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川村七海のこと
夜7時を回ったが新たな報告は上がって来なかった。新見は何かやり残した気分で公舎に向かう。重要参考人二人の足取りもそうだが、山梨県警に依頼した、礼子の過去状況を知りたかったのだ。
公舎に着いてロビーのエレベーターを待ちながら、山梨県警には、明日一番で問い合わせてみようと考えていると、
「啓一郎さん」
後ろから声を掛けられた。
不意を突かれ振り返ると、胸の辺りで鮮やかな薄桃色の風呂敷包みを抱えた、若い女性が微笑んでいる。七分袖の淡い水色のワンピースに、軽くニットを羽織った清楚な美女である。
一瞬、慎ましやかな公舎のロビーに華を見た気がした。
「七海です……、忘れちゃいましたか?」
「ななちゃん……い、いや、雰囲気が変わってて。お久しぶり」
「こんばんは、見違えたのぉ? なんてね、ふふっ……父から啓一郎さんが来ると聞いて嬉しくて。はいこれ」
風呂敷で、綺麗に花包みされた三段重を受け取りながら、
「ああ、川村さんからは聞いているよ。僕もななちゃんの料理が食べられると聞いて嬉しくて、ありがとう」
「私の味、覚えていてくれたんだ。そうそう、肉じゃがも入れときましたからね」
二人は、ロビーにある待ち合い用のソファーに座った。
「川村さんは休まれているかな、昨夜から署に詰め通しだったから」
「父は今、イビキをかいてます。大きな事件だから気が張ってたみたい」
笑みをこぼした後、
「なんだか最近は胃の調子が悪いようで……、少食なんです」
と言うと、七海は軽く目を伏せた。
「そうなんだ。署ではそんな様子見せなかったけど、潰瘍でもあるのかな……、病院には行ってるの」
「診てもらいなさいって言っても、自分の体は、自分が一番よく解ってるって。……ちょっと心配」
新見に目をやり、気がきでない表情をみせた。
「そうだったのか……」
コツコツ……
後方から足音が聞こえた。公舎に入る若い制服警官である。
咄嗟に七海は、
「あっ、私そろそろ帰りますね。ここ男子棟だから、誰かに見られたら、啓一郎さん困るでしょ」
と言って立ち上がる。
「いや、そんなことは……。ななちゃん車で来たのかい」
「ううん、歩いて15分だから」
「それでは送って行こう、もう暗いしね。部屋にこれを置いてくるから、少し待っていてくれるかい」
座るよう促すと、エレベーターに向かった。
部屋に荷物を置いて一階に戻ると、ソファーの横に立って七海が待っていた。背筋を伸ばし、真っ直ぐ新見を見つめている。
車まで案内すると、
「夜風が気持ちいいから、歩きたいな」
緩やかに揺れる髪を片手で押さえ、上目づかいで微笑んだ。
「ああ、そうしよう」
七海の提案に、新見も笑顔で応える。
二人は並んで、ゆっくりと歩き始めた。
「啓一郎さん、LINEしてますか? 良かったら交換しません」
七海は、スマートフォンを軽く振ってみせた。
「仕事の邪魔はしませんから、ねっ」
新見は立ち止まり内ポケットからスマホを取り出すと、七海に言われるまま、LINEの交換をした。
七海はスマホに向かったまま、
「啓一郎さんは、まだお独りなんですか」
と尋ねた。
突然の問いに焦りながらも、
「ああ、仕事尽くめでね。ハハッ……婚期を逃したようだ」
と、少しおちゃらけて言った。
「あの方のことを、忘れられないのかな」
七海は真顔で返した。
新見は、彼女の不安げな瞳の奥に微かな眩耀を見た。何かを確かめたいという思いが込められている。
真由理とのことは、七海も承知している。
少しのあいだ会話が途切れた。
沈黙に堪えきれなくなった七海は、
「啓一郎さんに送って貰って良かった。いつもはあの山の上に月が見えるのに、今夜は新月かしら、少し暗いわね。でも代わりに星があんなに綺麗。……生まれたてのお月様って可愛い」
と、山を指差し笑った。
