調査報告1「残された女」 A Woman Left Ⅼonely / Janis Joplin

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(四)  送信からものの五分とかからずに多村香織から返信メールが届いた。  曰く、もう少し調査を続けて欲しい、と――。  既に着手した木曜から日曜までの調査で、OLの月給相当の調査費がかかっている。このまま続けるのはやぶさかではないが、自分の直感を信じるならば対象者(マルタイ)・多村祥吾は浮気をしていない。  先週金曜日も前日同様歩いて神田駅まで移動し、山手線で田町まで帰った。その後、駅前のレンタルビデオ店に立ち寄り、一般エリアとアダルトエリアを合わせて二十分ほど物色した。それはこの二日間の尾行で多村が見せた唯一の(よこしま)な素顔だった。  そこでアダルトビデオを含む計五枚のDVDを借りた多村は、商店街にあるチェーンの弁当屋で総菜と唐揚げ弁当を購入し、そのまま帰宅した。消灯は約四時間後だった。  翌土曜日は雨の予報が一転、昼前から晴れたこともあり、多村は午後から外出した。田町から上野へ向かい、一時間ほど上野公園を散策した。動物園の入口手前まで行くとそこで引き返し、『上野国立博物館(うえのこくりつはくぶつかん)』で開催中の『恐竜展(きょうりゅうてん)』で約二時間を費やした。その後、上野アメ横商店街の大衆中華料理店で生ビールと餃子、五目焼きそばの夕食を摂って帰宅。それきり外出はしなかった。  翌日曜日は朝九時から自宅前を張ったが、どうやら早朝に外出してしまったらしく不在だった。雨が降り出したので一旦事務所に戻った後、夕方からあらためて自宅前で張り込んだ。  午後六時過ぎ、雨の中、グレーのトヨタ・ハリアーがマンション前に停車し、助手席から多村が降り立った。多村はトランクからゴルフバッグを降ろすと運転手に気さくに挨拶をしてそのまま帰宅した。  つまり週末の夜から休日二日間において、多村祥吾の行動は健全過ぎるほどに健全で、浮気の気配など微塵も感じられなかったのだ。  それでももう少しだけ調べて欲しい――。そう懇願する依頼人に対して無碍に断る理由もない。俺は一旦精算をする為にこれまでの調査費と継続費用の概算を伝えた。入金があり次第、調査を再開すると言って。  多村香織はせっかちな性分なのか、翌日午前中には入金の確認が取れた。しかし正直なところ、ずっとおざなりにしたままの別の調査もあり、こちらにばかり時間を費やしてもいられない。  そこで時々、調査協力を依頼する田中亮(たなかりょう)と連絡を取った。田中とは第一京浜沿いのJR高架下にあるバー『ジョージーポージー』で知り合った。いやむしろ一方的に喧嘩を売られたと言った方が正しい。  原因はたいしたことではない。俺が飲んでいた十三年もののワイルドターキーが気に入らない、気障な酒を飲みやがって――。確かそんな理由だった。  その時は店主の取り成しでことなきを得て、以来、店で顔を合わす度に少しずつ親しくなった。その内、互いの仕事についても徐々に話をするようになり、初めて会ってから一年と半年後には仕事の手伝いを依頼する関係になっていた。  田中亮は現在三十八歳、フリーの山岳カメラマンだった。かつては大手出版社に勤務し、有名な写真週刊誌の専属カメラマンも務めていたが、ある日突然、何もかも嫌になって辞表を提出し、フリーとなった。  その後は大学時代に熱中した登山を再開、その流れで需要は少ないながらも山岳専門カメラマンとして糊口を凌ぐようになった。つまり夏のハイシーズンである今は、信州辺りの山中に籠っている可能性が高い。だから半ばダメ元でコンタクトしてみたところ、ちょうど一週間に及ぶ北アルプス縦走を終えて都内に戻ってきたばかりとのことだった。  基本的に山の仕事がない限り、田中は仕事を断らない。雑誌が売れず、廃刊ラッシュの現在、フリーのカメラマンも厳しい経済状況に直面している。