全部捨ててしまえばいいのに

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私は混乱しながらも、とりあえずここから逃げなければいけないと、慌ててクローゼットから一番大きなボストンバックを取り出す。そこに思い付く限り、必要なものを詰め込んだ。数日分の下着、数日分の洋服、ヘアアイロン、化粧品・・・あとは何だろう、こういう時は何を持って出れば良いのだろう。 「早く、早く逃げて下さい!」 私がノロノロと考え込んでいると、消防士の大きな声がマンションの廊下に響いて聞こえる。どうやら私の他にも、逃げていない人が何人かいるようだった。結局何を持って出れば良いかなんて大して思い付かないまま、私は慌ただしく部屋を出た。この時はとにかく必死で、まさか次に戻ってくる時に部屋中が変わり果てた姿になっているなんて想像もしてなかった。 逃げろと言われて外に出たものの、どこに逃げれば良いかなんてサッパリ分からなかった。こんな経験生まれて初めてだし、私は一人で相談する相手もいない。 「あの・・・どこに、どこに逃げれば・・・!」 マンションのエントランスに残っていた消防士に、藁にもすがる思いで問いかける。 「とりあえず近くの小学校に避難してください。急いで!」 近くの小学校と言われても、子どもなんていない私は小学校の位置なんて把握していない。歩いて登校する小学生は何度か見かけたことがあるが、その程度だ。 スマートフォンの地図アプリを起動して、小学校の位置を確認する。初めて知ったが、この近くには二つほど小学校があった。近くの小学校って一体どっちだよと思いながらも、徒歩の距離が少しだけ近い方を選んだ。外は滝のような雨が降っていて、私がさしているビニール傘はボタボタと大きな音をたてて雨に打たれている。長い時間歩いていたら大きな穴が空いてしまうのではないかと、心配してしまう程だ。 「え・・・なにこれ・・・」 そして外に出た私を待ち受けていたのは、消防士の言っていた通り、本当にすぐそこまで迫ってきている多摩川だった。カフェオレのような薄茶色の液体が、少し前の道路や家を飲み込んでいる。十年この地に住んでいるが、こんな光景は見たことがなかった。そしてそのカフェオレは、もうすぐ私の部屋にも届きそうな勢いだった。マンションの前の道路はすでに足首ぐらいまで、冷たい水に覆われている。辺りには大きなサイレンが鳴り響き、拡声器で避難を促す声があちこちでこだまする。その光景はいつかテレビで見た、戦争中に空襲から逃げる様子にどこか似ていた。
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