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ばあちゃんは若い頃、陸上選手だったらしい。将来はオリンピックに出たかったのだそうだ。学生の頃の写真を見ても、運動不足でひょろひょろの僕とは大違いだ。
お経が響く会場で、壇上をぼんやり見つめながら、そんなことを思い出していた。
健康のために運動はしておきなさい、という言葉が、進路に迷う僕へ向けた、ばあちゃんの遺言になってしまったからだろうか、それとも。
会場のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。
しわくちゃの顔を更にしわくちゃにして笑う、壇上に飾られた写真の中のばあちゃんの、朗らかな雰囲気とは対照的だ。
ばあちゃんは明るいひとで、とても慕われていた。ばあちゃんとの別れを、皆が惜しんでいる。
かくいう僕も、もちろんそうなのだが。
いま、僕は不思議な光景を視ていて、とてもではないが泣くどころではない、申し訳ないことに。
ばあちゃんが遺影の隣に立っている。それも、若い頃の姿で。
透けてはいないし、立つ脚があるから幽霊ではない、と思う。だから、僕はこれを幻覚だと思うことにした。
けれども無視するには、幻覚のばあちゃんは妙にリアルだった。
他の人には見えていないようだから、僕は何でもないふりをしなければならないのだが、破顔する自らの写真の横で、生真面目な顔をして立つ若いばあちゃんが、妙におかしく思えてしまう。
そのうえ、真っ赤なタンクトップにゼッケンをつけ、これからひと走りするような格好をしていた。葬儀場なのに。葬式を挙げられている本人(の幻覚?)が、葬式に一番ふさわしくない格好をしているだなんて、何のジョークだろう。葬儀が始まるまで想像もしていなかった、シュールな光景に吹き出さないよう、僕は細心の注意を払わなければならなかった。
泣くどころではないのだ、申し訳ないことに。いや、この場合、誰に申し訳ないと思えばいいのだろうか。遺影のばあちゃん? その隣に立つ幻覚のばあちゃん? それとも、もう二度と会えないと嘆き悲しむ会場のひとたち?
僕はよくわからなくなって、ただ無心で目の前に立つ幻覚のばあちゃん、ではなく、ばあちゃんの遺影を見つめることにした。
妙にリアルな若作りの幻覚よりも、遺影を見つめていた方が、葬式に参加している実感が湧くと思ったのだ。
そうこうしているうちに、つつがなく葬式が終了した。
あとは霊柩車を見送り、家族として火葬場までマイクロバスに乗って移動することになっている。
葬儀の間、ばあちゃんはずっと壇上に立っていた。いついなくなってしまうのか見届けようと思っていたが、見送りのためぞろぞろと移動する参列者に僕がもまれているうち、気がついたらいなくなっていた。
それを寂しく思う自分がいたが、生きているかのようなばあちゃんの姿を少しの間だけでも視ることができたのは、望外の幸運なのだろう。他の人に話せないのが残念だ。
霊柩車を待ちながら、ばあちゃんの来し方に思いを馳せる。
将来有望な女子選手として活躍したばあちゃんだったが、結婚を機に、陸上を完全にやめたらしい。そうして、亭主関白のじいちゃんを長年支え、見送った時には、歩くのにも苦労する老婆の体になっていた。
ばあちゃんは、毎年、テレビで流れる正月の駅伝を羨ましそうに眺めていた。痛みを抱えた膝をさすりながら、こんなに走れるのはいいわねえといっていた後ろ姿が印象に残っている。
天国では、思う存分走れればいい。
そこで、はたと気がついた。
思う存分走るために、幻覚のばあちゃんはあんな格好をしていたのだろうか。あるいは、自由に走ってほしいという僕の願望がそう見せたのか。
なるほどと納得したところに、霊柩車が姿を見せた。
皆に合わせ、僕も一礼して霊柩車を送り出す。
ばあちゃんなら車で運ばれるよりも自分で走りたかっただろうなと思いつつ、角を曲がって消えるまで霊柩車に頭を下げていた。
僕もここにきてようやく、しんみりとした気持ちになったようだった。
そして、ゆっくり顔をあげ、さて移動しようとしたところで、僕の感傷的な気分は、すぐさま打ち砕かれることになる。
視界の端に、赤いタンクトップがうつった。
まぎれもなく、先程見失った幻覚のばあちゃんだった。
僕は混乱したが、ばあちゃんはもっと慌てているようだった。
周りをキョロキョロ見て、何かを探している。
思わず怪訝な顔をして見ていると、ふいにばあちゃんと僕の目が合った。
僕は心臓が飛び出そうになったが、ばあちゃんはばあちゃんで驚いているようだった。
時が止まったような気がする。
先に動き出したのは、ばあちゃんだった。
何やら口を開け閉めし始める。
声は聞こえなかったが、言っていることはわかった。
「れ」
「い」
「き」
「ゆ」
「う」
「し」
「や」
「と」
「こ」
霊柩車、どこ。読唇術など全くわからないのに、僕にはなぜかはっきり理解できた。
事情は知らないが、霊柩車に置いていかれたらしい。
僕は呆れながらも、霊柩車が去った方向をまっすぐ指差す。あんた何やってるの、と隣にいた母さんがいうが、それどころではない。
ばあちゃんは、拝むように手を合わせてから、その方向を向いた。
すぐに走り出すと思いきや、何やら足首を回し始めた。
どう見ても準備運動をしている。
短パンから伸びた足はいかにも健康な若いアスリートのもので、膝を悪くした晩年のばあちゃんの印象が強い僕としては、改めて不思議な感じがした。
はらはらしながら見守っていると、ばあちゃんが地面に両手をついて構えをとった。
位置について、用意。
どん、と僕が数えた瞬間、幻覚のばあちゃんが、走り出した。
傍から見れば突っ立っているだけの僕に、父さんも何かいい始めたようだか、それを気にする余裕もなく、見る見る遠ざかってゆくばあちゃんの勇姿を一心に見つめる。
立ち止まる僕らを置いて、ばあちゃんはどこまでものびのびと自由に走る。
ばあちゃんは霊柩車に追いつけるだろうか。
その姿を目に焼き付けながら、ばあちゃんファイト、と思わず呟けば、長い脚を精一杯のばして走る若い頃のばあちゃんが、こちらを振り返って破顔したような気がした。
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