だから山の疲れが癒えていなくとも、田中はすぐに多村祥吾の調査に乗り出した。  しかしこれは毎度のことだが、田中は根っから性格が歪んでいて、おまけに探偵仕事も毛嫌いしているので、二、三時間おきに送られてくる恨み言だらけの調査報告メールに付き合わなければならないのが苦痛だった。  筋肉過多のコンプレックスの塊――。たぶん短小包茎――。駅前のレンタルビデオ店で返却したアダルトDVDはマジックミラーものと黒ギャルもの――。晩飯は一番安い牛丼――。面白みのないクソ真面目人間――。  どうやら田中亮は多村祥吾を一目見て『気に食わない人種』として分類したようだ。それでも俺同様、とても浮気をしているとは思えないという所見も書かれていた。  多村祥吾は翌日の夕方、上司と二人で赤坂の鰻料理が有名な老舗料亭へ向かった。そこで三時間に及ぶ会食を終え、午後十時過ぎに出てきた二人は、ハーフパンツにTシャツ姿といった、まるでTPOを弁えないラフな若造二人組をタクシーに乗せ、そのテールランプが見えなくなるまで頭を下げて見送ったと言う。  ゲーム屋かぽっと出のIT起業家――。中身は子供のまま身の丈に合わない大金を手に入れて人生のバランスを見失ったまぬけ――。田中からのメールにはそう注釈が添えられていた。  翌木曜の夜、仕事を追えた多村の姿は珍しく神田の居酒屋にあった。そこでは定年退職か異動だろう、去り行く年配の男性行員を中心とした酒宴が開かれているようだった。宴席は時の経過と共に酒も進み、賑やかさを増した。  お開きは午後九時半過ぎでそのまま十数名の一団は二次会のカラオケ屋を目指して商店街方向へと向かったが、多村は一人自然な流れで直進し、そのまま駅の改札を抜けて帰宅してしまったと言う。  決して酒に酔っている様子もなく、また一切の後ろめたさを感じさせる雰囲気でもなかったらしい。多村はまるで風に流されるように振り返ることなく自然に帰って行った。  田中のぼやきは加速した。このまま何時間粘ったところで尻尾なんか出しゃしない。何故ならそんな尻尾、ハナから無いからだ、と。  それは俺も同感だった。これまでの五年間で七十件以上の浮気調査を手掛けてきた。その経験からすれば多村祥吾はあまりにも堂々としていて、浮気者特有の小賢しさが感じられなかった。  ましてこれまでのところたいして酒も飲まず、恐らくギャンブルもやらない。人並みに性欲はあるが夜遊びをするでもなく、風俗に通うこともない。絵に描いたようなクソ真面目人間――。田中でなくともそう罵りたくなるほど 多村祥吾はつまらない男だった。  妻の香織が夫の浮気を疑っているその理由を推測すれば、それは夫が半年間、名古屋に帰って来ないことにあった。半年以上も雪解けしない大きな喧嘩をしたのか。  もしかしたらそれは香織側に原因があるのかもしれない。そのことに気付いていないのか、あるいは気付いていてもあえて目を逸らしている。心が離れ、自分から去って行こうとしている夫を赦すことができない。だからこそ妻は夫の浮気を疑うことで精神のバランスを取り戻そうとしているのかもしれない。  田中亮は日曜から撮影で八ヶ岳に入る。前日の土曜はその準備で忙しい。つまり田中に頼めるのは明日金曜がラストチャンスだった。俺にはもう後を引き継ぐ気はなかった。つまり調査はこれで終わりにする。すべて終了――。そう依頼人に伝えるつもりだった。  その最終日となった金曜深夜、行きつけのバー『ジョージーポージー』で二杯目のソーダ割りのグラスを傾けていたその時、カウンターに投げ出したままのスマートフォンが点滅した。それは事態を一変させる田中亮からのショートメッセージだった。 〈浮気の証拠写真データとメモをメールで送った。山から戻ったらまた連絡する。成功報酬のボーナスよろしく〉
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