見ると、月の上弦に、僅かな光が漏れている。
(朔月……、昨夜は暗闇だったのか)
新見の脳裏に、現場の様子が浮かんだ。
七海は、遠くを見据えるような新見の横顔を覗き込むと、直ぐに、事件のことを考えていると察した。それは、子供の頃から見慣れた父と同じ顔つきだった。
「啓一郎さんありがとう、此処でいいわ。明日も早いでしょ、ゆっくり休んでね」
「えっ、ああ でも……」
「事件のことを考えているんでしょ、解るわよ」
(思ったことはズバリ言ってくる。昔と変わらない)
「またお弁当作るね、お父さんに持たせるから食べてね。お休みなさい」
と言うと、セミロングの髪をなびかせて軽やかに走って行った。
新見は後ろ姿を目で追いながら、なぜだか七海の、甘いリンスの残り香を惜しむ気持ちに駈られた。
公舎に引き返そうと向きを変えると同時に、胸ポケットのスマホが振動した。見ると七海からのLINEの着信だった。
『今日はお話出来て嬉しかった😊
お仕事応援してます。頑張ってね🍀』
新見は振り返り、七海の帰った道に目をやりながら笑みを浮かべた。
(念う新月、裏を返せば朔……失意の暗闇か)
誰かが笑い誰かが泣く、そんな夜がまたやって来る 。
月のない夜はやけに星が近い。一筋の流れ星を合図に、満天の星々が歌い出す。
脳内に静かに響くのは、
ペールギュント『ソルヴェイグの歌』
冬が過ぎると 春は急ぎ足で去り
夏が行けば 年の終わりを迎えるだけ
でも私は信じている
いつか あなたは私の胸に帰ってくると
私は待ち続ける
約束したから......
(流れた星は、誰の涙か)
「幸せにお成りなさいな」
ふと、真由理の呟きが聞こえた気がした。
朝7時に署に着くと、一番で大木から報告を受けた。
「おはようございます。斎藤宅を張り込んでいた捜査員から報告がありました。昨晩は自宅に帰っておりません」
斎藤の母親から聞き取りをした捜査員二名は、その後斎藤宅近くに車を停めそのまま張り込みをしていた。 斎藤は、妻と離婚しており、子供もいない。大きな家で母親と二人で暮らしている。母親は、昨日は一歩も外に出ていなかった。引き続き捜査員交代後任務は継続されている。
「3軒の店の方はどうなんだ」
「各店舗にそれぞれ二名づつ就いておりますが、こちらも動きはありません。引き続き張り込みを継続しております」
「はい解った」
「それと、コンサートに同伴した男の足取りですが、三島駅東側の駐車場出入口の防犯カメラに、駐車場内に歩いて行く二人の姿が映っておりまして、その後、車が一台駐車場から出ております。ガイ者が同乗したかは解りません。時間は21時55分、ナンバーは解析出来ませんでした」
「ナンバー確認が出来なかったのは痛いな。車種と色は」
「それが珍しい車でして、赤のランチアデルタインテグラーレ、92年から95年製のエヴォルツィオーネⅡというモデルだそうです」
「イタリアのラリーカーだな……。生産台数が少ない上に日本での流通は絞られるはずだ」
「へー、警部お詳しいですね」
「あぁイタリア車は好きなんだよ、特にデルタはね。希少価値が上がり、中古市場での取引は高値で売買されている。車に何か特徴はないか、ラリーカーだけに泥除けが大きいだとか、ステッカーが貼ってあるとか」
「はい。車体の上面に、青と黄色のストライプが」
「それならば95年製造の最終ロット、日本市場向けのものだな。限定で200台かそこらだろう。ただデルタの場合、塗装を変えたり、ストライプをあと描きする場合もあるが」
「うひょー、お見逸れしました。先程デルタの情報をググってましたが、仰る通り。その線で所有者をあたっているところです」
大木は握り拳を胸の前で踊らせ、子供のような眼差しで新見を見つめた。
「ところで、川村さんが見えないが何処へ」
新見の問いかけに、
「はい。実は午前4時から勤務に戻りましたが、5時過ぎに急に胃の痛みを訴え倒れ込みまして、少し血を吐いて……そのまま救急車で病院のほうに」
