調査報告1「残された女」 A Woman Left Ⅼonely / Janis Joplin

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(三)  我が『新橋駅前探偵社』が入居する『新生(しんせい)ビルヂング』は地下二階、地上十階建ての商業ビルである。そのうち、地下一階から四階まではテナントが入り、五階から上がオフィス棟になっている。  終戦直後、この場所には巨大な〈闇市(やみいち)〉があった。物が不足したその時代、非合法とは言え、人々は闇市に食料や物資を求めて通った。  当時、敗戦国だった日本の地で戦勝国民扱いされ、我が物顔に暴れ回っていた三国人(在日の中国人、台湾人、韓国人)を相手に果敢に闇市を守り切り、その後の発展に尽力したのはヤクザ組織『関東松田組(かんとうまつだぐみ)』を率いる松田義一(まつだぎいち)組長だった。  その努力の甲斐あって闇市はやがて合法的な公設市場『新生(しんせい)マーケット』に姿を変え、その二十数年後には近代的な『新生ビルヂング』へと変貌を遂げたが、闇市時代からの店子との関係は奇跡的にそのまま受け継がれてきている。その名残が地下一階の商店街に今も色濃く残っていた。  細長い廊下が漢字の〈田〉のように縦横に走り、洞窟か地下迷宮を想わせる薄暗い飲食店街は〝カッパの松〟の愛称で多くの人々に愛された松田義一組長にちなんで〈カッパ横丁〉と呼ばれている。  カッパ横丁には赤提灯を掲げた立ち飲み屋、焼鳥屋、おでん屋などが軒を連ね、価格も昭和当時のままあまり変わっていなかった。また駅前という好立地から終電ギリギリまで飲めるとあって、近隣のサラリーマンを中心に人気が絶えなかった。  一方、一階にはバリエーション豊かなテナントが揃っていた。中でも柳通りやSL広場に面して商売を行う安飯屋はどれも値段と味、量で勝負しており、食欲旺盛かつ慢性的財政難を抱えた新橋のサラリーマン達に愛され、昼夜問わず繁盛していた。  一階には他に化粧品店やゲームセンター、紳士服専門店、喫茶店、薬局、宝くじ売り場、占い屋、銀行ATMコーナー、消費者金融の自動契約機などがあるが、特に目立つのは数多ある金券ショップだった。  これらの店では百貨商品券や映画、演劇の前売り券などが安く買えるし、逆にそれらを買い取って貰うことも可能だったが、連日列をなす客の最大の目的は列車や飛行機の切符を出来るだけ安く手に入れることにあった。  例えば東京―新大阪間の新幹線指定席なら定価より千円以上安く買える。出張の多い業種ならば、塵も積もればなんとやらで案外、馬鹿にならない臨時収入になる。このビルだけで計十六軒の金券ショップが軒を連ねていることから、その需要の大きさがわかるだろう。   建物のちょうど中央、〈田〉のクロスした部分の西側にはエレベーターホールがある。しかしこのエレベーターを利用するのは五階以上のオフィス関係者が主であり、商業フロアがある四階までの利用客は烏森側とSL広場側、計二箇所あるエスカレーターを利用することが多い。  そのエスカレーターで二階に上がると急に雰囲気が変わったことに気付く。知らなければ不安にもなるだろう。ここがハイソな港区内の駅前ビルだとは俄かに信じられないほどだ。何故ならすぐにミニスカートから白い足をさらした小姐(シャオチエ)たちが登場し、たちどころにロックオンされてしまうからだ。 「オニイサン、マッサージ、ヤスイ」  あっという間に腕を掴まれる。 「三十分、三千円、ヤスイ」  それらの誘惑を穏便に断って腕を解けたとしても次から次と別の客引き嬢が、まるでゾンビ映画のように群がってくる。  このフロアは廊下の前後左右、どこまでいっても中国系マッサージの店舗で占められており、彼女たちの淫靡で挑発的な客引きはそのまま不埒なサービスを想像させるが、実際はどの店も健全店である。  それもその筈でビルとの賃貸契約条項では風俗サービス業が禁止されているし、もし違反が発覚すればテナントを追い出されてしまうからだ。  