川村修のこと

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川村修のこと

 沼津市上香貫の斎藤 政志宅は、150坪程の敷地に建つ切妻屋根の二階建てで、門構えの立派な邸宅である。  自宅には(あらかじ)め在宅確認の電話をしたが出なかった。  表札を見ると斎藤と木板に行書で書かれている。門に設置してあるドアホンを鳴らすと応答があった。 「三島警察署から参りました。恐れ入りますが政志さんはご在宅でしょうか」 「あ、あいにく留守にしております」  枯れた女性の声で返答があった。少し慌てた様子である。 「政志さんのことでお話を伺いたいのですが」 「……はい、少々お待ち下さい」  暫くすると老婦人がドアから出てきた。  歳は80近くか、小綺麗な服装で髪もセットしてある。聞くと斎藤の母親だと言う。 「ここでは何ですから……、玄関の方へどうぞ」  捜査員二人の警察手帳を確認すると、玄関の中に案内した。 「今日は仕事に出ております」 「お仕事はどちらですか」 「今日は多分、清水町の方だと思いますが」 「ん、と言いますと」 「飲食のお店を3軒やっておりまして。今日は沼津港で仕入れをしてから清水町の店に行くと、朝早く出かけて行きました」 「なんというお店ですか」 「アルカディアというパスタ専門店です。あの……、政志がなにか」 「いえ、ある事件で少しお話をお伺い出来ればと思いまして。お店の電話番号を教えて頂けますか」  母親から番号を聞き捜査員の一人が携帯で店に電話を入れる。もう一人の捜査員が他の2軒を母親に確認すると、三島市と沼津市に同名で喫茶店を経営していた。  パスタ店に電話をしたところ、今日は一度も見ていないと言う。ただ、斉藤が仕入れた魚介類は冷蔵庫に保冷されていたことから、仕入れ後店に寄ったことは確かなようだ。いつもなら社員が来るまでに定番メニューの仕込をするそうだが、今日に限ってされていなかった為、朝から厨房はてんやわんやだったと言う。その後斎藤からの連絡も無く、店から電話をしても繋がらない状態らしい。他の2軒も同様に、斉藤との連絡がとれずにいた。  捜査員はすぐさま捜査本部に携帯で報告をした後、斎藤の写真を母親から借り、携帯で撮った数枚を署に送信した。  捜査本部では持ち込まれたコンビニの映像と、コンサート会場で映っていた男が同一人物であると確認出来た。斉藤とは違う人物であった。  その後新たな情報が入り、現場ビルの六階空きフロアには、7月まで会員制のカラオケパブ『アルカディア』が入居していたことが判明。更にコンビニ店長からの証言で、カメラに映っていた天野 礼子が、アルカディアのホステスだったことが明らかになった。仕事帰りによく買い物をしていたと言う。  カラオケパブ『アルカディア』の経営者は斎藤 政志である。  本部が一気に動いた。  川村副本部長の指示の元、重要参考人として斉藤 政志と、コンサートに同伴した男の足取り捜査に、集中的に捜査員が動員された。  時間は16時を少し回っていた。 「任意同行しか求められないが、今のところ斉藤とコンサートの男が、被疑者に一番近い存在ですな」  川村は鼻を荒くして新見に目配せし、笑ってみせた。 「今のところ、そのようですね……」 (川村さんは変わってないな)  新見は10年前に刑事として、初めて入署した三島警察署時代の初日を思い出していた。  大学卒業後警察学校の研修を終え、派出所での勤務を1年勤めた新見は、2年目から三島署の巡査長刑事として配属された。ノンキャリア組としては2年目で巡査長は異例であった。 巡査から巡査長への昇進は、大卒なら最短で巡査歴2年を経て指導力を有する者に対し、高卒なら10年目で自動的に与えられる。  新見のそれは、派出所時代の功労が大きく影響していた。  ・・・・  沼津駅前派出所に勤務して半年後、駅近くの仲見世商店街の居酒屋で事件が起こった。  酒に酔った中年男性客が隣席の若いカップルとトラブルを起こし、持っていた登山ナイフでカップルの男性を威嚇した。  