大木はすまなそうな顔をして答えた。
「それを早く言えっ!……血を吐いたのか」
「申し訳ありません。病院からの連絡では胃潰瘍で穿孔の危険が懸念される為、そのまま明日迄検査入院となりました」
「穿孔……酷いな。それで川村さんはどうなんだ」
「先程娘さんから連絡があり、明日には署に戻ると。それまでは、私と早川さんで代行を務めます」
「いや、1日では済まないだろう……。後で病院に行ってくる」
(七海の心配事が現実になってしまった。彼女はどうしているか)
「山梨県警から、天野 礼子の情報は来てないか」
「はい、午前6時頃所轄より報告がありました。河口湖町の本籍地には当時の家屋がそのまま残っていますが、一部崩壊し手付かずの雨晒し状態だそうです。当時の暮らしについては調査中ですが、祖父母が新興宗教に関わっていたそうで」
「新興宗教に……なんという宗教なのか」
「御光の家と言いまして、今は存在しておりません」
「みひかりのいえ……」
「詳しい情報を集めますか」
大木が尋ねた。
「いや、この件は私の方で調べてみる。君は現捜査に集中してくれ、セカンドエフォートを忘れるなよ」
大木は川村から教えられた言葉を思い出した。
セカンドエフォートとは、アメリカンフットボール用語である。直訳すれば「第二の努力」という、人生訓のようにも聞こえる言葉だ。
アメリカンフットボールはラグビー同様、陣地とりをめぐる戦いである。 4回の攻撃で合計10ヤード前進しない限り、攻撃権は相手方に奪われるというルールだ。
ボールを持った選手が敵陣を走るか、パスを通せば陣地が増える。ところが敵は、そうはさせじとタックルをかけてくる。倒され、膝をついた時点で一回の攻撃は終了する。しかしタックルを受け、ああ、もう倒れるといった瞬間に踏ん張り、わずか1歩でも多く走るかジャンプしてボールを遠くに置く。このように、最後の最後、1ヤードでも多く陣地を得るための努力を、セカンドエフォートと呼ぶのである。
川村警部補は、捜査チームを編成する度によく話してくれた。
「たった1ヤードのゲイン。そんなのが役に立つのかと思われるかもしれないが、この1ヤードのプラスアルファーが何を生み出すか……私はこの言葉に特別の価値を模索する。もう倒れるのは確実なのだ、時間の問題なのだ。しかし、そこでできる何かがあると信じているのである。セカンドエフォートがチームを強くするからだ。余力を残さない、倒れる寸前まで最後の力を使い切る、セカンドエフォートのできるチームは必ず強くなる」
「担当はなんと言う人だ」
「富士吉田署の原田巡査部長です。ベテランの方だと聞いておりますが」
「ありがとう、連絡を入れてみるよ。その後に川村さんの見舞に行くので宜しく頼む」
「承知しました。セカンドエフォート、セカンドエフォート……」
大木は繰り返し同じ言葉を呟いた。
富士吉田署に電話をすると担当の原田は非番であり、連絡を取るか確認されたが明日迄待つことにした。
電話を切ると新見は、すぐさまノートパソコンを開き、御光の家を検索した。
検索ページの冒頭には、
宗教法人 御光の家/破産開始決定
代 表:大原 光洋
所在地 : 山梨県都留郡富士河口湖町◯◯-◯
平成11年、同法人は山梨県地裁富士吉田支部より破産手続開始及び解散の決定を受けた。
負債総額 : 7億8千万円
新興宗教として、山梨県都留郡富士河口湖町に本部を置く宗教法人御光の家は、平成11年7月、火災により本堂を全焼。死者二名を出し、その後の動向を注目されたが、同年10月に今回の処置となった。
破産管財人は古田 芳郎弁護士
(古田法律事務所、山梨県富士吉田市旭1丁目◯◯-◯ 電話 0555-22-◯◯◯◯)
との内容があっただけで、それ以外の情報を得ることは出来なかった。
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