全部捨ててしまえばいいのに

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「ドアの下に泥、あるだろ?それどけないと開かないよ」 開かない扉に途方に暮れていると、後から来た弟の有馬(ありま)がスコップを渡してくる。有馬はそのまま、何も言わずにドアの下にある泥をスコップで退()かし始める。私も有馬に続いて、鉛のように重い泥を必死で動かす。 「あー、水で少しドアが膨張してるなぁ。姉ちゃん、少し下がってて」 ぼんやりと動く私と違って、有馬はテキパキとドアを開けるために作業してくれる。学生時代は喧嘩ばかりして絵に描いたようなヤンキーだった弟だが、その時に培われたのか、度胸だけは座っている。こんなことになってどうすれば良いか分からない私には、凄く助かる存在だった。 「ほら、開いたよ」 ガチャっと鈍い音を立てたドアは、ゆっくりと有馬の手によって開けられた。 「うわっ、くっさ」 開けた瞬間、物凄い悪臭が私達の鼻を突く。犬のフンと腐った野菜を混ぜたような、汚い下水のヘドロのような、何とも言えない匂いだった。 私の家の玄関といえば、いつも大好きなカモミールのフレグランスの香りがしていた。開けた瞬間に良い匂いがすると、一日の疲れが吹っ飛んだ。しかし私が知っているカモミールの香りは、もう一ミリだって感じられない。 「何、これ・・・」 悪臭の次に私達を迎えたのは、散乱した家具の山と、家中を覆った泥だった。元夫とこだわって選んだダイニングテーブルも、奮発して買った赤いソファーも、趣味で集めていた映画のDVDも、大好きだったフカフカのブランケットも、とっておきの時に飲もうと思っていた高級ワインも、みんなみんな真っ黒な泥の波に飲み込まれていた。録画して繰り返し見ていたお気に入りの番組だってもう二度と見られないし、一足だけ持っていたルブタンの靴底が赤いハイヒールだってきっともう履けない。私の些細な日常が、一瞬にして全て消えてしまったのだ。 「少しずつ・・・片付けようか」 「うん・・・」 涙目になってその場に立ち尽くす私の肩を、有馬がポンと優しく叩いてくれる。こんな時に頼れるのが弟しかいないのが正直情けないが、弟だけでもいてくれて本当に良かったと思う。 私がこんな状況に陥ったのは、一日前の休日からだった。
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