110番を受けた派出所から急行すると、止めに入った店員の大腿部を刺し、出血を見て動転した男がナイフを他の客に向けている。  新見は瞬間的に、「いかん!」と声を張り上げ中年男と客の間に入り、自らの左上腕を切りつけられながらも、ナイフを持った腕を掴み背負いで投げ倒した。倒れた男の右手に素早く手錠をし後ろ手にしてから、左手首にも手錠をかけ男が身動き出来ないのを確認した後、刺された店員を仰向けにして、大腿傷の状態を目視しながら三和土上にあった座布団を二つ折りにすると、止血の為店員の膝の下に当てた。  一瞬の出来事に、周りの客達は身動ぎひとつ出来ず呆然と立ち尽くしている。 「店員さんタオルとビニール袋を速く!」  との呼び掛けに、ようやく辺りを囲う客達が我に返った。  新見は中年男に睨みを利かせながら、店員の股下足のつけね部分をタオルできつく縛り、傷口に三つ折りにしたフェイスタオルを二枚重ねた後、感染防止の為、ビニール袋で自身の手を覆いタオルの上から傷口を押さえ、出血具合を確認しながら近くに居た客に座布団を要求し、足を更に高く上げた。他の客達は不安な目で見守っている。  暫くして救急車と所轄の刑事が現場に到着し、負傷者は処置後直ちに病院に搬送され、犯人は逮捕された。  自身の上腕の傷にタオルを当てながら肩口で頬の汗を拭った瞬間、客達は新見の背中に向かい一斉に拍手を贈った。  振り返りその状況に唖然とした新見であったが、直ぐ様背筋を伸ばし腰を折り、頭を深く下げた。  拍手は暫く鳴りやまなかった。  翌日の各社新聞には事件の記事が一斉に載り、地元のメディアで大きく取り上げられ報道されると、新見は一躍『時の人』となった。  その後、警察官として人身を守る勇気ある行動と負傷者への適切な応急処置、何よりも、警察に対する市民への印象向上に貢献したとして、静岡県警から表彰を受けている。  三島署の皆が、派出所時代の武勇伝を知っていただけに、入署初日から視線がやたらと気になる。署長にも「期待しています」と言われた。 (特別扱いだけは勘弁してくれよ)  二階の刑事課に入り、川村巡査部長に挨拶に行くと、 「噂は聞いているお手柄だったね。しかし特別扱いはしないよ、やりにくいだろうからね」  川村は嫌味のない気さくな笑顔を向けた。  新見はその言葉に救われた思いがした。 「本日より配属になります、新見 啓一郎です。よろしくお願いします」  蟀谷に素早く掌を当て敬礼をすると川村は、 「私服だから、(かしこ)まらなくていい。よろしく頼みます」  と 、笑ってみせた。  思わず新見もつられて微笑した。  川村からは、刑事のイロハを叩き込まれた。  ・・・・ 「そろそろ交代の時間です。ここは私と早川巡査部長で見ますから休まれてください」  仮眠休憩から戻って来た早川を確認すると、新見は川村に声を掛けた。 「もうそんな時間ですか……。解りました」  川村は早川に現状を引き継いだ後、 「警部は今夜はどうされますか」  と、新見に尋ねた。 「私は警察公舎に泊まる予定でいます。大木刑事が準備してくれたようです」 「大木からは聞いています。あそこじゃ余り休まれんでしょう……。どうですか、良かったら我が家で過ごしませんか」 「ありがとうございます。しかし……」 (それでは川村さんが休めない。大木の面目もある)  察した川村は、 「解りました。では後程、七海に手料理でも持たせましょう。警部が来ることは伝えてありますので」  と、ニコッと笑った。 「それはありがたい。七海さんの料理は格別ですからね」  川村の娘のつくる肉じゃがが、大のお気に入りだ。  三島署時代独身寮に入っていた新見は、川村家の夕食によく招待された。  当時地元の短大に通っていた七海は、派出所での活躍を知っていて新見のファンである。早くに母親を亡くし父と二人で生活をしていただけに料理はお手のもので、新見のリクエストに応えるのが嬉しくてたまらない。  そんな七海を妹のように思い、川村家では楽しいひとときを過ごさせてもらった。
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