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「熊さんと八つぁんが殴り合いのけんかをして二人とも死んでしまった。仲裁に入ったご隠居も殴り殺されて死んだ。長屋に誰もいなくなった。これじゃ落語が続けられない。俺はどうしたらいいんだ。商売あがったりだ。死にたいよ。死ぬより仕方がない」
「お気を落しにならないで下さいましな。あなたは立派な方ですわ、ほんとうですよ。私にはわかりますもの」
「そうかい? あんたにはわかるかね?」
「ええ、よくわかっていますとも。でも私が申し上げているのはあなたの心の底のことではなくって……あなたがそんなに落ち込んでいらっしゃるということだけなのですけれど……」
「それで十分だよ。俺の心の中まで察してくれなくっても結構さ」
「私はただ慰めようとしているだけですわ」
「慰めてくれなんて頼んじゃいないよ」
「では勝手にさせて頂きましょう」
「勝手にしたまえ」
女は黙ってしまった。そして男はまた話し出した。
「まあしかし、俺の言うことを少し聞いてくれても損はないと思うね。つまりこうなんだから……俺は今この世の中でいちばん不幸な男だということだ。その次に不幸になる奴があるとしたらそれは俺だとさえ思うね。それくらい今の俺は辛い目に会っているわけだ。だから誰か同情してくれる人がないとやりきれないじゃないか。ねえ奥さん、何とか言ってくれないかなあ。俺は本気で言っているんだよ。嘘じゃないよ」
「はいはい、よくわかりましたわ。でも私は何を言えばよろしいのかしら?」
「何だっていいよ。何でも好きなように言ってくれればいいんだ。それが一番ありがたい」
「では言いますけど……まず第一にあなたは本当にひどい仕打ちを受けていらっしゃるようですね。第二にあなたはその人に対して何か罪を犯したわけではないようですわね」
「ああそうだよ。罪なんか犯してやしない。ただむしゃくしゃしていただけだよ」
「第三にあなたがその人を憎んでいらっしゃることだけは間違いありませんわね」
「もちろんだよ。誰があいつのことを好きになってやるもんか!」
「第四にあなたは自殺する勇気もないほど意気地なしの方だということがわかりました」
「うん、その通りだ」
「第五にあなたはまだその人を殺したくないという希望を捨てていらっしゃらないことが確からしいと思います」
「そりゃそうさ。殺したくないから困っているんじゃないか」
「第六にあなたはもうその人と会うことはないだろうと安心し切っていらっしゃることが考えられます」
「どうしてだい?」
「第七にあなたはこの世に生きている限りいつかは救われるという希望を持っていらっしゃることを確信しております」
「第八に俺は自分の心をうまく制御できない人間ではないということをはっきり理解しているつもりだ」
「第九にあなたは自分の不幸を他人のせいにすることのできない性分であることを自覚していらっしゃいます」
「第十に俺は自分を憐れみ過ぎるような馬鹿者ではないことも知っているよ」
「第十一にあなたは自分一人の力で生き抜いてゆく力を持っていることを保証なさって下さっております」
「第十二に俺は自分が幸福になれるかどうか試してみるだけの度胸のある男だということも認めて貰えるだろうな」
「最後になりますが……これは私の考えすぎかもしれませんけれども……あなたがまだ人を殺めていないということは……ひょっとするとあなたがこれから先人様のお命を頂戴するやも知れませぬ」
男はちょっと考えていたが、やがて言った。
「なかなか鋭いことを言うね。ところで、どうしてこんな俺に親身になってくれるんだい」
「それは私が『まくら』だからです」
「まくら? まくらって言うと、あの枕のことかい」
「さようでございます」
「おめえさん、ずいぶんと変わった名前だな。まくらか…。可愛らしい名前じゃねえか。お前さんの物腰、まくらみてえだ。」
