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(五)
田中亮が八ヶ岳に発った日曜日の昼過ぎ、多村香織は再び上京して、事務所に現れた。その日、彼女は淡い空色の生地にクリーム色の花柄が幾つも描かれたワンピースを着ていた。前回会った時よりもずっと幼く見えるが、その表情は少し緊張して、強張っていた。
「約束のお写真、拝見できますか」
俺はテーブルにプリントアウトした画像を数枚並べた。香織はそれぞれの写真を手に取り、じっと見つめた。その表情は何かを決心したように険しく、また悲しげでもあったが、幸い泣くことも取り乱すこともなく、至って淡々としていた。
浮気調査報告の場合、写真と一緒に動画を撮影するケースが多い。動画の方がより鮮明で言い訳のできない決定的な証拠となるからだ。しかし今回は写真で良かったと思えた。これは単なる浮気現場ではない。動画ではあまりにもリアルで、依頼人の心が押し潰される可能性もあっただろう。
二日前の深夜、俺はジョージーポージーから事務所に戻り、田中亮から送られてきた調査報告メールに目を通したが、すぐには内容を理解できなかった。添付された画像データを穴の空くほど見つめても、俄かには信じられなかった。展開が想像を上回っていたからだ。
田中は金曜の夕方、五時に徳川銀行東京支店のはす向かいにあるコーヒーショップの窓側席に陣取ったが、アイスコーヒーを半分も飲み終わらぬうちに多村祥吾が通用口から登場したので慌てて店を出て後を追った。
多村はいつものポリエステル製のビジネスバッグではなく、大き目のリュックタイプのバッグを背負っていたと言う。いつもより早い終業時間、いつもより多い荷物。きっとスポーツジムにでも行くのだろうと田中は推測した。
しかし多村はいつもの神田駅ではなく、最寄りの新日本橋駅へ通じる階段を下りて行き、そのまま総武線下りに乗車した。その列車は東京駅を通過し、千葉方面へと向かった。やがて錦糸町を通り過ぎたところで、もはやスポーツジムが目的ではないと田中は確信した。
新日本橋駅を出てからおよそ十五分、多村は市川駅で下車し、南口のロータリーを抜けて、駅前商店街を西へと向かった。それから数分後、五階建て雑居ビルの前で立ち止まると腕時計を確認してから中に入って行った。一階はクリーニング店、二階にはヨガスクール、三階には保育所があった。
しばらくして雑居ビルから出てきた多村は右手に二歳か三歳と見られる男の子の手を握っていた。幼児は慣れているのか、その場で多村に抱っこをせがみ、無邪気に耳や鼻を引っ張って甲高い笑い声をあげた。
多村は幼児に好きにさせながら通りに立ち、辺りの様子を伺った。はす向かいにあるコンビニエンスストアの中にいた田中はさりげなく雑誌を選んでいる振りをした。田中にとってもその光景は想定外ですぐに状況が呑み込めなかった。
ふと雑誌棚から目を上げると黄色いタクシーが停まっており、まさしく幼児を抱いた多村が乗り込もうとしているところだった。田中は慌ててコンンビニから出ると、タクシーの会社名とナンバーを頭に入れつつ、次のタクシーを待った。
幸いタクシーはすぐに捕まったが、多村の乗った車は三十メートルほど先の赤信号を越えてしまい、テールランプすら見えなくなりつつあった。田中は極力、焦燥感を抑え、自然な言い回しで、友人が前方のタクシーに乗っているので見付けて欲しいと伝えた。『ロイヤルタクシー京葉』の車だと思う――、と。
大通りに出て右折か左折かの選択をドライバーから迫られたところで、イチかバチかの左折、つまり千葉方面だと伝えた。その結果、二つ目の信号で黄色いテールを捕らえた。
車は市川インターの手前で左折し、しばらく走ってからショッピングモールへと入って行った。車寄せで多村と幼児が降りたのを確認し、田中も急いで車から降りた。領収証を貰い忘れたけど千四百五十円かかったからあとで精算頼む――、そうコメントが添えられていた。
多村は幼児の手を引いてモール内のフードコートに向かうとその一角に腰を降ろし、バッグからアニメキャラクターのイラストが描かれたドリンクボトルを取り出した。フードコート備え付けのキッズチェアに座らされた幼児は与えられたドリンクのストローに飛びつき、一心不乱に飲み始めた。
田中はいつものニコンではなく、手の平に収まるタイプの小型カメラを使って二人の様子を撮影した。それは仲睦まじい父子そのものだった。多村は幼児をあやしながら時々、スマートフォンを操作していた。
それから約十分後のことだった。先に幼児が気付き、椅子から降りて駆け出した。すぐに多村も振り返り、満面の笑顔を浮かべた。
そこに現れた三十代半ばと思しき女性は駆け寄ってきた幼児を抱き上げると頬にキスして笑わせながら、そのまま多村のもとに近付いていき、空いている左手で優しくハグしてみせた。それはまるで二人の子供を抱きしめる母親のような鷹揚さだった。
その後、三人はフードコートを出て敷地内にある大型家具店に向かった。そこの生活雑貨フロアで食器類と収納ケースなどを購入し、同じ敷地内にあるジャングルや恐竜キャラクターをあしらったレストランで夕食をとった。
いかにもファミリー向けのその店に浮世離れした無精髭で黒々と日焼けし、しかも目の周りのサングラス跡だけが白く残った修行僧パンダのような形相の田中亮はあまりにも不似合いで、さすがに中には入れなかったと言う。