また客引き嬢の胸元や生足に魅了されて店に入ったとしても実際にマッサージするのは母親並みの年齢の女性であることは珍しくない。騙されたと思うかもしれないが、マッサージは抜群に巧いし、三十分三千円は桁外れに安いのだから、文句のつけようもない。  それらのマッサージ店に挟まれる形でアダルトショップが数軒あった。他にオットセイエキスを扱う漢方薬局やバイアグラを処方するクリニックもあり、言うなれば新生ビルヂング二階は男の煩悩を凝縮したような店揃えになっていた。  そこから三階に上がると途端に静かで落ち着いた雰囲気に変わる。見渡す限り歯科、内科、整形外科などの病院やクリニックが連なり、他に公認会計士事務所や弁護士事務所なども入居している。  また小料理屋や寿司屋、天ぷら屋、ステーキ屋などの落ち着いた飲食店も目立っていた。他に変わったところでは、長寿健康の無料体験会を謳った電気治療器具のセミナーや育毛クリニックなど高齢者向けの商売である。  あえて二階一帯を新宿歌舞伎町に例えるならば、三階は銀座、有楽町的など落ち着いた大人の街といった風情だろうか。  そして四階――。ここでエスカレーターは終わる。この階の静けさは三階以上で、その理由は半分以上降ろされたシャッターにあった。先月もエステサロンが、その前の月は理容店が店仕舞いして、ここから去っていった。  残された住人は昼間ひと気のない雀荘と、ひと気はあっても至って静かな囲碁将棋サロン。たいして骨董価値が感じられない骨董品屋。店内に巨大なジオラマが鎮座した鉄道模型店。それ以外はスナック、韓国食材店、設計事務所、法律事務所など、その業種は見事にバラバラで、店子(たなこ)同士の繋がりもほとんどなかった。  そんな中、唯一近所付き合いをしているのは我が探偵社と廊下を挟んだ斜め向かいで店を構えるビンテージ・ギターショップ『ザ・バースト』だった。  店舗は建物の内側に面している為、部屋に窓はないが、むしろ温度や湿度に気を配る必要のある中古ギターにとっては太陽光が天敵なのかもしれない。  経営者は芝山芳樹(しばやまよしき)と名乗り、白髪交じりの長髪をポニーテールに束ね、鼻下と顎に豊かな髭を蓄えた四十代後半の男だった。  芝山とはかれこれ五年の付き合いになるし、互いに暇な時間も多い為、気兼ねなく行き来する関係ではある。今日も出掛ける前に芝山が現れた。芝山はノックもせずにドアを開けると、時節の挨拶も天気の話題もなしに勝手に部屋に入ってきてソファーに腰掛けた。 「昨日の別嬪さん――。あれ、なんの用やったの?」  滅多に来客のないギターショップの店主は、店の前を通ってこの事務所を訊ねる依頼人のほとんどをチェックしている。そして彼らが帰った後、決まってどんな依頼内容だったのかと訊ねに来るのだ。 「守秘義務だと何度言えばわかる?」 「ええやん」  芝山は顎髭を擦って狡賢い微笑みを湛えた。古着の黄色いアロハシャツから珈琲の香りがほんのりと漂ってくる。芝山は自分で豆を焙煎するほどの珈琲好きで、店にいる間もギターを弾いているか、珈琲を淹れているかのどちらかである。 「ああいう娘、ええな。色白で透明感があってさ。どこぞの女優さんみたいな雰囲気やんな。……で、なんの用やったの? 教えてや」  下手糞な関西弁を話す女好きで珈琲好き、それが芝山芳樹だった。 ◇  夕方からさっそく調査に取り掛かった。浮気調査には幾つかのやり方があるが、まずは〈面取(めんと)り〉――、つまり〈対象者(マルタイ)・多村祥吾の顔を確認すること〉から始める。  徳川銀行東京支店は日本橋本町の表通りに面した十二階建て商業ビルの一階と二階にあった。同じ本町や隣接した室町、本石町などには日本銀行本店を取り囲むようにして数多くの地方銀行東京支店が軒を連ねている。  地銀が東京の、それも日本橋の一等地にわざわざ支店を構える理由は単なる箔付けだけではない。この地の利が融資先の確保や情報収集の面でも重要な役割を果たしている筈だ。そうでなければ、これほど多くの地銀が進出してはこないだろう。  通りのはす向かいにセルフサービスのコーヒーショップがあった。