「あら、まぁ」
女は顔をほころばせた。
「よし、お前さん、気に入った。俺と一緒に暮らさねえか?」
こうして二人は仲睦まじいめおとになった。
ある日のよる、枕を並べていると夢もとに熊さん、八つぁん、ご隠居が立った。
三人は大きな声でこう言った。「もし君達夫婦が私達の敵でないならば早く帰って来て下さい。さあ帰った帰った」「じゃまた来ますぞ。御機嫌よう、さようなら」「御免よ」。そこで女は目を覚ました。男も女の夢から醒めた。二人ともひどく驚いて顔を見合わせたままであった。「どういうこったい、まくら」
男はすっかり青ざめて幽霊の浜風に逢うような表情だ。
「あなた、まさか度胸試しに人斬りしようとなさるんでは? だって申しましたでしょ、『第十二に俺は自分が幸福になれるかどうか試す度胸がある。認めてもらいたい』って」
「滅相もない。そのあとお前は言ったじゃないか。『いずれ人を殺めるだろう』と。冗談はよせやい!そんなことしたら俺だって死罪でい!…いや、まてよ。ひょっとすると俺もそうなっちまって、あいつらんとこへ?」
「ええ、敵でないなら冥土に戻ってこいって皆さん仰られてました。」
まくらが言うと男はガタガタ震えはじめた。
「どうすりゃいいんだ。だいたいあんなの連中の為に人斬りなんか御免だ」
今だから言うが、と男は前置きしたうえで、ご隠居や熊さん、八つぁんの悪口を並べ立てた。挙句は長屋を噺の種にしても観客は沸かないと言い出す始末。
まくらはジッと聞いていたが「度胸があると言う割に意気地なしですね」。
すると男は「何おう? てやんでぇ。晒し首が怖くて高座に立てるか。槍でも鉄砲でも持ってこい。長屋の連中め。出るとこ出てやるぞ」と啖呵を切った。
「でしたら、何も人でなくご自分を殺めればよいのに。ちょうど魚売りから今朝がた仕入れたものがございます」と言ってまくらが厨房に立った。
そして刺身を盛りつけた。
「こんな夜更けにイカかよ」、と男は引く。夏の盛りで臭いがプンプンする。
「さぁさ、ご遠慮なく」
「こんなもの食っちまったら当たって死ぬだろうが」
「イカは足が速いと申します」
「そんなイカサマであいつらんとこへ逝っちまったら、いかれた野郎だと末代まで笑いもんだあ。もっとイカした殺りかたはねえのかよ」
「ヤリイカでございます」
あまりの下らなさに男はゲッソリした顔で言う。
「そうだな。だいたい末代ったって。まだ子供もいない」
「オアシも頂いておりません」
まくらは結納金を請求した。
「おいおい。勘弁してくれよ。参ったなァ」男は頭を抱えた。
それならば、とまくらは代案を耳打ちした。
さて、その日の夜。いつものように夫婦仲良く枕を並べていると性懲りもなく長屋の連中が枕元に立って手招きをする。
しかし今度は二人の態度が違う。
男の方は、さっきまで大言壮語していたにもかかわらず「まあまぁ」とか「これは夢だよなあ?」などと怯えまくって、しきりと自分に言い聞かせるのだ。一方の女房はというと「お気をつけあそばせませ。第十三番目にあなた様の御生命を奪うものがまいりましょう」などとのたまうではないか。男はもう気が動転してしまったらしく「俺はまだ死にたくない。おっかぁー」
と、さっそく隣に住む母親のところへ行き「何とか助けてくれい」と泣いて頼みこんだ。母親は苦虫を噛み潰すように、「お前みたいな馬鹿者は初めてだ。さぁ早くこいつを殺してしまえばいいのに、グズグス言って何をしている。さぁ早いとこやりなされ」と言って代々伝わる天叢雲剣とやらを渡した。
「こいつぁ有難てえ。これ一本で百人力だあな」と亡者どもに斬りかかった。
しかし、暖簾に腕押し。ドッスンバタンと暴れるうちに男が疲れ始めた。
ふとした拍子に刀を奪われた。振り返ると妻が鬼の形相で男に斬りかかった。
憑かれているようだ。
「話が違うじゃないか。冗談じゃねえ。助けてくれい。まくら。俺の女房」
