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「おっと」
背にあてられていた侑久の手が、その
ままがしりと身体を受け止めてくれる。
その腕の強さに、初めて触れる硬い胸
に、そしていつの間にか自分よりも高く
なった背丈に、千沙の心臓は爆発してし
まった。
「ごっ、ごめっ!!」
慌てて侑久から飛びのこうとする千沙
の腕をむんずと掴み、侑久はくすくすと
笑う。暗闇の中で、やさしい眼差しが向
けられる。千沙の心臓はもはや、止まっ
てしまいそうなほどに、暴走していた。
「絶対ひっくり返ると思ってた。この
丘、緩やかに見えて、案外、急なんだ。
だから公園が一望できるんだろうけどさ」
そう言うと、ゆっくりと千沙を解放し、
手にしていたパーカーに腕を通す。女性
もののそれは思っていたよりも小さく、
侑久はぴたりと身体に張り付いたパーカー
のポケットに両手を突っ込んだ。そうし
て、ゆるりと月を見上げた。
「ありがとう……お陰で、転げ落ちな
いで済んだ」
何となく、気恥ずかしさからそっぽを
向いてそう言った千沙に、侑久は何も答
えない。その代わり、唐突に、1000年
も昔に詠まれた和歌を口にした。
「なげけとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな」
千沙はどきりとして、侑久の横顔を見
つめる。たったいま、侑久が口にしたの
は百人一首の86番に収められている西行
法師の歌だ。「月前の恋」をテーマに詠
んだ歌で、月を前に心から強く恋人を想
う気持ちを詠んだものだった。
その歌を、どうしていま口にするのか?
千沙は不思議に思い、訊いた。
「それ、西行法師の……?」
「うん。月を見上げたら、何となく思
い出した。古文の授業で百人一首を全部
暗記するように言われたんだけどさ、
一番初めにこれを覚えたからか、ずっと
頭に残ってるんだ」
「ああ、そう言えば……あの学園の
百人一首暗記テストは、毎年、多くの
生徒が泣かされるからな。私もずいぶん
苦労したけど、侑久なら楽勝だろう?」
「楽勝、ではないけどね。でもテスト
はいちおう満点だった」
得意そうに笑って、侑久が千沙を向く。
その顔はいつもと変わりないものなの
に、やはり、いままでよりも大人びて
見える。
――少年から青年へと、変わってゆく。
自分を追いかけていたあの小さな子供
は、もう自分を支えられるほど逞しく
成長し、あと数年もすれば僅かな面影
だけを残し、大人になってゆくのだろう。
そのことに気付いてしまったあの夜か
ら、千沙はなんだか落ち着かない心地で
いる。そうして無意識のうちに、彼の姿
をこの目で追うようになっていた。
その理由は決して、恋心ではないのだ
と自分に言い聞かせながら。
自分は教師で、幼馴染で、彼の夢を
応援する「ちぃ姉」なのだと心に誓い
ながら、ただ彼を見つめている。
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