ここの窓側席であればかろうじてビルの通用口を見通すことができそうだ。しかし店に入ると目当ての席には先客のサラリーマン二人組がいて揃ってアイスコーヒーを飲んでいた。仕方なく別の席で待っていると、しばらくして二人が席を立ったので、すかさず移動して窓際を陣取った。  次に探偵七つ道具が入ったショルダーバッグから手の平に隠れる大きさのCCDカメラを取り出してさりげなく通用口に向けた。映像は無線で繋いだスマートフォンの画面に映し出される。ズームや明るさの調整もできる上、この態勢なら自然に携帯電話を操作しているようにしか見えないだろう。  このCCDカメラで撮影した動画はスマートフォンのデータからクラウドに保管され、PC環境で再生することもできる。こう見えて俺は意外とハイテクを使いこなしているのだ。  銀行の窓口業務はとうに終了しているが、通用口を出入りする関係者は途切れなかった。もっともこのビルには徳川銀行以外にも幾つかの会社が入居しているので、そもそもの利用者は多い。よほど意識を集中させないとターゲットを見落としてしまいそうだ。  依頼人・多村香織からの情報によれば、夫・多村祥吾は銀行が寮として借り受けている田町のワンルーム・マンションに住んでいた。徳川銀行東京支店の最寄りは新日本橋駅だが、神田駅まで歩いてもたいした距離ではない。  むしろ乗り換えの煩雑さを考えれば総武線・新日本橋駅は使わずに、神田駅を利用して山手線か京浜東北線で帰宅する可能性が高そうだ。神田から田町まではたったの五駅。それで通勤のストレスはかなり軽減される。  俺はコーヒーを一口啜ってから窓の外を眺めた。鞄を抱えた男女が足早に通り過ぎて行く。一日の仕事を終えて家に帰る人々だ。大切な誰かが待つマイホームへと。それはどこにでもある当たり前の平凡な生活。その当たり前が自分にはない。いつかどこかで捨ててしまったのだ。  午後七時過ぎ、通用口に一人で現れた男を俺は見逃さなかった。写真のイメージより少し背は低いが、背広の上からでもスポーツマンらしい肩幅や胸板の厚みが良くわかった。無駄な脂肪もあまりないようだ。間違いない、多村祥吾本人だ。  俺はコーヒーショップを出ると、対象者から十メートルほど離れて後を追った。多村は黒いポリエステル製のビジネスバッグを持ち、姿勢良く歩いて行った。歩行者信号で中央通りを渡り、そのまま歩道を進む。  向かう方角はやはり神田駅のようだ。人通りは多いのでよほど警戒されていない限り、この距離で尾行がばれることはまずない。  それでも性分なのか、慎重に慎重を期して距離を置き、多村の靴だけを見ながら後を追った。その革靴はソールがスニーカーのようなゴム製になっていた。おそらく防水タイプの合成皮革で軽量。おもに歩き回ることを前提としたビジネスシューズだろう。そこからは多村祥吾生来の生真面目さが伝わってきた。  多村は歩いて数分で駅前ガード下に辿り着くと、そのまま東口の改札を抜け、山手線品川方面行に乗りこんだ。俺も隣の車両に乗った。そして予想通り田町駅で下車すると、駅前商店街のスーパーで買い物をしてから、併設されたクリーニング屋に立ち寄り、両手に大量の荷物を抱えたまま、駅から徒歩十分の十階建てマンションのエントランスへと消えて行った。  俺はしばらくマンションの前に立って四階の中央にある部屋を眺めた。閉じられたカーテンの隙間から灯りが漏れている。今夜はもう動きはないだろう。  場合によっては実施しようとしていた〈近隣への聞き込み〉は断念した。この辺りは単身者用のマンションが多そうだ。彼らはほとんど交流しない。だから呼び鈴を鳴らして対象者の普段の暮らしぶりを訊ねたところで、自分の隣にどんな人間が住んでいるかなど誰も把握していないから、まともな返事など返って来ない。聞き込み調査の難しさや精度の低さはここ数年どんどん酷くなっている。  俺は初日の捜査を切り上げて踵を返した。明日に賭けよう。動くなら明日、金曜の夜だろう。
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