天野礼子のこと

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天野礼子のこと

・・・・・・  放課後は嫌いだ。  クラスの掃除委員に多数決とは言え、殆んど強制的に任命された天野礼子は、曜日每決められた掃除担当者の、やり残した後片付けをするのが日課のようになっていた。クラスメイトは部活動があるからと言って、礼子に残りを押し付けるのだ。部活動をしていない礼子は、楽しそうに向かうクラスメイトにひきつる頬を隠しながら、「行ってらっしゃい、頑張ってね」と、無理やりの笑顔で見送る。そんな自分が嫌で堪らない。祖父母は二人とも御光(みひかり)の家で働いていたので、家事や夕食の支度は礼子の仕事なのだ。  その日も部活動で賑わうグラウンドの横を、下を向きながら足早に通り過ぎ自宅に向かう。ポツリと冷たい雫が額に落ちた。見上げると、秋晴れの空にいつしかどんよりとした分厚い雲が現れ、みるみるうちに辺りが暗くなりかけている。知らずと早足が駆け足になった。  息を切らし、家の玄関前でドア鍵をポケットから出しながら、郵便受けを覗くと空であった。何時もこの時間には、新聞の夕刊が差し込まれているのにそれが無い。おかしいなと思いながら引き戸に手を掛けると、カラカラとドアが動いた。祖母が早く帰ったのかと、ドアを開けて家に入ると人の気配は無かった。「ただいま。誰かいるの」と、声を掛けても返事はない。  靴をぬぎ、三和土から8畳の居間に上がり隣の台所で手を洗う。うがいをしながら窓に目をやり裏庭を視ると、土塀脇の柿の木の下で祖父が倒れていた。慌てて勝手口から裏庭に出て、「おじいちゃん 大丈夫!」と、側まで駆け寄り覗き見る。 「うっ!……」  そこには、喉にロープが差し込み舌を出し、淀んだ(まなこ)を見開いたまま、曇天を睨み付ける祖父の歪んだ顔があった。横には倒れた脚立があり、ロープが巻かれた柿の木の枝が折れて落ちている。  瞬間的に死んでいるのが解ったが声を掛けてみた。やはり、反応はない。  思えば不思議なのだが、初めて見る、人の死に顔。しかも、尋常では無いその顔つきを見ても、後の対応は自分でも驚く程冷静だった。  幼少から、喜怒哀楽を表に出さない子であった。両親の顔は遺影でしか知らぬ、思い出もない。 幼稚園や保育園に通わなかった為、同じ年頃の子供と遊んだことがない。祖母に手を引かれ御光の家に行く。祖父母が仕事をしている最中は、鶏小屋や豚小屋の薄汚れた動物達を眺めたり、本堂の広い畳部屋で、ひとり絵本を見ながら過ごしていた。人との関わりが希薄だと目を合わせるのが怖くなり、いつしか下ばかり見るのが癖になった。たまに口角を上げぎこちない笑顔をみせたが、それは、不安を隠す本能的な対応術で心など無い。  小学校に入学すると、教育下積みの無い礼子は、他の子供達に学力で差をつけられた。人見知りで、うまく皆の中に溶け込むことが出来ない為、教室ではいつもひとりぼっちでいた。容姿は二重で美人だが、無口で人相が暗く、人を寄せ付けない雰囲気がある。いつしか男子生徒を中心に、 「礼子のれいは ゆうれいのれいだ。ゆうれいが来た、ゆうれいが来た」と、虐められるようになった。  学力面では、2年生になる頃には、他の生徒と大差がない程度まで回復したが、性格は変わらない為、虐めは続いていた。  そんな礼子にも楽しかった思い出がある。4年生の時に、父母参観日に初めて来てくれた祖母の目の前で、『わたしの家族』という作文を発表した際、他の親たちから自分と祖母に対し拍手を貰った。亡くなった両親に代わり、自分を一生懸命育ててくれている祖父母の様子を綴った作文だったが、教室にいた皆が感動してくれた。そのことがきっかけで、以降、虐めは日に日に少なくなって行った。  書く楽しみを見出だした礼子は、以後日記を毎日綴るようになる。書くことで、今の自分と向き合うようになると、これ迄無意識に押さえられてきた感情が徐々に解き放たれ、日記の世界に没入していった。  