写真には家具店での買い物の様子とレストランに入る前後、駐車場に停めたオレンジ色のスズキ・ハスラーに乗り込む三人の姿、住宅街にあるマンション駐車場、マンションのエントランスに姿を消していく様子、そして最後に五〇二号室〈秋本紗栄子〉の表札が写されていた。
◇
調査において車が必要になるケースは多い。しかし法人とは言え東京で車を所持する経費は馬鹿にならない。例えばこのビルの場合、駐車場代は月極で八万円。楽にワンルーム・マンションが借りられる金額だ。その他、日々のガソリン代に保険や車検、税金、整備費用などトータルすれば莫大な出費となる。
税金対策が必要なほど儲かっていれば良いが現実はそうもいかない。だから調査ではレンタカーを使うようにしている。レンタカーならば経費も安上がりだし、その車両はどこにでもあるような目立たない大衆車ばかりだから我が社のような零細企業がこれをチョイスしない理由がなかった。
幸い、このビルの地下駐車場にはいわゆるカーシェアリングが備え付けられており、空いていれば二十四時間いつでも利用できるのが有難かった。
車は尾行や張り込みをする際、時として足手まといになるが、天候や状況によっては車がないと長時間の調査もままならない。特に今日は大粒の雨が降っている上、わざわざ名古屋から来た依頼人が同行すると言うのだから尚更だ。
多村香織は会いに行くと言って聞かなかった。会って、直接話をしたいのだと――。
できれば修羅場は避けたいところだ。感情がこじれて警察沙汰にでもなったらたまったものではないからだ。所轄の虎ノ門署生活安全課から常日頃あまりよく思われていないのもあって正直気が重かった。
助手席に多村香織を乗せた紺色の日産ノートは京葉道路の市川インターを降りて住宅街に入った。田中亮がつきとめた夫・祥吾の浮気相手と思われる秋本紗栄子は市川市の本八幡駅から徒歩十分ほどの距離にある小さな公園に隣接した七階建てマンションで暮らしていた。
我々は車をマンションの向かいに停めてしばらく様子を伺った。時刻は午後三時。雨はまだやみそうにない。エントランス前には八台分の駐車スペースがあり、右側一番奥に写真で見たオレンジ色のスズキ・ハスラーが停まっていた。後部座席にはチャイルドシートも備え付けられている。
香織は車に乗り込んでから一言も話そうとしなかった。こちらから話しかけてもほとんど返事はない。静まり返った二人きりの空間で息が詰まりそうになった俺はカーラジオの音量をあげたが、どの局もくだらないJポップばかりで余計気が滅入った。
ここにきて俺は自分自身の能力を疑っていた。今回の対象者・多村祥吾には浮気の気配がまるでなかった。たった数日の尾行でも無実としか思えなかった。
それが浮気どころか子供まで儲けている。しかし子供の年齢はどう見ても三歳か、幼くとも二歳だろう。多村祥吾の東京赴任の年数を考えても計算が合わない。
ではシングルマザーである秋本紗栄子と自身が既婚者であることを隠して交際しているのか。それも無い話ではないが、これまでの調査でわかった多村祥吾のプロファイルからはあまりにもかけ離れている。そんな非道な真似ができる人間ではない。
それに結婚も入籍もできる筈がないのに保育所へ子供の迎えを任されるほど信用されている。その理由はなんなのか。考えれば考えるほど謎は深まるばかりだった。
そこから永遠とも思える時間が流れた。雨脚は強まったり弱まったりの繰り返しで、次第に辺りが暗くなり始めたその時、ようやくマンションのエントランスに子供を抱きかかえた女性と、片手に大きなバッグを提げた男性が現れた。
次の瞬間、助手席にいた香織が無言のままドアを開けて飛び出して行ったので、慌てて俺もその後を追った。
エントランスの軒下にいた多村祥吾と秋本紗栄子は土砂降りの中、傘もささずに駆け寄ってくる女性の姿に驚いて凍り付いていた。
「嫌――!」
香織の叫び声が雨の中でこだました。
秋本紗栄子は子供を庇うようにして香織に背中を向けた。
同じく二人を守ろうと前に立ちはだかった多村祥吾は、そこで我が妻・香織の存在に気付くと、叫び出さんばかりに大きく口を開き、悲嘆と絶望をないまぜにした複雑な表情を浮かべた。
「どうしてここに」
「絶対に嫌――」
香織は雨に濡れたまま両肩を震わせて夫・祥吾を睨みつけた。
秋本紗栄子もその表情に怒りを滲ませていたが、その怒りは突然現れた闖入者である香織ではなく、隣にいる祥吾に向いていた。
しかし祥吾は秋本紗栄子の感情にまで注意を払う余裕がなかった。ただ自分の妻の取り乱した姿に驚き、心を痛め、泣き出すのを堪えているように見えた。
「どうして」
「信じてたのに」
「信じてたって、そんな――」
多村祥吾は軒下を出て一歩、香織に近付いた。その途端に激しい雨に打たれ、瞬く間にずぶ濡れになった。
「頼む。……もう赦してくれよ」
祥吾はその場に崩れ落ちるように膝をつき、頭を抱えてうなだれると、しばらくして顔をあげ、ゆっくりと妻の顔を見た。
「もう赦してくれ。……仁美ちゃん――、頼むからもう俺を赦してくれ」
俺は耳を疑った。多村祥吾は自分の妻を〈香織〉ではなく、〈仁美〉と呼んだ。もう赦してくれ、仁美ちゃん、と。
秋本佐栄子は冷たい表情のまま踵を返し、子供と共にエントランスの中へ消えていった。
多村祥吾は跪き、雨に濡れたまま両手で顔を覆って嗚咽をあげた。
仁美と呼ばれた多村香織もまた、肩を震わせて泣き続けていた。
俺は雨を見上げて、天に唾を吐いた。
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