を盆に乗せて戻ると、向かいのソファーに座った。 「ご用件は確か――」 「はい、電話でお伝えした通りです。単身赴任中の夫の素行を調べて頂きたくて――」  彼女は目の前に置いた茶には手を付けず、こちらをまっすぐ見つめてそう切り出した。 「浮気調査ということですね」 「はい。お願いします」  彼女は今朝、名古屋からやってきたばかりだと言った。一旦は夫の寮がある田町駅で降りたのだが、平日のこの時間に夫が部屋にいる筈もなく、三十分ほど周囲を彷徨っただけで再び京浜東北線に乗り、今度は夫の職場がある新日本橋駅へ向かうつもりだった。  その道中、新橋駅で停車した際、巨大な蜂の巣を思わせる古びたビルと、その壁に貼られた看板広告が彼女の視界に飛び込んできた。 〈相談無料・秘密厳守 新橋駅前探偵社〉  そして発車アナウンスが終わる寸前、無意識に閉まりかけたドアをすり抜け、新橋駅のホームに降り立っていた。  自分自身の手で問題を解決しようと決心して一人で東京にやってきたけれど、どこから手を付けて良いかわからず途方に暮れていた。だからこれは天の思し召しに思えたのだと。  つまり彼女は藁をもすがる思いで電話をかけてきたのだ。  依頼人の名は多村香織(たむらかおり)。三十一歳。愛知県名古屋市在住で夫婦の間にまだ子供はいない。身元証明として確認した運転免許証によれば、本名は若菜香織(わかなかおり)と言う。  ダイエットをしたのか、あるいは一連の心労で痩せてしまったのかは定かでないが、免許証の写真よりも随分細く見える。目が大きくて童顔、まるで小動物のような印象の多村香織はとても三十歳を過ぎているように見えなかった。服装やメイク次第では二十代前半でも充分通用する。  身長は百六十センチ前後――。薄い生地のワンピースがその体型を際立たせていてよく言えばスリム、悪く言えば痩せぎすで体重は四十五キロにも満たないだろう。多村香織はあまりにも華奢で今にも壊れてしまいそうに見えた。 「ご主人の浮気とのことですが、何か具体的な証拠などはありますか?」 「いえ――」 「では浮気相手とのメールのやりとりや、服についた香水の匂いなども?」 「ええ、そういうことは特に――」  そこで多村香織は目を逸らしてうつむいた。浮気の物証がないのか。だとしたら珍しいケースだ。 「何か、これといった証拠がある訳ではないんです。ただ、私にはわかるんです。夫は絶対に浮気をしていると」 「では浮気相手についても、どこの誰かまではハッキリとわからない?」 「わかりません。今のところは――」  俺は一息つくと彼女に飲み物を勧めながら肩の凝りを解すように首を回した。嫌な予感がする。もしかすると彼女は思い込みの強いタイプなのかもしれない。いわゆる被害妄想。寂しさというのは時折、人の判断力を鈍らせる。相手のわからない浮気調査。良くない兆候だ。 「では、ご主人についてもう少し詳しく話してもらえますか」 「はい。主人の名前は多村祥吾(たむらしょうご)です。今年三十四歳になります。現在は徳川銀行・東京支店(とくがわぎんこうとうきょうしてん)で働いています。〝徳銀(とくぎん)〟は名古屋が本店なものですから、単身赴任で東京に来て、もうすぐ二年です」  多村香織の説明を要約すればこうだ。夫・多村祥吾は愛知県犬山市出身で、徳川銀行には入行十一年目、肩書きはマネージャー。  幼少時から地元の少年野球チームに所属し、中学時代に一気に才能を開花させると、野球名門校として名高い愛知経済大学付属高校(あいちけいざいだいがくふぞくこうこう)へ進学した。そこでは内野手として二年からレギュラー出場、三年時には主将を務め、夏季大会で念願の甲子園出場を果たした。そして二回戦でサヨナラ安打を記録し、チームのベスト十六進出に大きく貢献した。  高校卒業後はそのまま愛知経済大学(あいちけいざいだいがく)へ進学し、同じく野球部で活躍。大学卒業後は順風満帆に地元の御旗である徳川銀行への入行を果たしたという次第だ。  徳川銀行と言えば愛知県名古屋市に本店を置く大手地方銀行である。愛知ではメガバンク以上に支持されており、地元のみならず中央行政や経済界への影響力も決して小さくはない。その徳川銀行で働き、一時は本店営業部にも籍を置いていたと言うのだから、多村祥吾は間違いなく将来有望なエリートである。  香織は祥吾から二年遅れで入行し、本店で窓口業務を担当した。そこで二人は知り合い、ほどなくして交際が始まった。それは極めて自然な流れだったと香織は言う。 「この人と出逢う為に今日まで生きてきたのだと、素直にそう思えたんです」  多村香織は三十歳を超えた今でも充分に美しい。けれど今から九年前、入行当時の彼女は弾けんばかりに光り輝いていたことだろう。  そんな絶世の美女と甲子園で活躍した地元の英雄。