5年生の時に、『わたしの夢』という、中学進学への憧れを書いた作文が、県のコンクールで入賞した時の感動は、何よりも自身の励みになった。しかし、中学に進学してからの現実は厳しく、いつしか日記を綴る手も止まってしまった。  警察の調べで自宅から遺書が発見され、祖父は自殺と判定された。葬儀は御光の家の流儀にのっとり、粛々と執り行われ、葬儀後、教祖である大原 光洋(こうよう)と祖母は、1時間程本堂の離れで話し込んでいた。その後礼子が呼ばれ、正式に御光の家の信者となる。 「心配なことがあったら何でも相談に乗りますよ。遠慮せず修行に励んで下さい」  同席した光洋の息子 天子(てんし)に笑みを投げ掛けながら言われた。その視線に一瞬、悪寒のような身震いに近い感覚が礼子の全身に走った。  視線を逸らし、小さな声で「はい」とだけ答える。  礼子、14歳の中秋であった。 ・・・・・・  午後から捜査本部に新しい捜査報告が入った。  アパートの大家兼管理人からの情報によると、天野 礼子は最近3ヶ月程アパートを留守にしがちだと言う。  大家の家はアパートの直ぐ裏手にあり、ほぼ毎日、アパート前の駐車場のはき掃除や、花壇の手入れをしているので、住人との挨拶などのコミュニケーションはよくとれている。 礼子とは週に何回か挨拶を交わしていたが、ここ3ヶ月の間は3~4度しか見かけておらず、最近会ったのは1週間以上前になる。 「家賃は口座引き落としになっていますが、今まで滞納はありません。202号室の室内は、生活感が無い程よく片付けられています。 ポストに郵便物が残されていないことから、帰って来ているのは確かなようです」 「室内から、指紋は採取出来ましたか」  新見が川村に尋ねた。 「本人以外のものは検出されていません。大家の証言では、来客は見たことが無いと」 「携帯電話はありましたか」 「ありませんでした。部屋を調べましたが、電話会社からの請求書は見当たりません。口座からの引き落としの履歴も確認出来ませんでした」 (コンビニ払いか……、請求書を処分したのか……) 「大手3社には、ガイ者との契約が無かったか調べているところです」  就業先スーパー大川での報告。  仕事は加工食品や菓子の品だし担当で、月曜日から金曜日の9時から16時迄勤務し、途中1時間の休憩をとっている。勤務態度は真面目で、欠勤、遅刻、早退は一度もない。職場での人間関係は良好であるが、口数は少なく、同僚に対して、積極的に自分から話し掛ける方ではなかったようだ。入社して3ヶ月程だが、プライベートで交流のある同僚は居ない。  入社時の履歴書から、前職は接客業とあるが、詳しい企業名は記載されておらず、面接官がメモしたような斜め書きで、『アルカディア』とボールペンで書かれていた。 「理想郷ですか……」 「採用担当に確認すると、三島市内の飲み屋と言うだけで……調べると市内にアルカディアという店は2軒あり、1軒は喫茶店で礼子の就業記録はありません。もう1軒は会員制のカラオケパブですが、7月に閉店していた為、現在詳細を確認しております」  16日に利用した、沼津市下香貫のリラクゼーション施設『楽もみ』の報告では、パソコンの顧客管理情報から、21時から22時の施術利用が確認出来た。男の同伴者がおり、ペア予約を、当日19時頃、同伴者の携帯電話からされている。  履歴によると、1年程前から二人で来店するようになり、過去10回の利用が確認出来た。顧客管理名簿には住所の記載は無く、氏名、生年月日、携帯電話番号のみ記されていた。男は斎藤 政志52歳。施術担当の指名は無く、その時その時で、空いているスタッフが担当している。  施術をしたスタッフの話では、身長170cm以上で筋肉質のがっちりした体格。施術中は寝てしまう為、会話は殆んど無かった。礼子とは親しい様子であったと言うが、ふたりとも店内では寡黙で、スタッフとは、体のコリ具合程度の話しかしていなかったと言う。  