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侑久もその一人だ。
それとなく窓側の最後列に目をやれ
ば、千沙が板書した要点を黙々とノート
へ書き写している。侑久は推薦で合格が
決まっていたが、1月に大学入試セン
ターが行う第一次選抜テストの結果も、
大学に送る必要があった。
ふと、侑久がノートから視線をあげた。
千沙と視線が絡む。と、彼は頬杖をつき、
何かを語りかけるように柔らかな笑みを
向けた。その仕草に、眼差しに、どきり
と鼓動が鳴ってしまうのはいつものこと
で……千沙は慌てて目を逸らす。
――頬に朱がさしているのではないか?
そんなことを心配しながら、ぱたりと
教科書を閉じ、目を伏せるのもいつもの
ことだった。
けれどもうすぐ、そんな心配をするこ
ともなくなる。明後日の世界史が今学期
最後の授業で、年が明ければ彼の姿は
この学園から消えてしまうのだ。
だからもう、教室の片隅に彼の笑みを
見つけることも、その笑みに戸惑うこと
も、ない。
ぞくりと、冷たいものが千沙の身体を
すり抜けていった。自分の前から侑久が
いなくなる。幼馴染という、細やかな
繋がりだけを残して。
その現実が、ひたひたと不気味な足音
をさせ、すぐそこまで近づいている……。
「先生……あの」
背後から声がして、千沙ははっと顔を
上げた。振り返れば、女子生徒が黒板消
しを手に自分を覗き込んでいる。
「もう、消しちゃってもいいですか?」
「ああ……はい。お願いします」
ぼんやりと突っ立ったままそう答えた
千沙に含羞むと、その生徒は流麗な文字
で板書されたそれを、丁寧に消し始めた。
――その日の夕方。
千沙はいつものように歴史資料室のカー
テンを閉めると、パチリと部屋の灯りを
消した。今日は向かいの自習室に侑久の
姿を見つけることは出来なかった。智花
の姿もなかったから、もしかしたら二人
して早々と帰宅したのかも知れない。
そして、御堂が自分を探してここに来
ることもなかった。先週実施された期末
テストの結果が振るわなかった生徒を
集め、補習授業を行っているのだ。
12月の旧暦である「師走」の語源は
いくつか説があるが、「教師が走り回る
ほど忙しい」という意味もあるのだと、
子供のころ母親が教えてくれたのを思い
出す。忙しさの内容は多少違ってくるが、
卒業式を迎える3月も多忙になることだ
ろう。担任ともなればその準備に忙しく、
卒業証書授与の際の名前呼びも練習しな
ければならない。
まさか、感極まって生徒の名前を間違
える、なんてことは御堂に限ってない
だろうけど。
「あの人も大変だな……」
ドアの鍵を閉めながら、まるで他人事
のようにぽつりとそう呟くと、千沙は息
をつき、廊下を歩き始めた。
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