誰もが羨む理想のカップルは順調に交際を続け、祥吾二十八歳、香織二十六歳の春に大勢の人々に祝福されて結婚式を挙げた。  派手なことで知られる名古屋の結婚式だが、二人の披露宴も例外なく、それは豪華絢爛なものだったらしい。かかった費用も相当なものだったと、彼女は苦笑いしつつも、どこか誇らしげな口調で言った。  その結婚費用のせいだけではないだろうが、香織は結婚後も銀行を辞めず共働きでの新婚生活が始まった。それでもその四年間は香織にとって幸せの絶頂期だった。 「彼は優しくて誠実で、とても正義感が強いんです」  多村香織は毅然と言い放った。 「正義感?」 「ええ、間違ったことが嫌いで――。だからもし目の前で何か間違った出来事が起きたならば、たとえ自分が犠牲になったとしても、いとわずに行動に移すタイプなんです」 「黙って見ていられない?」 「たとえ相手が上司であったとしても、それが間違っているなら」 「意見する?」 「はい。だから彼を気に入らない上司に異動させられたんだと思います」 「東京への異動が、ですか?」 「はい。本当は名古屋に残っていたかった筈なんです」 「実際に旦那さんがそうおっしゃったんですか?」 「いえ、ハッキリそうとは――。でも私にはわかるんです、彼の気持ちが」  やはり彼女は思い込みが強いようだ。俺はポーカーフェイスのまま引き際の算段を始めた。 「確かに銀行マンにとって本店からの異動は左遷だと言われてますけど、この場合、行き先が東京支店なのだから栄転とも取れるんじゃないですか? 出世コースという可能性は考えられませんか?」 「いいえ、栄転でも出世コースでもありません。それにこの話、断ろうと思えば断れた筈なんです。夫の同期の方もそう仰ってました。今さら東京に行く必要なんかないって」 「けれど甲子園で活躍したくらいガッツ溢れる旦那さんなら一度は東京で勝負したいと思っても不思議じゃない」 「そんなことありません。だってお腹に――」  そこで彼女は口を噤み、俯いた。その言葉通りだとするならば当時、彼女は妊娠していたということか。けれど彼女は出産経験がある母親には見えないし、最初に訊ねた際も子供はいないとハッキリ言っていた。  もしかしたら夫が単身赴任で一人孤独に過ごした結果、何らかの理由で流産してしまったのかもしれない。そのことが原因となり、理想の夫婦の間に亀裂が生じてしまったのだとしたら――。  できればそのあたりの事情をもっと詳しく訊き出したかったが、これ以上踏み込むのはやめた。極めてデリケートな問題だし、そもそもこの調査を引き受ける可能性は低くなりつつあったからだ。  俺は話を終わらせる為、調査にかかる費用を少し多めに伝えた。調査料金と必要経費に成功報酬。それは主婦やOLに簡単に払える額ではない。しかし彼女はすんなりと同意し、手付金としてひとまず十万円を納めると言った。  まもなく六月が終わる。ここの家賃と経費、一ヶ月間の生活費を計算すると今月は限りなく赤字に近い収支となる。つまり気は乗らなくても今の俺には仕事が必要だった。しばし逡巡した結果、正式な調査依頼書と前金の領収証を、不慣れな営業スマイルで多村香織に手渡した。  彼女はイメージ通りの繊細な筆致で書類に記入すると、財布から現金十万円を抜き取り、さらに茶封筒から数枚の写真を取り出した。  背広姿でまっすぐにカメラを見つめる多村祥吾の証明写真。銀行の野球チームらしきユニフォームを着てバットを構える姿。そしてハワイ旅行のスナップと思しき、ダイヤモンドヘッドをバックに佇む、はちきれんばかりの笑顔などがそこにあった。どれも精悍で凛々しく、絵に描いたような好青年に見える。本当に眩しいくらいだ。  多村香織は今日と明日の二日間、東銀座のビジネスホテルを予約していたが、キャンセルしてこのまま名古屋に戻ると言う。何の当てもなく東京に来たが運良く探偵と巡り合い、依頼することができた。もちろん夫の祥吾には来京を伝えないままでだ。  ソファーから立ち上がった多村香織はスカートの裾を手で直してからまっすぐにこちらに向き直った。 「何かわかったら、すぐに連絡ください。どんな些細なことでも結構ですから」  俺は頷くと彼女を見送る為に立ち上がり、その華奢な背中に声を掛けた。 「わかりました。ところで、もし旦那さんが浮気していると判明した場合、あなたはどうしたいですか?」  多村香織はその質問の趣旨が理解できないのか、取り繕ったような微笑のまま質問に答えることなく、会釈して再び背を向けた。  そこで俺はもう一度声を掛けた。 「旦那さんは、どれくらいの頻度で名古屋に戻られていますか?」  すると彼女は振り向いて、寂しげに首を横に振った。 「もう半年以上、戻ってきていません」  そして、依頼人は部屋を出ていった。
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