レジ真上、天井にカメラが設置されているが、これはスタッフの不正防犯用のもので店内は撮られていない。レジ精算は、客の待つテーブルで行われていたので、カメラに映っているのは、金銭の出し入れと、レジ周辺を往来するスタッフの行動だけであった。 「携帯番号から住所は」 「はい、沼津市在住です。現在捜査員二名が斎藤の自宅に向かっております」  Wolfgangコンサートが開催された、三島市民文化会館小ホール会場入り口防犯カメラを調べた結果、天野 礼子らしき人物が映っていたのが確認出来た。  入場時間が混雑していた為、同伴者がいたかどうかは定かではないが、文化会館窓口でコンサート2週間前に、礼子の席と合わせ隣の席が一緒に購入されていた履歴が残っている。どのような人物が買ったかは不明であるが、全席指定の入場券の半券は、2枚とも確認出来ているので、来館したことに間違いはない。  コンサート終了後の防犯カメラも同様に、混雑の為同伴者は特定出来ていない。 「会場内のカメラはどうなんでしょうか」 「前方天井から1台、後方天井から1台の計2台のカメラには、ガイ者の隣席に同伴者らしい男性が映っていました。遠目で人相がぼやけていた為、現在鑑識による解析処理が行われています」 「いろいろと進展がありましたね。ところで、ビルの防犯カメラと周辺の聞き込みはどうですか」 「はい、コンビニ入り口にカメラが設置されていますが、隣ビルとの路地は死角になっていて、確認が出来ませんでした」 「他にカメラは無いんですか」 「ビル裏手、非常階段の前が、2階に入っている警備会社の駐車場になっています。非常階段から駐車場に向けているカメラが一台ありますが、駐車場側の道路から制服を着た警備員以外、人が入った形跡は映っていませんでした」 「そうですか……」  ふたりが会話をしていると、先程まで捜査員からの電話を受けていた大木から報告が入った。 「只今、コンビニ店員への聞き込み報告がありました。ガイ者らしき人物が、男性と一緒に買い物をしている様子が、店内の防犯カメラに映っていたそうです。時間は21時35分、コンサート終了後です」 「文化会館からビルのコンビニ迄は、歩いて10分程です。コンサートの終了が21時なので時間的には合致しますな」  川村が新見に耳打ちした。 「ガイ者は買い物はせず、男性だけがレジで精算しています。ペットボトルコーヒー飲料1本、ミネラルウォーター1本と週刊紙1冊です。21時42分に店内を出て、駅方面に歩いて行く様子も、入り口のカメラに映っていました」 「至急、コンサート会場の男との照らし合わせを」 「はい、そのように指示を出しました。防犯カメラの映像を持って、署に向かっております」 「ご苦労、現在解析中の画像と確認するように」 「はい」  会話の直後 、鑑識課担当が会議室に入ると、足早に新見の前に駆け寄った。 「申し訳ございません、司法解剖にひとつ見落としがありました。天野 礼子に右の卵巣がありませんでした。随分昔に摘出された手術痕があります。左側は、早発卵巣不全でした」 (不妊症……)  新見はその報告に一瞬言葉を失った。 「そうはつ……卵巣不全とは、どんな病気なんだ」  川村が眉をひそめながら確認した。 「40歳前の早い時期に卵巣機能が低下するもので、天野 礼子の場合は早発閉経。卵胞が枯渇して、永久に月経が停止するタイプです」 「卵巣が死んでる……それじゃあ、こどもが出来ないって事なのか。いつ頃からなんでしょうなぁ」  川村は、眉間に皺を寄せたまま視線を落とした。 「一般的に片方の卵巣が失われても、もう片方が機能していれば妊娠は可能だ。早発卵巣不全であっても不妊治療の方法はある。だが……」  新見も又、川村と同じように、いつから閉経したかということに(こだわ)った。
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