「いいえ。貴方様は夫ではありません」と言うと亭主の方はガックリきたようでその場に突っ伏してしまった。
「亭主じゃなきゃ何だってんだい」
「お忘れですか。あなた様は噺家です」
「話せばわかるで済んだら番屋は要らねえだろう。女房を放しやがれ」
しかし相手が幽霊ではどうにもならない。男は悔し涙で枕を濡らした。
すると奇跡が起きた。まくらが真顔に戻ったのだ。
「あなた、私がまだ人であるうちに斬ってください」と言って刀を返した。
「そんなこと出来るかよ」
「早く、もう猶予がありません。早く」
男は首を振り「俺は下手人じゃねえ。噺家だあ」と叫ぶと台所に向かった。そして手つかずの刺身を頬張り「死なばもろともだ。ちょっと飯が強いがな」と渾身の力を振り絞って長屋の連中に斬りかかった。
しかし、枕につまずいてドッスンバタンとひっくり返った。はずみで急須が落ちて頭に当たった。
男は大の字に伸びて「万事休…みなまで言わせるな!はずかしい」
しかし、頭の打ちどころのおかげか急に何か閃いた様子だ。
ご隠居達の影が薄くなっている。その足元に自分の枕がひっくり返っている。
「そうか。下手な考え休むに似たり。あばよ熊さん八つぁん。南無阿弥陀仏」
そう唱えると女房の枕を蹴り飛ばした。断末魔の叫びと共に倒れる。刀が宙を舞い男の眼前に突き刺さった。
そして気づくと雀が鳴いていた。朝日も差していた。。布団を見ると女房の足だけが飛び出していた。まるで地獄絵である。男は呆然として「おっかぁ」とつぶやくと大急ぎで井戸端に行き、桶に水を汲み頭から浴びた。ようやく正気にかえり改めて布団の中を見てみるとそこにはちゃんと手足のついたままのまくらがあった。夢だったのかと思いつつ枕を撫でてみると、妙な違和感を覚えた。いつの間にか一抱えもある塊が入っていたのであった。それを見た途端に、あの晩の記憶が一気によみがえり背筋を凍らせた。
「どうしたんだい?」
枕元に座っている母親に尋ねたら、「あんたがね、この石を大事にしてるのはわかってるけど、こんなもの持っててもしょうがないんだよ。早く捨てちまうか売るかしておくれ」と言った。
「地に足のつかない暮らしにすくわれたんだ」
男は手を合わせた。長屋の三人がもめた原因は若い衆にあった。よせばいいのに熊さんがご隠居の銭函に手を付けた。まくらは女郎あがりだった。二人が内緒で見受けしたのだ。たちまちバレて修羅場になった。仕方なくまくらは噺家に身を寄せたのだ。だがまくらは男に弄ばれすぎて余命いくばくもなかった。
「四十九日も過ぎちまったのに、こんなものしか建ててやれなくて御免な」
男は手を合わせた。
そういうと天叢雲剣を見やった。
「こいつがなまくらで助かったよ」
あの晩、まくらが大芝居をうつために銭函の残りをかき集めて用意した。もちろんまがい物だ。それでも効き目がある。まくらは長屋の連中は程度が低いからそれで充分だという。命を取られる前に枕を返せ。妖怪枕返しの秘訣だ。
「枕を返したがいいがお前まで帰っちまうことねえだろ」
男は剣を見ているうちに後追いしたくなった。
「こんな物騒な物を下げて歩くわけにはいかないだろ。さげておくよ」
母親は剣を片付けた。「俺はお前にどの面さげりゃいいんだ」と男は嘆いた。
その夜、泣き疲れた枕元にまくらが立った。長屋の男衆を連れている。
「まだおあしをいただいておりません」と恨めしそうに言う。男は激怒した。
「うるせえ。足元を見やがって。今、ケントウちゅうだ」
草薙剣で斬りかかった。しかしこの男、噺を滑らせる責任を長屋連中になすりつけたバチがあたった。ついでに足を滑らせて剣に覆いかぶさった。
「ぐはあっ!こんなところで腹上死かよ。俺はオロチもんだあ」
男は苦しそうに命を落とした。
「いいえ、立派にオチをつけました。だってまくらとサゲは夫婦ですもの」
そういうと二人はあの世へ旅立った。
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